風が……囁く。
その人の存在を。

木々がざわめく。
その人を守ろうと。

泉が溶ける。
その人を癒そうと。

大地が猛る。
その人を支えようと。

全ての自然が傾斜する。たった一人の人間に。
……それは圧倒的な引力。
引き剥がそうとする視線も、握りしめて打ち落とす指先も。
蟠りを堪えて紡ぐ囁きも、祈るほどに渇仰する気配も。
何もかもがその人に向けられて然るべきもの。

ただ……彼が大切で。
ただ……彼を守りたかった。

自分に居場所をくれた。……自分の心を掬いとってくれた。
もうあの泥闇には還らないでいいと……その腕を差し出してくれた。
幼い子どものような笑みを浮かべる彼を、その命を……ただ抱き締めたかった。
震えたなにも出来ない幼い獣でしかない自分だったけれど……そうしたいと思ったのだ…………

――――――それは生まれて初めて他人を癒したいと思った瞬間だった。

あんなにも強い彼に何故そう思ったかなど……いまも判りはしないのだけれど………………




追憶灯籠



  丘を駆けながら虎は小さく息を吐いた。
 朝、木の実を採りにいった男はいまだ戻らない。………もう太陽は中点に差しかかろうというのに。
  子どものあまりにも頼り無い顔にどうすればいいかわからなくて思わず探しに行くと飛び出したけれど……彼がどこにいるかまったく皆目見当もつかない。
 せめてどこに採りに行くかくらいは聞いておくべきだったと虎はまた小さく息を吐く。
 「がうぅ………」
 辺りを見回し、微かに鼻をひくつかせては彼の残り香はないかと探るけれど、収穫はない。
 消沈した虎はまるで獣らしからぬ穏やかさで頭を垂れて緩やかな足取りで丘の土を踏む。
 …………いつだって彼は自分の前にいる。
 せめて隣に立ちたかった。揺るぎない深い笑みに守られるのではなく、彼が息を吐いて安心出来る程度には強くなりたかった。
 それでも自分が抜けている事も頼り無い事も事実だ。
 こうして戦い以外の場面ではまったく役に立つ事が出来ないのだから。
 沈む思考を振り切るように虎は頭を強く振った。
 ………こんな風に自己嫌悪に陥っている場合ではないのだ。彼は強いけれど優しいから……そこに付け込まれれば深手を負う事など珍しくない事実を知っている。
 だから早く無事な姿が見たかった。
 子どもの心配をダシに探しに行く口実を作った自分のずるさに多少自覚はある。それでも不安になるのだ。
 誰よりも強い王者は、それでもその魂故に幾度も命を落としている。
 運良く蘇る事が出来ていま自分たちの前に確かに存在するのだけれど。……それでもこの不安はなくならない。
 彼のいなかった時間の重さを……彼は知らない。
 だからあんなにも無頓着に命を賭ける事ができるのだ。
 それを止める事は出来ない。彼はそう生きるからこそ彼なのだ。
 だからせめて……自分を置いていかないで欲しい。
 その傍らにいつだって自分をおいて欲しい。彼ほどの強さを持っていなくとも、自分も獣人界のナンバーワンだ。彼の背中を守るくらいの働きはできる。
 だから……早く探し出したい。いまだ自分達の中にある彼への喪失感を無くしたい。
 帰ってこない彼を待ち続ける事も、消えてしまった彼を探し続ける事も……弱い自分には辛過ぎたから…………
 駆け上がった丘の上、ゆっくりと辺りを見回す。
 ……微かに甘い花の匂い。それに交じって嗅ぎとれる男の気配。
 確かに嗅ぎ慣れた彼の匂い。傍らにいつもいたそれを間違えるはずはないのだけれど………
 それに眉を潜めつつも虎は方向を定めて駆け出した。
 果樹園とは逆方向になるその森の中へ……………


  たいして大きな森ではなかった。
 前に男の家族とともに花見に来た、その程度の大きさの森。
 爽やかな風が虎を包む。木々の隙間から眩い閃光が降り注ぐ。………平和な森の姿に自然綻ぶ頬を知っている。
 これは彼の守った世界。……彼が命を惜しまずに愛した世界。
 それが愛しかった。彼のいない間、……彼の子どもすらいなかった間、それを愛でる事だけがざわめく寂寞を消す方法だった。
 誰よりも鼻も耳も利くくせに……なんの役にも立たない。それが切なくて哀しくて……だけどそれでもどこにもいない彼が確かに世界に溶けていた。きっとそれを知っていたのは自分だけ。
 風も空も雲も木々も大地も川も…………何もかもが彼を愛していると囁いていたから………
  包み込む気配。……悼む虎を抱きしめるのはいつだって彼の気配。
 ―――――それは自然に溶けた彼の命。
 それはきっと素晴らしい事なのだろう。……けれどいまはそんなまがい物はいらないのだ。
 彼は、生きているから。
 彼は優しく笑って自分達のもとに帰ってきたから。
 だからもうこれはいらない。………いまは確かに輝く魂が自分の傍にいるから…………
 あたたかな自然のぬくもりに頭を垂れ、虎は彼の元に駆ける。……微かな匂いを辿りながら………


  薄い彼の匂いに眉を潜める。……移動している訳ではなさそうなのに、いつまで経ってもその匂いははっきりしない。
  焦れる足をなんとか押さえながら虎は注意深く辺りを伺いながら歩く。
 ……なにがあったとしても彼を守れるように………………
 そして視界に入って来たのは………森の裂け目。
 森の終わりではなく、不意に出来てしまった小さな崖。冥界との戦いで一度闇に飲み込まれた世界は時折その時の負荷に耐えられなかった大地が崩れている。
 これもその一つだが………かなりこれは軽度だ。虎たちぐらいの跳躍力があれば飛び越える事ができるのだから。
 ふと……思い付く。……彼はこんな崖が存在する事を知っていただろうか?
 なにも知らないでただ花を愛でて歩いていたとしたら……………
 「ガウウ!」
 思い付いたその可能性に虎は慌てて崖に近付きその中を覗き込んだ。
 初め視界に入ったのは……花。
 淡い色の小さな花が沢山風にそよいでいる。その花の波の中に………彼がいた。
 ………………目を瞑ってぐったりしている姿にぎくりと身体が硬直する。
 「パ、パーパ!!」
 微かな爆発音を響かせ、虎は青年の姿を模した。
 青年は悲鳴のように彼の名を呼び、崖を一気に飛び下りる。
 …………近付く気配に小さく男の瞼が揺れた。
 ゆっくりと開かれたその瞳にほっと息を吐き、青年は男の身体にまとわりつく花を横によける。
 「……タイガー……? あれぇ……俺なんでここ…………」
 「木の実採りいったまま帰ってこなかった。だから俺、お迎え」
 舌ったらずな声に眉を寄せ、心配そうに青年は囁く。………寝起きが悪いはずのない男が惚けている事が少しだけ怖い。
 どこか強く打ってしまったのではないだろうか…………
 そんな青年の情けない顔に気付いた男は小さく笑ってその頭を撫でる。
 「悪い悪い、ミイちゃんにお土産と思って花、とっていたら妙に眠くなってな」
  「花………?」
 そういえばかなり花の匂いが強かった。彼の匂いが埋もれてしまうほど………
 記憶から弾かれていたその花を手に採り、虎は軽く匂いを嗅ぐ。……クラリと脳の奥を溶かす感覚に思わず花を投げ捨ててしまう。
 「タイガー………?」
 不思議そうな男の瞳に憮然とした虎の顔がうつる。……なんとなく予想出来た答えに男は苦笑を浮かべた。
  「……これ、睡眠花の仲間……………」
 「あ、やっぱり……。スマンな」
 怒ったような青年に男はぽんと頭を撫でて声をかける。
 それでも青年の顔は変わらない。困った男は小さく笑いかけて優しく声をかける。
 ……まるで幼子にする仕種。
 「悪かったな。心配……したか」
 何気ない言葉。……もう成人を遠に越え…ナンバーワンとして誉れ高い自由人をこの平和な世界で心配する方がおかしいのかもしれない。
 そう彼の声は囁くように聞こえるけれど…………
 それは絶望を知らないから。……彼のいない世界に光などないのだ。彼が自分に光をわけてくれたのだから………
 衝動は簡単に走る。もうずっとずっと願っていた。
 この腕の中収まるような人ではない。……捉えたい訳ではない。
 それでも不意に沸き起こる衝動。暗い願い。
 …………獲物を引き裂き喰らう最高の愉悦が身を走る。
 それに身を浸らせたくなどないのだ。
 惑う指先が……それでも男へと伸ばされる。
 「…………………………っ!」
 突然固く抱き締められた男は息を飲み込む。
 まるで消えゆく幻想を掻き集めるように青年の腕は震えている。……捕らえる事など出来ないからと哭いている。
 なにが……彼を恐れさせているかまったく判らないほど馬鹿ではない。……命を落としてもなお自分には貫きたいものがあったから。
 残していく者のことを考えもせずに先走った。……それは彼の心を蝕む棘となっているのだろう。
 野生に忠実な青年は牙で爪で屠り喰らう事での交わりを知っている。その悦びを……たとえようのない快楽を。
 それでもそれがなにを指し示すか知っている彼は強行など出来ない。
 …………自分を傷つける事が出来なくて、結局青年はその苦味を飲み込み震える指先でただ抱き締めるのだ。
 その爪がこの喉を引き裂こうと蠢く事もない。
 怯える子どものような青年を見つめ、男は切なげに瞼を落とす。
 抱き寄せて……その背をぬくもりで溶かしてもきっと消えはしない寂寞と恐怖。
 それは自分が彼に与えたもの。……魂の奥深くに刻み、癒えない痕を残させた。
 その全てを抱き締める資格があるのかなど知らない。ただ……それでも縋るこの身体の大きな無垢な青年を手放したくない自分を知っているのだ。
 縋る腕に指を搦め、男は青年に微笑む。
 ……滲む寂寥も悲哀も…………なにもかも瞳の奥に隠せると揺らめく視線で囁きながら。
 泣くようなその微笑みに青年は小さく唸る。
 彼を手放したくない。……それは自分の我が侭。どこにも行く当てのないちっぽけな虎を彼は拾っただけだから。
  もう一人で立つ事のできる虎を傍に置く理由はないのだ。
 それでも………
 「俺は…ぼけてばっかりだな」
 彼は小さく囁く。………揺らめく瞳から零れそうな涙が怖くて、虎はそれを舐めとる。
 …………微かな苦味がまるで彼の心を示しているようで、怯えるように瞼を落とす。
 戸惑うままに手放すべきかと囁く唇の震えに気付き、男は瞬きを落とした。
 瞬間……堪えていた雫はゆっくりと地へと落ちていく。
 どうする事も出来ない虎の指先の怯えた様に苦笑を落とし、男は青年の背に搦めた指先を解いた。
 恐れるように項垂れる青年のその頬を抱き寄せて、包み込みながら男は掠れた声で囁いた。
 「それでも……迎えに来てくれるか?」
 こうしてどこかに捕まってしまっても。
  ――――――いつかまた……この身が果てて消え失せても。
 忘れる事なく傍に駆け寄ってくれるか……と。
 震える声音は花弁に触れる事さえ厭うような弱さで紡がれた。
 その囁きが耳に触れ、青年は目を見開く。
 帰れ……と。自分の生きた世界に……生きるべき世界に戻れといわれると思っていた。
 けれど男は許してくれる。……傍にある事を望んで、くれる。
 愛しさを溶かした笑みを零し、青年は男の瞳に口吻ける。

 ………その瞳に溶ける痛みを流してしまえと囁くように……………………






さて。………ぼけました。
この小説はゆきちゃんに捧げたものだったのですが………
なに馬鹿やっているのでしょうか。ファイル名を『劇が〜』と一緒にして上書きされて消えちゃいましたv
急いで書き直しですわ………。本文は残ってるからいいけど、毎度ながらなに書いていたでしょうか、このコメント。
他にもなにかタイトル違うのあったら教えて下さいね!!!(必死)
純粋に私がぼけて間違えているだけです(きっぱり)