噂は千里を走るという
けれど所詮 噂は噂
だから気になど止めはしない

足を向けたわけじゃない
気になったわけじゃない

噂は所詮 噂でしかない
だから
確かめにきたわけでは ない

それなのに瞬く目に映るのは…………





ほんの、一時の



 海人界にまで聞こえたのは、あの悪夢のような戦争の後生き返った人々の中、ただ一人願われ続けながら姿を現さない人間界のナンバーワンの消息。
 自分が殺した相手だった。灰となり風に吹かれ躯すら残さずに、潔いまでに地に還った、相手だった。
 生き返らなくても不思議はないとずっと思っていたにもかかわらず、その噂は瞬く間に世界に広がった。それほどまでに影響力のある人物であることは先刻承知だ。が、それが自分にまで累を及ぼすわけではない。
 彼は自分のものだけれど、自分は彼のものではないから。
 だから、彼が生きていようが死んでいようが意味はない。自分は確かに彼の心臓を奪い、その肉体を一片すら残さずに奪い取ったのだから。
 もしも生き返ったとしてもそれは彼ではない。
 自分が傷つけ抉りとった心臓が、また動き始めるわけがない。灰となり消え失せた身体が復活するはずがない。
 分かっていて、そう納得したはずだった。それなのに知らぬうちに空の上、浮かんでいれば景色が変わる。
 ジャングルの覆い茂った地上が眼下に広がり、見知ったといっても過言ではない風景が網膜に映った。
 忌ま忌まし気に舌打ちをしたところでその音を聞くのは己だけ。そんな空の上で辺りを見回し、不意に視界の端に過った色に無意識に体が傾いた。脳内でそれを認識するより早く、身体だけが触手を伸ばすかのようにそちらへと蠢く。
 ただ少しの休憩をするだけだと言い訳じみたことを考えた頃、顔を歪めて降り立つはずの大地を睨む。その視線の先には小麦に焼けた肌を惜し気なく晒す、長い黒髪を広げた愚かな男が転がっていた。
 彼は無防備に、いつその心臓を再び抉られるかも分からないにも関わらず恐れすら抱かぬような顔でのんきに眠っている。
 戦は終わりまた仮初めの平和は訪れ、確かにいま敵として対峙するものはいない。それでも少なくとも彼にとってはその生涯けして気を許すことなく警戒心を触発されるべき存在が確かにいるはずなのだ。
 こんな風にのんきに眠っていていいはずがない。それを、自分は確かにあの日刻み込むように伝えたはずだった。
 苦味が口腔内に広がり、それを嚥下することを拒むように吐き出す。泥つくような吐息はそれだけで腐敗を招きそうなほど薄暗い。
 気配を殺し、獲物に近付く肉食獣のようにその一歩一歩を慎重に進める。このまま牙を埋め込み血を滴らせ、あの生々しい心臓の動きに喉を湿らせたら、いま感じるこの忌々しさを解消できるだろうか。
 くつりと思うだけでも愉悦に震えそうな甘美さに男は笑う。
 静々と、その姿だけを見たならば優雅なまでに歩を進め、眠る相手を微睡みの中にたたずませるように身の内で哮(たけ) る全てを皮膚の下に留めた。
 吹きかける風の心地よささえ、屠る獲物への鎮魂歌のようだ。
 歪んだ笑みのまま、男は膝を折り、己の影に侵された相手の皮膚を見つめる。未だ眠り続けるその唇からもれるのは、今はまだ浅く緩やかな呼気だけ。
 見下ろす身体に傷はなく、心臓を抉りとったはずのその痕すら皆無だった。
 もともと戦うことを好みはしない、傷つけることを恐れる類いの生き物ではあったが、彼はそれが故に身を削り守るために傷を負う。にもかかわらず、いま眼下にある肉体にその痕跡は見受けることはできなかった。
 やはり、と、男は暗く笑んだ。瞳の中の狂気はゆるりと揺らめく。
 これはあの時屠った生き物ではない。その肉に刻み込んだ痕跡が何一つ残されていない、新しい命。
 自分が幼少時から与え続けた全てを放棄し、拒絶した後の、肉体。
 ……………肚の内から沸き起こったものが、なんであるか男は知らない。
 ただそう思い至った瞬間の、吐き気を思わすほどの衝動だけが、身を占めた。
 揺らめいた殺気よりも深く濃い、その気配に眼下で眠る唇が笑んだ。
 「…………思ったより、早かったな?」
 囁く声音はまろやかだ。少なくとも、見下す視線に見合うものではなかった。
 それを知っているのだろう、ゆっくりと瞼を持ち上げた相手の眼差しの中、僅かながら苦笑の気配が見えた。
 無言のまま、指先を動かし彼の首筋に乗せた。鍛え上げたその首は、けれど男の手のひらでも縊(くび) ることが出来る。少なくとも、実力的に互いに劣っているつもりはなかった。
 相手の実力を軽視するつもりもなく、己の優位を確信するつもりもない。いつだって互いに殺し合えるだけの、その力だけは有し続けた。
 けれど横たわった相手の肉体に緊張は走らない。指先に触れる頸動脈の動きは常と変わらず、鼓動すら揺らめかない事実に先程の気配が濃厚になる。
 それを見つめ、相手の唇が開かれた。まだ指先に力を込めていないので、少なくとも話すことに不便はない。
 「お前のことだから、何年後に来るかと思ってた」
 呟いた声に喉仏が上下する。裏表のない、声だった。事実そう思っているだけの、それだけの声。
 それを見つめ、男は顔を顰める。まるで相手にされていない雰囲気に気配が揺らめいた。
 「あー……安心しろよ」
 不意に、思い出したというように彼は目を細め、微笑むように唇を緩めた。
 凝視する視線の中、それは柔らかな音を紡いだ。
 「俺は、お前の知る、俺のままだから」
 肉体は新しいけどな、と、まるで事も無げに呟いて彼は笑む。まるでなんてことはないのだと、そう示すかのように。
 細胞の一つすら以前の彼ではないというのに、それでも彼は自分の知るままなのだと、いう。
 …………今までのように、決して告げはしない言葉を汲み取って、見透かすように苛立たしいまでに欲しい言葉を紡ぐ、忌々しい唇。
 喪失感、なんて、覚えたつもりはない。彼が彼でないからといって自分にダメージなどないのだ。ただほんの少しばかりつまらない。ただそれだけの価値だ。
 にもかかわらず彼は自分には見えない何かを見つめ、我が侭を振りかざす子供を見つめるように穏やかに、こんな言葉を与える。
 だから彼の心臓を、抉り出したかった。自分には彼の言葉は見えない。彼が自分の心臓の中、蠢くなにかを見つけだすように、自分には見ることが出来ない。
 抉り出して切り裂いて、血に塗れたままその情報を見つけだせば安堵出来るだろうか。そう思ったのに、彼はせっかく取り出した心臓すら灰として、世界へ千々に去ってしまった。
 今ならそれが可能だろうか。ふと思い、喉にかけた指先を滑らせ、心臓の真上に乗せる。トクトクと脈打つそれが、手のひらの下に感じた。
 力を込めようかと、ふうわりと唇を笑みに変える。長年の問いかけの答えが得られると、まるで無邪気に喜ぶような笑み。
 「駄目だ」
 けれどその指先は拒まれた。些細な、小さな囁きで。
 忌々しい唇は拒絶を吐くことなく今まで綴られてきたくせに、今になってそんなものを紡ぐ。これもまた、新しい肉故の、反応だろうか。
 顔を顰め笑みを消し、男は見下ろす相手の顔に影を送る。太陽から遮られた肌は、それでも健康的な色を示していた。
 真っ直ぐに男を見上げる視線。幼い頃から変わらない、どんな感情でもって見遣っても逸らされない瞳。
 喉奥が楽しげに揺れた。それが笑い声に変わるよりも早く、男は体を地に沈める。
 重なった影の先、ぬくもりが唇に添えられた。暖かい吐息の感触。言葉を紡ぐ以外の機能として、生命維持には欠かせない呼吸という行為。
 それを交換しあうように、共有するように、息が重なる。吐息が混ざる。けれど言葉だけは、交わらなかった。
 不思議そうに唇を離し、男は相手を見下ろした。僅かに顰められた顔は、けれどやはり視線を逸らしはしなかった。
 くつりと、男が笑う。
 愉悦を浮かべた瞳が、もう一度同じ吐息を求めて沈んでいく。
 長い年月の間与え続けた所有の証は、あっさりと消えた。傷をもう一度積み重ねるのは容易いが、また同じことが繰り返されない保証はない。
 心臓を抉り言葉を探すより、この唇に触れ言葉を盗む方が、もしかしたら早いかもしれない。
 ………これは肉体にではなく、命に吹き込む傷。
 たとえまたその身が朽ち果て新たな肉を与えられることがあったとしても、命が同じものであれば、この傷だけは消えることがない。
 体に残る傷跡ではなく、目に見えるもの中に潜む言葉ではなく。
 魂に与える傷を贈り、吐息に潜む音を盗んでみよう。
 舌先で言葉を転がすように吐息を確認し、男は喉奥で笑う。自分を見上げる相手の目に映る、自分の顔。間近すぎる距離は互いを屠れる位置。
 触れる唇に吐息を奪われぬように閉ざされた、彼の唇。舐めとり、こぼれる音を探すように口の端に舌を這わす。
 命のやり取りだけでは勿体無い。そのぎりぎりの瞬間まで、長い年月の間探り出すことの出来なかった音の在り処を見つけよう。
 いつかは焦がれ、その心臓を切り裂いてまた探すかもしれない。けれどただ一度のチャンスがまた灰に移るのは惜しいから。
 …………最期の瞬間まで、耐えてみようか。その音を探すために。
 自分の音を盗み続けたのだから、これくらいの報復は安いものだ。そう笑い、男は心臓を弄ぶように指を滑らせた。

 トクトクと流れる鼓動。
 吐息の中に隠された言葉。
 自分には見えぬそれを見、聞けぬそれを聞く、彼。

 いつかは目を抉り、耳を食もう。

 そうして喉を食い破り心臓を開き、その音を見つけるのだ。

 

 最期にすくう音の響きだけに蠢くなにか。

 ………それは誰もが持ち得ながら禁じた、甘やかな饗宴。








 相変わらず暗いなー、アラパー。もうちょっと明るくいこうよ、アラシ。
 いや、初めはね? 私も甘い話にしようと思ったんですよ。相変わらず素直でないね☆みたいな感じで。でも書き進めたらどんどんアラシがダークになっていってしまったんです。なんで?
 ……まあ原作からして少々イッていた方なので許してやって下さい。こういう狂気じみたストーリーはやっぱりアラパーじゃないと書けないね☆(嬉しくないだろうよ)

 子供時代だったらもっと可愛らしいのですけどね。大人になった後は可愛げが少々ヤバい方向に突き進んで凄いことになっている。
 全ての被害は一人に集約されるので一応の体面は保てると思うのですけどね。
 ………………多分。

06.9.24