柔らかな風が吹きかける。
それは微笑ましい、風だ。

幼い命たちが醸す薫風。
その鮮やかな香りに酔いながら目蓋を落とす。

瞬きほどの一瞬で消え行く命たち。
自分はそれをすくいとることはできない。
それでも刻めるように祈る。
この腕は儚い命を一体どれくらい覚え続けることができるのか、と。
ぼやくように呟く声を聞くものはいないはずなのに。

薫風が陰り、こちらを見遣る。
顰められた眉は、どこか哀れむように優しかった。





薫風の眼差しに映る景色



 宴会のある日は大抵が大騒ぎのまま終結していた。浴びるほどに飲む酒も、さして自分には効いていない。気分は確かに良くなるが、同じくらいその後にくる澱みもひどいものだ。
 それでも飲まずにはいられないのだから立派な依存症だ。小さく苦笑しながら、空を見上げた。
 鮮やかな月にかすかな雲。満月なのだろうが、欠けているかのように雲に喰われた月がそこにはいた。
 それでも凛と輝く様は、つい先ほどまでの宴会の主役であった子供たちを思わせる。…………思いながら、子供と表するのは誤りかと一人笑った。
 自分にとってはまだまだ年若いが、それでもそれぞれの種にとっては十分な年齢なのだろう。生の躍動を思わせるはつらつとした声によく動く表情。気分の浮き沈みの激しさ。とうに自分が失い、なくしたくないと思うが故の足掻きから真似ている、それら。
 本物ではない自分のそれを、けれど老獪さ故に決して誰にも気付かせはしなかった。おそらく同種のものは大抵がかかる、それは病のようなものだ。そのせいか、竜人には感情の起伏の激しさがよく見られる。
 他種は気付かない。そうして圧倒されている。自分達の種族の偉大さに。
 あえて否定しないのはその畏敬があるが故の平和だからだ。それくらい、誰もが解っている。平伏す相手は強制ではなく自発的に。そうでなければ争いは悠久に渡ると、短い命たちはその細胞に刻まれた記憶からよく知っていた。
 だから君臨する。同列でありながらどこまでも異質に。
 それは今更だ。遥か昔から、そうした部位にいたのだから、いまさら憂えることでもないし、憂える理由もとうに忘れた。
 体の一部になっている棒を両の肩に担ぎ、それに腕を絡める。ぼんやり持ち上げた空には、相変わらずの、月。
 そうしてそれを肴に空気を酒に。
 微睡む思いで味わってみれば、唐突に月光は肴ではなく音となって降り注いだ。
 「リュウ!」
 己の名を確かに呼ぶ声に誰だろうかと思う間もなく振り返り、声を返す。
 「んー、どうした、シンタロー」
 酔っぱらったようなのんびりした調子で答え、気分よさそうに片頬だけで笑みを作る。
 それを眺めながら困ったように彼は笑った。
 どこかそれは馴染みやすい笑みだ。慈愛に満ちた、と評したくなる笑みだ。男らしくないとか女性的なわけではない。男としての懐の深さを漂わせる、自然に寄りかかりたくなる、雰囲気。
 不可解なものだと苦笑しそうになる。
 こうして短い命を生きるものにこそ、そうした慈悲深さが現れ、自分達のような長寿のものはそれらが摩滅し偽りでもって取り繕っているのだから。
 「いや…ふらついてたから平気かと思って」
 ちょっとあとを追ってきただけだと何気ない調子で彼はいう。
 もっともそれが正しさと嘘を合わせ持つ答えであることくらい、互いに熟知していたが。
 それに対して軽く笑みを送るにとどめてリュウはまた歩きはじめた。隣までやってきたシンタローもまた、歩く。ゆるゆるとした歩行だった。
 かすかな沈黙は重苦しいことはなく、どこか宵の迫った空に似た静けさに感じた。もっとも、いまは満月すら煌々と照る真夜中だが。
 互いに時折空にかかる月を見上げる以外、何の動作もない。ゆっくりとゆっくりと歩むだけ。
 静まり返った道には他に影はなく、振り返ってもその先に見える明かりはもう遠くかすんでいるだろう。
 歩く速度は緩やかなまま、酔い醒ましなのか散歩なのかも解らないままの、歩行。
 「………月が見事だな」
 不意に感嘆のようにシンタローがこぼした声にリュウが片眉をあげて問いかける。突然だな、と揶揄するようだ。
 それに苦笑しながらその腕を空に捧げる。戦士たる力を有した指先が、闇に溶けるように月を示した。
 「今日は満月だっただろ? でも天気が良くなかったし、見れないと思ってたんだよ」
 そうしたら思いの外鮮やかに月は明かりを降り注ぎ、己を侵す雲の影さえ払拭するかのように凛としている。
 それを見事とシンタローは笑う。
 ………まるで、頷くことを祈るように。
 気づき、困ったようにリュウは顔を歪める。戯けたように笑うつもりが失敗し、ふいと顔を逸らした。
 鮮やかに隆々と、その身を輝かす月。他者の明かりによって光るそれは、けれど人を感嘆させる。
 どれほどの邪魔があろうと、それは決して色褪せず、輝くことも忘れはしない。
 それは別段愚かしい様ではない。そう、まるでいうかのようだ。
 ……………自分達の種族の物思いを、汲み取るかのようだ。
 時折……本当に稀ではあるけれど、この手の生き物が生まれる。解らないはずの深淵をいつの間にか覗き込んだように、自分達でさえ悟れない達観を持ち生きる、そんな生き物。
 それは救いのように、時折生まれるのだ。
 病みはじめた自分達を癒すために生まれたなど、あまりにも身勝手な思い込みだ。けれどそう思わなくてはあまりに長い時間、自分達は生き抜かなければいけない。最強の種族は体の弱いものも滅多にいない。病や事故で命を落とせるような、そんな幸運なものはそうはいないのだ。
 だから遣る瀬無いと、思う。
 決して後を追うこともできないのに、他種族はこんなにも美しく生きていて目を奪う。寄り添いその輝きを浴びたくて……消えゆく命に少しずつ、自分達は壊れていく。
 それは確かに月と雲に似ていた。
 生まれては消える雲に悠久の月。…………そうして雲に、月は侵されやんでいく。
 求めても決して近寄れず、溶け合うこととて不可能だ。その麗しい姿を本当にのぞくこととて、できない。闇の中闇に侵されるそれを知り、己の穢れを思い知るだけ。
 月はたった一人寂しいと泣くこともなく、やはり悠然と明かりだけをこぼして……救いのような顔を、している。
 滑稽極まりない。救われたいのは、己自身のくせに。
 「そう、だな………」
 呟きは静かだった。
 逸らされた顔はまっすぐに空へ捧げられ月を見上げる。独眼の彼の、眼帯しか見えないシンタローにはその表情を伺うことは難しかった。
 その横顔を見つめ、月を視界の端に落とす。
 泣いているな、と、そう思ってしまったのだ。
 宴会の最中、いつだって誰よりもはしゃいでみせるくせに、時折その合間、その目が泣いているような気がしてしまう。まるで無邪気に遊ぶ孫を見る老人だ。一緒に交わることはできないが、その姿を見るだけで十分と、そう遠く見つめる視線。
 こっちにおいでと手を伸ばしても笑うだけで答えない、それは仄かな拒絶。
 だから放っておけず、つい追いかけた。それが余計なお世話であることくらいは解っている。それでも彼を一人この闇夜、歩かせるのはあまりに忍びなかったのだ。
 まっすぐと彼を見る。いつの間にか互いに歩むことを止めていた。
 自分は彼を見つめ、彼は月を見つめる。
 それはチグハグに見えながら確かに交わっている視線を思わせた。
 「たまにゃ、月を気遣う雲も、いるんだろうしな」
 小さく笑いながら、苦笑していう。見上げた月は相変わらず雲に侵されているが、それはあくまでもただの事象だ。
 例え話は全てを現実に当て嵌められるわけではない。
 苦笑にそう慰めを溶かし、彼に振り返ろうとした瞬間に、突風が吹き荒ぶ。
 自分達を攫うかのような風は、けれど上空ではなお荒々しかったのだろう。先ほどまで空を揺らいでいたはずの雲がものすごい勢いで動き始めた。
 そうして、風が止んで空を見上げれば、そこにはまん丸の、月。
 息を飲む。ふと思い当たって、彼を見遣った。
 彼の背にあの雄々しい羽はなく、風を操った確証はない。けれど確かにいま、彼から風を感じた。それは自分の思い込みかもしれないし、事実なのかもしれない。
 解らないけれど、彼は嬉しそうに空を見て笑っている。煌々と照る月明かりを浴びながら、その長い髪が揺れていた。
 それはあるいは、風か。侵す雲を吹き散らし、その元来の輝きを思い出させる、希有なる風。
 ふと思い、吹き出しそうになる。
 結局は自分は彼に救いを求め、例え話にさえ、彼を当て嵌めたくて仕方がない。
 それでも祈りとともに、思う。
 自分をすくいとる風に生まれたのは彼なのだと。
 厳かな思いで身勝手に、そう思う。
 「な、月が見事だろ」
 楽しそうに彼は笑っていう。
 示した指はやはり雄々しく、女性的でなどありはしないのに。
 その姿がひどく鮮やかに自分には見えた。

 そうして掠めた吐息の味。

 全ては酒のせい。そう笑って、驚きに目を丸めた彼を見る。
 怒濤のように怒鳴るだろう彼を思いながら、もう一度、と。

 その影を重ねた。








 リクの通りに切ないけど二人は幸せにしたつもりなのですが。
 というか、多分私の書く龍パーはそれが基本な気がする。
 お互い遣る瀬無いほど大人なので、癒しきれないものさえ理解した上で、支えあう感じ。
 むしろ悪友とかそういう感じ。

 時期的にはキリーの英雄就任パーティー後のつもりです。

05.3.4