ふと気付いてみれば世界は春になっていた。
何も見ずにどれだけの時間が経っていたのか、不意に気付かされる。

世界は優しく穏やかで。
世界は美しく清らかで。

何一つ負の痕跡を残さず鮮やかに再生している。

こんなにもしなやかに生きることの出来る存在を、今まで知りはしなかった。
浴びた日差しの暖かさに、頬を伝うなにか。
涙という名さえ冠することの出来ないいとけない羊水は、ただ流れるがままに地面へと還元された。





世界の再生



 ぼんやりと木陰の中から空を見上げる。葉の合間から木漏れ日の眩さが目を射たが、それを幸せそうに細めた瞳で受け止めうつらうつらとそよ風に身を任せる。
 どれくらい、時間が経っただろうか。腕の中の赤子は泣くこともなく安らかな寝息で眠っている。
 不器用で戦う以外の何もできない自分の腕の中、それでもこの赤子は決して不満を漏らすことなく楽しそうに笑ってくれた。………その笑顔の明るさに、幾度救われただろうか。
 微睡みに捕われ眠りの浅瀬で漂う男は腕の中のあたたかなぬくもりに安堵を覚えながらうっすらと幸せそうな笑みを浮かべた。
 ずっと暗闇の中、生きている気がしたのだ。
 日差しを浴びてもそれが暖かいなどとは思いはしなかった。花が咲いても血の色に彩られた戦地のそれしか想起されなかった。
 季節が巡り風景が変わることさえ忘れ果てていた。
 あんなにも荒れ果てた世界は、きっとこの先も見ることはない。それほどにひどかった。そしてそれは永遠に………この命が憔悴し枯れ果てるまで繰り返し再生され続けるはずだったのだ。
 けれど不意にそれは消えた。…………腕の中の、この輝く赤子の手を取ったときから、世界は穏やかさを取り戻した。
 こんな風にまた日差しを心地よく浴び微睡む日がくるなど、思いもしなかった。
 世界が平和になったのだと、そんな風に実感する日がくるなど。
 壊してしまった世界の尊さに押しつぶされて、全てを放棄した弱さを今更ながらに恥じ入れば自分を癒した赤子はまるでそんな過ちさえあって構わないことなのだというように頬を寄せ、その小さな紅葉の手で優しく包んでくれた。
 未だ言葉も通じない赤子でありながらこの子は不思議な子だった。まるで全てを見通しているように自分の痛みを感じ、それを包もうと腕を伸ばす。
 「……………………」
 守りたい、と。また思えることが嬉しかった。全てから逃げるのではなく背負って立ち上がれる強さこそを、本当は求めていたから。
 うっすらと浮かんだ笑みは花の香りを孕んだゆるやかな風に染まり、木漏れ日はなおも優しく二人に注ぐ。
 幸せの象徴のような親子は、木の幹に寄りかかり、午睡の穏やかさの中、しばしの眠りに落ちていた。

 少し遠くからでもすぐにそれが誰であるかは分かった。
 分からないはずもない。この辺りで彼は有名だ。一時は悪名を馳せたともいえるが、その語は昔以上の勇名だった。幼い頃の硬質だった精神の殻が破れ、やわらかくほころんだ彼の姿は荒んだ一時のことを忘れさせるに足るほどに穏やかだった。
 感情をあまり示さなかった幼い頃に比べてその表出の激しさに驚きを伴いはしたが、誰もが好み彼の傍に近付いた。
 多くの人が彼の家を訪ね、相談をし、逆に世話を焼き、一緒に生きることを喜んでいた。
 ………小さい頃は、本当に扱いづらい子供だった、癖に。
 不意に浮かんだ感情に女は軽く息を吐いて首を振った。愚かなことだというように。
 昔は昔だ。永遠に同じものなどありはしないのだから、それを求め続けることは不毛なことだ。進むことを選んだ背中を称えこそすれ、蔑む材料にするほど落ちぶれたつもりはなかった。
 腕の中で安らかに眠る赤子を見下ろし、女は愛しさを込めてその頬を撫でた。あたたかく柔らかいそのまろやかな感触は男も女も関係なく癒す効果があった。
 一歩、前に進む。その勇気はとても大きい。それを女は知っていた。そして大人になればなるほどそれが困難になり、こうして他の命の支えがなくては立つことさえ覚束無いときさえ、ある。
 それは長い年月を生きたが故に凝り固まり弾力を失った命には仕方のないことでもあるだろう。また、あの痛ましい時代を多感な青年に迎えた自分達の傷の深さ計るなど、今更すぎることだ。
 戦いの先に生まれるものなど何もありはしない。女というこの身にはそれがよく分かる。命を産み落とす作業を体内のみで行うからこそ、戦う意味を知っているのだ。
 ………手にした武器で命を搾取し、そうして生まれる命など、ありはしないのに。
 人はあまりに多くを望み猜疑に溢れている。
 だから、こんな風に羽をもがれた命が生まれてしまうのだ。
 「……………………」
 軽やかに吹きかける風と同じ微かさで吐息を落とし、女は視界の端に佇ませていた影の方に足を向けた。
 穏やかに眠る姿など、どれほど久しぶりに見ただろうか。
 ずっと、彼は苦しみのたうっていた。人に近付けばそれが増し、また、己の苦悩に巻き込むことを知っているせいか、彼は決して人里に近付こうとはしなかった。よくその状態で命を長らえさせていたものだと皆がいっていることを知っている。
 当然といえば、当然だ。死ぬことを願えもしない純正さ故に、彼は生きて苦しみ続けた。縊れることの容易さに己の罪の深さがつり合わないと絶望して。
 もういないもののために、彼はその命を差し出し供物と変えた。
 ………愚かな行為だと糾弾することは容易くとも、それを救う術は持ち合わせてはいなかった。戦場を駆けたことのない身に、彼の背負った痛みを知ることは不可能だった。
 「………馬鹿な男」
 眼下には眠る男。呟きは風よりも小さく、自身の耳にさえ聞こえない。あるいは、唇を動かしただけで音とはならなかったのかもしれない。
 膝を折り、穏やかなその寝顔がよく見えるように視線を合わせる。僅かに俯く男の腕の中には、自分の娘と同じほどの眠る赤子が、いた。
 それが誰の子かなど、誰も知らない。……詮索を願わない彼に合わせ、誰もそれを追求はしなかった。
 「本当に………馬鹿な、男なんだから」
 女手がどれだけ重要かも知らず、赤子を一人育てようなどと思って。戦う以外の全てに不器用なくせに、一人で背負おうなど気違いじみていると罵った日を思い出す。
 激昂する自分とは対照的に穏やかな彼は、何もかもを承知しているように笑っていた。
 ………笑って、いたのだ。
 だからもう自分は何も重ねる言葉を持ち得ず、それ以降、この男を罵りはしなかった。もっとも、子を育てるというその行為の愚かさに対してのみだったのだが。
 父親でもないくせに、と。その一言だけは永遠に口にのぼることはなかったことだけが、せめてもの救いだ。
 何となく、分かってはいるのだ。おそらくこの子供は彼の実子ではないだろう。そうでなくては計算が合わないのだ。それでも彼は自身の子供なのだと、そう言い切って慈しんでいた。
 一人背負うには重すぎるものばかり、この男は好んで背負う。
 未来がどう広がるかなど、分かるはずもない。それでもきっとと思うことがある。
 この愚かな男は、このちっぽけな赤子のために生きるだろう。
 ただそれだけのために、生きるのだ。
 それはどれほどまでに愚かな生き方だろうか。…………どれほどまでに、尊い生き方だろうか。
 あふれそうな涙を飲み込み、女は風に揺れた自身の髪が男の肌に触れぬように押さえた。
 今までもこの先も、自分はこの男にだけは触れはしない。
 ………馬鹿で愚かでどうしようもないお人好しで、己の命の重さを知りはしない浅はかな男。
 いつだって正面に立って挑むように睨めるように。
 彼が、自分という存在までも背負わなくてもいいように。守るというそのカテゴリーから永遠に自分は遠ざかろう。
 春の日差しは優しく男を彩り、眠る赤子を包んでいた。
 同じ日差しを浴びながら、それでも一歩、女は後ろに遠ざかった。
 ほんの少し屈むだけで己の長い髪が彼の頬に触れてしまう。

 

 その、微かな距離を、恐れて。








 パーパとアマゾネスは男と女の性差がハッキリしていて書いていると楽しいです。
 父性と母性ともいいますけど。
 揺るがない大木としなやかな柳、みたいなイメージ。

06.4.3