傍にいることに意味なんかない。
その目に映るだけで満足なんて、できない。
……自分が彼に溺れたように、彼も溺れればいい。
この身を浸す血の海に絡まり、捕われ…張りつけられれば……いい。
そうして……憎悪と嫌悪と…なにより深い殺意を持って自分を見ればいい。
―――――思えば、いい。
なにがあっても笑っていられる彼を捕らえる、それがたった一つの方法。
何者も厭わない、深過ぎる懐を穢して引き裂き……血の味にまみれさせる。
それが……彼の特別になるたった一つの………………
けれど知っている。
……それによって手に入れるのは虚像。
壊し、穢し貶めて……それでもなくならないからこそ、この腕は渇望するのだ。
いっそ殺してしまえば楽だった。その血に染まった瞬間の安堵を覚えている。
――――――限り無い喪失感と虚無の過ったあの瞬間の充足。
蒼天を掴めないように、彼を捕らえることは出来ないのだろうか?
………彼を、殺せないのだろうか。
一度はできたそれが、何故再び行えないと嘆く腕があるのだろう。
判らない。……だから、苛立つ。
彼をこの腕に堕とせば……こんなものなくなるはずなのに。
………それでも彼が自分の傍らに下ることはない。
自分では彼を手に入れられないのだろうか…………?
血に塗れながら願うことさえ愚かだけれど…………………
偃月の夢
見上げれば朧月。半身を闇に溶かした偃月が霞がかった姿を晒している。
霧雨のような濃い月光。………淡く身体が発光しているような錯覚。
それに小さく口元をゆがめる。
………そうしたなら、微かな音が舞い降りた。
「なに考えてるんだ?」
どこかからかうようなその声に青年は思い出したように隣で寝転がっている男に目をむけた。
緑の芝生に絡まる長い黒髪が月明かりに晒され、仄かに碧に輝く。大地に奪われそうなその毛先に指を搦め、青年はそれを口元に近付けた。
囁きに、ゆうるりと黒が揺れた。
「………なんのことだ?」
余裕のある囁きを、余裕のない瞳で呟く青年に微睡んでいた男は苦笑する。
………人の髪を捕まえていなくては不安だと囁くようなその仕種さえ、無意識なのか。
時折夜中に訪れる友人に男は仕方なさそうに笑うと上半身を起こした。
いままで、こんなことはなかったのだ。彼は自分が腹立たしいと思うほどには不敵で……切り捨てても大丈夫なくらいには揺るぎなかった。
けれど……あの日から変わった。
――――この胸に埋まった彼の腕が、変えた。
彼の持っていた余裕の全てを剥奪し、自分に与えてしまった、あの腕。
青年がなにを願っていたかなんて知らない。……いまも判らない。
知っているのは単純な事実。
彼はただ自分を独占したかっただけ。
………仲間を気にかければ仲間を。子供を気にかければ子供を。友を気にかければ友を。
世界を気にかければ世界を破壊する。
たったそれだけのわかりやすい方程式だけを知っている。
それならいっそ、再びこの身体を破壊してしまえばいいのに。……もうそれさえ出来ないと怯える瞳の奥の光は囁く。
……………馬鹿な青年。遥か昔のほんの小さな思い出に苛立って、道を歪めた。
もしもそれを受け入れていたなら……敵対など決してしなかっただろうに…………
彼はあるいは情が深過ぎたのか。自分に、傾斜し過ぎたのか。
それを罪かと問われれば答える言葉など持ち合わせていない。
それでも彼は道を違えた。その責の半分は自分にあるのかもしれないけれど………
思い至ったその考えに小さく苦笑をこぼす。
……月に照らされ、それは儚く消えてしまうけれど。
それでもその瞳に宿る灯火に変化はない。
なにもかも包み込む、愚かなまでに深いその色。
小さく息を飲み込み青年は指に絡まる黒を優しく引き寄せる。……強引ではない誘いに乗るように男はそれに従った。
ゆっくりと近付く面に触れようと、青年の指先が動く。静かに黒髪は落ち、地に溶け込むように芝生にたゆたう。
頬にその指先が滑る瞬間、男は再び囁きかける。
「………なに、考えてる?」
囁きに、怯えるように指先が凍る。まっすぐと射竦める視線に恐れるような青年ではないけれど……こうした瞬間、彼は自分に決して勝てない。
彼の中になにかの迷いが附随している限り、迷いのない自分にかなうわけがないのだ。
それに気づかない青年はただただ不可解そうに眉を潜めて視線を逸らす。……まるで自分の感情に戸惑った子供のような仕種。
溶けるはずだった指先の熱は地に触れ、その熱を分け与える。
その様を見つめ、小さく男は笑う。………気づかないということの恐ろしさを、自分はよく知っている。
一度死ぬことによって自分は知ったことがある。
青年が……自分を思っていたこと。……それは決して浅ましいものではなく、純乎とした思いで。
ただ自分はあまりにそうしたものに無頓着で、気づこうともしなかった。それ故に……亀裂の入った自分達の絆。
愛しんでいないわけではない。……大切でないわけでもない。
ただ彼の願うものの先がわからなかった。
それが……少しずつ浮き彫りになる。
初めの訪問は…確か新月。
闇のみの空に、小さな星が瞬くように弱々しく輝いていた。
溶けるような空を見上げながら、なにを語るでもなく人の腕を掴んだままだった彼。
そして……いまは偃月。
少しずつ………見え始めたことがある。
逸らされた視線を戻させるように男は青年の名を呼んだ。
掠れるほどに小さなその音を…それでも決して聞き逃されることはないと確信しながら。
「……アラシ……………?」
やんわりとした囁きに、抗うことのできない青年はゆっくりと背けていた視線を戻した。
……その先に広がる、黒。
なにものにも溶けることのない至純の黒。
手に入れたくて……手に入れることを恐れている、たった一つの色。
――――――飲み込む息さえ、無意識だった。
節だった男の指先が先程の青年の指先のように金の髪に絡む。
男の臓腑を引き裂いた日から伸ばされた髪は長く伸び、やわらかく男の指に馴染む。
引き寄せられ……青年は男の穢れない視線に平伏すように瞼を落とす。
…………そうしたなら、微かな苦笑の気配。
ふんわりと、触れた唇。
頬を掠めただけのぬくもり。
驚いたように目を開ければ、笑みを深めた男の顔が映る。
「……シン…タ…ロー…………?」
戸惑うようなその声に男は眉を顰めて困ったように笑った。
そして……三度(みたび)囁きかける。
「………なに、考えている…………………?」
それは優しい呪詛のように青年の内に染み渡る。
隠し続けたかった思いをあどけない指先が静かに暴く。
………それさえ、心地いいと思う陶酔。
男の言葉に返す音も紡げず、情けない顔を晒すことを厭う青年はその肩に顔を埋めた。
一瞬躊躇うような青年の仕種に、男はしかたなさそうにその背を撫でる。
抱き締めることも月夜は恐ろしい。
あの…決別の日。赤い月に見つめられた赤い大地で哭く男を覚えている。
その深い慟哭は……自分が刻んだ。捉えたくて、奪いたくて…………知って欲しくて。
方法を過ったなどとは思わない。後悔などしない。
それでも、この肢体を抱くことも出来ない自分を作ったのはあの月の夜。
………それを決定づけたのはこの腕が男の鼓動を抱いた日。
そして歪んだ道は男の歩む道に寄り添ってしまった……………
捕らえたかった。…………捕われたかった。
壊したかった。……壊されたかった。
奪いたかった。……奪われたかった。
命も意志も視線も羽根もなにもかもを。
………そうして、この世にたった二人、背を預けあいたかった。
今更ながらの幼い願いに……零れる涙さえなかったけれど…………………。
END
風鈴さんに頂いた20000HIT祝いのイラストへ返礼で書きました。
………ちょっとイラスト自体は1MBという重さだったのでお見せ出来ないのですが(遠い目)
今回はちょっと立場の弱い(?)アラシにしてみました。いっつも余裕ある(というか有り余る?)アラシだし、たまにはいいでしょう!
ちなみに偃月は半月のコトです。偃月刀を見ていたら書きたくなったというわけ判らない作品(笑)
ただ私は……アラシのなかにある桁外れに澄んだ部分を書いてみたいなーと思っただけの筈が………。なんだかえらく中途半端な気がしてきました(UU;)