やさしい人
あたたかい人
ここちよい人
………かなしい 人
見ていていつも胸が締め付けられる
大好きで大切で
あなたのためにここに落ちたというのなら
どれほど幸せだろうと
そんな埒も明かないことを考える
たった一人の自分の父親
地上に舞い降りた天使
大きく伸びをして、肩の力を抜く。額に浮かんだ汗をまだ丸く短い腕で拭った。
「もう倒してしまいおったか。さすがはヒーローたんだのう」
嬉しそうに喜色を滲ませて男の声が響いた。遥か上方から響く割に音量の大きさ故か、それはけっして霞むことなく子供の耳に触れた。
首をあげて満面の笑みを浮かべ、子供は己の祖父に手を振った。
子供の足下には気絶してのびている獣がいる。分類するのであればサーベルタイガーだろうか。若干それとは違う特徴が見えるが、どちらにせよその体躯の大きさや牙や爪の鋭さ、性格の獰猛さに変わりはない。
それが成人男性の膝元程度しかないだろう背丈の子供によって倒されたらしいことは、二人のやり取りで十分に知れた。驚異的なことであるはずの事実を、けれど二人は至極当然のような顔で眺めていた。
「ジージ、ヒーローもっと強いやつで大丈夫だぞー」
あどけない顔でいう言葉に男は苦笑し、しゃがみ込んで子供をのぞくように首を下げた。もっともそこまでしたところで男の体躯は一般人の城と同等なほど巨体なため、たいした差にはならなかったが。
顔を見ようとしている祖父に気付き、子供は背中の羽を動かしてく宇宙に飛び上がった。まるで蝶を指に止めるかのような仕草で片手を持ち上げた祖父の指先に子供が座る。
「ヒーローは驚くほど強い。急ぐ必要はないと思うぞ?」
まるで強さを駆け上る階段のように必死に上り詰める幼い孫に優しい笑みを浮かべて男はいう。
実際、子供の能力は底が知れなかった。ぎりぎりまで追いつめれば必ず這い上がるのだ。どこが限界か、それは男にも知り得ない。ここまでだろうと予測して、差し出す助力を待ち構えていても、それは今まで一度として与える機会はなかった。
最後の最後、必ず子供は馬力を取り戻すのだ。まるで不死鳥のようにこの幼い孫は倒れてもまた這い上がる。潰されたままでなどいないのだ。
だからこそ、たしなめるように男はいった。急いではいけないと言外に含んだ言葉は、けれど思いの外強い眼差しによって退けられる。
「ヒーローはもっと強くならないと駄目なんだぞ」
まるで何かに誓うかのような言葉に、男は眉を寄せる。
幼い身とは言え、この孫は既に妻帯者だ。ただ一人の妻を守るために強くなりたいというのであれば、もう彼は十分な力を身に付けている。それ以上を急ぐのは、遠い過去、己の息子に与えた寂しい境遇を彷佛させてしまい、躊躇われる。
不平や不満を言わない子供だった。己を弁(
わきま)
え、慎ましやかな子供だった。
大人の望むまま能力を開花させ、周囲の願うまま従順に人を思っていた。
それはいっそ痛々しいまでの献身。他者のためだけの生。己の望みも願いも何もなく、己を犠牲に生きることしか知らない魂。
彼が願う言葉など聞いたことがない。守られた姿など見たことがない。
………親として、それがどれだけ恥べきことか、知らないわけではなかった。
だからこそ、ただ一人の息子が心を注いで育てたこの孫に、同じ思いを味わわせることは出来ない。息子に、自分と同じ苦しみを与えたくもない。
憂える瞳で、優しい息子の姿を孫の瞳の中に見遣り、指先一つでまろみを帯びた頬を撫でた。
「ヒーローや、もう守るためには十分強いだろう?」
だから無茶な修行ではなく、心をのばししなやかに成長してくれと、男の声に願いがこもる。
大きな指先が頬を撫でる感触に目を瞑り、くすぐったさに眉を寄せながらその声を聞いた子供は、目を開けたあと不思議そうに瞬きをした。
それはまるで予想しなかった言葉を聞いたかのような、そんな反応。
子供が強いことは事実で、彼の住う周辺を守るためならばもうそれ以上強くなる必要はなかった。今は戦争下ではない。もめ事を止めるための力は、人を恐れさせる圧倒的な力ではなく、心の強さだ。
だからこそそれを学べという祖父に、孫は首を振った。それは否定ではなく、それだけでは足りないという、そんな返答。
躊躇いがちに眉を寄せて、どういえばいいのかを思案するように子供は顔を持ち上げて男を見上げてはまた俯く仕草を繰り返した。数度の逡巡の後、ぽつりと子供が呟く。
「ジージ、ヒーローは、パーパも守りたいんだ」
寂しそうに揺れる大きな瞳は、決意とともにひた向きさが潜められていた。
まるでそれは大人の戦士が持つ、守るべき対象を知る瞳のように。
こくりと、知らず男は息を飲む。幼い、修行をはじめたばかりの子供がもつ目ではない。それはどこか、過去の日に自身の息子が携えていた煌めきに似ている。
「パーパはミィもヒーローも守ってくれるんだぞ。パーパは一番強いから」
だからもしも自分が誰かに倒されても助けてくれる。それはタイガーやバードが同じ目にあっても、だ。
父は強く、他の誰も彼には追い付けない。彼が現れれば必ず争いは終結し、笑顔が戻ってくる。それは彼がいつだって微笑み誰もを愛しんでいる姿のままの光景だ。
けれど、それならばもしも、彼が悲しんでいたり辛かったりしたとき、誰が彼を守るのだろう。
自分が熱を出した時付きっきりで看病をしてくれる。怪我をすれば泣きながら手当をしてくれる。けれど自分は、父がそうした目に会った姿を見たことがないのだ。
彼は強く優しく、穢れない。まるで誰にも侵されることのない聖域のように。病も怪我も彼には近付かず、凶悪な腕は彼の前に平伏してしまう。
それでも、自分は知っている。ミィの母親が幾度も叱るように父に注意していることも。無茶をするなと、己の身も顧みろと、言っていることを。
そしてその度に彼が子供たちの笑顔のためだからと、そう笑うことも、知っているのだ。
守ることばかりで自分を守らない、そんな父親。愛すことばかりで、こんなにも愛されていることに無頓着な人。
「………パーパは、強くて弱いから。ヒーローが守りたいんだ」
俯くように力なく子供が項垂れる。まだまだ実力の伴わない言葉は、子供の他愛無い誓いにしか過ぎない。きっと父にいえば嬉しそうに笑って頭を撫でてくれる、そんな愛らしさしかない、守られるものの言葉。
本当の誓いに、したいのだ。
…………嬉しいと笑ってくれるだけでなく、頼むと背中を預けてくれる、そんな言葉に。
だから強くなりたい。誰よりも強き父を守れるくらい、強く。
ぎゅっと、小さな丸い手のひらが握りしめられる。幼い体はまだ発育途中で到底大人ほどの力を携えていない。それでもそれが欲しいのだと、悔しがるように子供は唇を噛み締めた。
「ヒーローが守らないと、駄目なんだ………」
そしてその思いは男も同じはずだ、と。子供は自分を乗せる指先に手を添え、握りしめるように力を込める。
この気持ちを理解できるはずだと願う指先の切ない強さに男の瞳が揺れる。
幼い子供は、幼いからこその純正さで、大人の脆さを知っている。守るために強くなった己の父の、それ故の無頓着な儚さをきっと誰よりも見てきたのだろう。
それを守りたいと、思ってしまう程度には。
守られることを知り、守る意味を知っている子供。そしてその上で、強さの意味を得ようと足掻く幼すぎる魂。
男が息子に与えたくて、与えることの出来なかったそれは意志だ。遠回りさせ過ぎて拭いきれない傷と罪科を背負わせた末に獲得し得た、意志だ。
たった一人で息子が育てた孫は、自分が育てた以上に見事な生き様を背負っている。息を飲み、男は己の指先に座る子供の顔をのぞくように、その指先をすくい上げた。
その振動に俯いていた子供は顔を上げ、決意を示すように男を見上げる。真っ直ぐに、目を逸らすことも逸らさせることも許さない視線で。
それを受け、男は躊躇いがちに苦笑した。
…………孫は強くなるだろう。自分以上に、そして、息子以上に。
子供の望むまま願うまま、その力は伸びるだろう。守る意味を知り、そのための努力を厭わないのだから。
その道をせめて照らそうと、男は笑みを深めた。
愛しい一人息子のためには出来なかったことを、彼の心が注がれたこの孫のために、捧げよう。
「…………修行は、辛いぞ?」
囁く声には破顔というに相応しい満面の笑み。
「望むところだぞー!」
明るく弾む声は気色に満ちた幼い音。
たった一つの命のために、それを媒体に絆を持った男と子供は笑いあった。
…………内緒話をするかのように、ささやかに。
…………母なる海という言葉を想定して、真っ先に浮かんだのがパーパだった私はどうしたらいいと思いますか?
いや、彼は父性が強いのは知っている。でもその父性の大半に母性に近い柔らかさを含ませてしまうんだ。
どこまでも受け身でどこまでも犠牲的。
だから周囲は気が気じゃないけど、本人に自覚がないからなお厄介だね。
06.10.12