見事な月夜を見上げながら、男は徳利の中の酒をそのままあおった。
  喉を焼く程に強いその刺激に自然口元が綻ぶ。
 長い長い時を生きる男にとって、普遍であるモノは少ない。例えばこの目に写る月でさえ、幼い時とはまた様変わりしている気がする。
 淡い金の光で男を照らすその月を肴にあおった酒はそれでも質素で味気ない。
 せめて手酌でなければよかったと苦笑して徳利を振り、残り少ない酒の音を楽しむ。
 ふいに月光が陰った。雲でも出たのかと徳利から視線を放し、空をあおぎ見る。
 ………月を背に翼を広げた男の影が写る。
 その雄々しい翼に見覚えのある男は頬を綻ばせ、その影に向かって声を上げた。
 「おーい、シンタロー!!」
 怒号のようなその大声に、影は驚いたように動きを止め、男に気付いて手を挙げて答えると……又そのまま飛んでいこうとした…………。
 「………………………は?」
 無視をされた男は一瞬ぽかんとそれを見送ってしまう。
 次の瞬間、そこには男の姿はなく、……巨大な龍が影を追い掛けていった。

 「……ったく、人が声をかけたって言うのに無視していく奴があるか!」
 「それは悪いと思うけどな!だからって普通火吐いてまで人のこと引き止めるか!?」
 髪の先を焼かれた男が、龍から人の姿に戻った男に即座に言い返す。
 その言葉に、男は真顔で返した。
 「人が手酌で寂しい時に逃げたお前が悪い」
 「……リュウ、お前かなり飲んでるな?」
 酒好きのリュウはうわばみだ。ちょっとやそっとでは酔ったりしない。しかも質の悪い事に酔いがひどくなればなる程、表面上は普段通りに戻っていくのだ。
 パッと見で見誤った自分の迂闊さを悔いてももう遅い。
 これでは今夜はリュウに付き合って月見酒に勤しまなくてはいけない。
 深いため息にリュウが気付き、顔を寄せた。
 「んん〜?なーにしけたツラしてんだ?」
 「……俺は帰りたいんだが…………」
 無駄と知りつつもシンタローはリュウの顔を覗き込んでいってみる。
 その言葉を聞くと、にっこりとリュウは人のいい笑みを浮かべた。
 あまりにもあからさまなその笑みにシンタローが引きつる。
 「なんて言ったかわからねーな?もう一回いってみっか?」
 「………遠慮しておく」
 聞く耳を持たないリュウにため息を返し、家で待っているであろうヒーローとタイガーに心の中でシンタローは謝罪をした…………

 月を見上げながら、シンタローは黙々と酒を飲む隣の男に苦笑する。
  特に自分に酒を勧めるでもなく、リュウは一人で徳利から直に酒を飲んでいる。
 ……大きな月は目に痛い程鮮やかに光り、自分達を照らしていた。
 やわらかな光が自分を包むのを感じ、シンタローの口元が綻ぶ。
 月明かりに映える、漆黒の髪は緩やかな風に舞い、再び地に落ちる。
 月の位置もかなり高まり、シンタローは睡魔が降りてくるのを感じてリュウのほうを見た。
 「………………?」
 見てみれば、リュウは自分の方を見ていたらしく……視線が絡まった。
 美しい月も見ないで男を見る酔狂さに苦笑しながら、シンタローはリュウに声を掛けた。
 「なあリュウ。俺、もう眠いんだが……」
 申し訳なさそうに呟けば、リュウの視線が一瞬揺れた。
 それに何の疑問も持たず、シンタローはリュウの返答を待つ。
 ゆっくりと、リュウは口を開く。
 「………せっかくだ、一口ぐらい飲めよ」
 ちゃぷん…と、リュウの持つ徳利が揺れて酒の音が響く。
 断るのもなんだと思い、あまり好まないものではあるがシンタローはそれに頷く。
 「じゃあ、一口貰っとくか」
 子供の我が侭を聞くように目を細め、微笑んで答えるシンタローの目には、徳利に隠れるリュウの笑みの意味は判らなかった………

 見上げた空に映る、翼あるモノのシルエット。
 それは人でありながら人でないもの。
 もっとも弱い種族でありながら、この自分さえも上回る力を秘めたもの。
 ……その身に自然の恩寵を受けた、世界に愛された戦士。
 それはほんの瞬きほどの輝き。
 長い時を生き続ける龍人にとって、人の一生は本当に一瞬のことだ。
 それを望む愚かさを知っている。
 龍人は、けして他種族を愛してはいけないのだ。
 ――――それでも起こる衝動は、もう仕方のないものだ。
 そう笑みの下に思い、リュウはその全てを酒のせいにした。
 …………そうでもしなくては、あまりにも自分が滑稽だ。

 笑いながらリュウはまた徳利をあおった。
 酔っている男の勧めの破棄を怒るでもなく、シンタローはそれを眺めた。
 月が、ふいに隠れる。
 いつの間に現れたのか、闇夜にも白く見える雲が大きな月を抱え込み始めている。
 艶やかな月は、泡沫(うたかた)の幻だったかのように雲に覆われ、眩い月光は淑やかな残り火と変わる。
 それを眺める男と、男を眺める男………
 リュウは酒を口に含みながら、男に声を掛ける。
 「おい……飲めよ」
 「…………は……?」
 リュウの囁きのあと、シンタローは温もりに包まれる。
 気付けばシンタローはすっぽりとリュウの腕に抱き締められている。
 それなりにしっかりしたシンタローの身体さえ、竜人界ナンバーワンの男の腕には関係がないらしい。
 たった片腕だけで男の抵抗を封じ、リュウはゆっくりとその唇に自分のそれを重ねた……
 ……揺れるシンタローの目は、月と同じく瞼の裏に隠れた。
 ゆっくりと、その輪郭だけに恐れるように触れる唇は、微かに震えている。
 それに僅かながらシンタローは余裕を持てた。……どうせ酔ったリュウの戯れ言だ。この程度ならば動物になつかれたと思って目を瞑ってもいいかもしれない。
 けれどすぐにシンタローは自分の甘さを呪った。
 ……触れるだけだったその唇は、男の抵抗の弱さを知って大胆さを増してきたのだ。
 「…………っくぅ……」
 抉じ開けた男の唇の中に、生温くなった液体が注がれる。
 ……それはひどく刺激の強い、先程までリュウのあおっていた酒だ。
 無理矢理含まされたそれを飲み下し、シンタローはリュウの唇から逃れながら咳き込んだ。
 ……もともと、酒は好まないのだ。
 だというのに、これはひどい仕打ちではないかとシンタローはリュウを睨み付ける。
 喉がひどく熱い。……酒に触れた舌さえ痺れるようだ。
 目尻にたまった涙を男は面白そうにその舌で嘗めとり、シンタローの険しい視線を躱す。
 取り合う気のないリュウの笑みを見てシンタローは息を吐くと口を開いた。
 「……いくら酔ってても、これはないだろ?」
 「うまい酒だろ?……御猪口もねーし、ちょうどよかっただろ」
 批難の視線さえ男は笑みではね除ける。
 シンタローの視線が険しくなる。……酔っていたとしても、ここまで人の話に耳を貸さない事はなかった。
 どこか浮き世離れした深い笑みで、どんな事でも受け止める漢。
 それがシンタローの知るリュウだ。こんななにも写さない笑みの持ち主ではない。
 ……それでも、これは確かにリュウで、一体なにがあったのか知らない男にはただその目を見つめている事しか出来ない。
 腕が、強く男を包む。未だその手の中に捕われていた事に初めて思い至り、シンタローは身をよじって逃れようとする。が、些細な抵抗は呆気無く封じられる。………男の唇一つで。
 ついさっき触れた唇から零れた酒を追い掛け、ゆっくりとリュウの舌がシンタローの顎を辿る。
  背筋を這いのぼる不快感にシンタローがリュウの髪を引っ張る。
 力任せに引っ張った髪は幾本か抜け、風に乗って攫われていく。
 「リュウ!いい加減にしろ!……冗談も過ぎると本気で怒るぞ!」
 悲鳴にすら聞こえる声で叫ぶ男を、リュウは見上げる。……掴まれた髪の痛みなど感じはしない。
 触れられている事に喜びすら感じているのだから。
 それは切ないほどの渇望。この手で触れる事すら、禁忌だというのに………
 その悲しみを飲み込み、リュウは男の髪を仕返しとばかりに掴むと、そのまま地に縫い止めた。
 「………………!」
 思いのほか素早い動きに、シンタローはついていけない。酔っているにも関わらず、この男の動きは尋常ではないらしい。
 気付けば顔を覗かせている月。
 ……男を覗き込む、神獣の目。
 その意外なほどに真剣な……ひたむきな眼差しに男は息を飲む。
 酔った上での戯れ言と、思っていた。
 笑って濁せば互いに忘れるような、そんな悪ふざけだと………
 けれど男の目はそれを裏切っている。
 狂おしさを乗せた視線に耐え切れないように、シンタローは顔を逸らす。
 晒された首元。長い髪が風に舞い、なにも身につけていない上半身に影を落とす。
 ……この心臓の上、浮かび上がった禍々しい龍の死印を覚えている。
 それは自らの手で与えた、死龍の牙。
 男は自分を責めはしなかった。信頼し、理由さえ問おうとはせずにその身を……命を賭けた。
 穏やかな目が、自分を憎むと思っていた。もう笑いかけられる事もないと思っていたのに………
 リュウは思い出したあの印のあった肌を辿る。そこにはもう、傷一つ残ってはいない。
 それでも消える事はない。自分が傷つけた事実。
 遣る瀬無さに零れた声さえ、どこか覇気がない。
 「ここ……だな。俺が死龍の牙を与えたのは………」
 「………随分と古い話だな」
 切ない囁きに、男は苦笑した。仕方なかった事だと、分かっているのだ。
 ……それが龍の心を苦しめている事も、知っていた。
 その全ては男が乗り越える事だから口出しは出来ない。それでも子供のようなこの男をほうってはおけない。
 苦笑を深い慈悲の目の裏に隠し、シンタローはリュウに腕を伸ばす。眼帯に包まれた片目さえ抱え込むようにシンタローの腕がリュウを抱き締めた。
 ……突然の抱擁に、リュウの身体が跳ねるように驚いた。
 「オ…イ…………?」
 戸惑った声音に苦笑を禁じ得ない。……ついさっき、自分に対してどれほどのことをしたと思っているのだろうか。
  震える身体を、見捨てる事は出来ない。幼い揺らめきを放っておけない。
 どうしたって自分は、弱っているものに手を差し伸べてしまう。
 ……その度に幼馴染みの親友に怒鳴られるのだけれど。
 それでもやっぱり………
 「……気にするな。そのおかげでヒーローは強くなれたんだ」
 抱擁は幼子を抱くように優しかった。……この男の性根のままに暖かかった。
 それを逃すまいとリュウは強くその身体を抱き締める。
 噛み締められた唇の間から、微かな声がもれる。
 「お前が……龍人だったら…………」
 有り得る事のない幻を、それでもリュウは望む。
 ――――龍人はけして他種族と結ばれない。相手を殺す愛など、持ってはいけない。
 判っているのだ。この心のままに抱いて、相手の一生を破壊する事は出来ない。
 ……それでも過る、昏い願望。
 この身体を引き裂いてその心臓を喰らう。……そうしたならばもう、失う事もなく奪われる事もない。
 悠久を生きる男と、人でしかない男。
 ……どれほどの誓いを立てても残されるものは決まりきっているのだ。
 そんな澱んだ願いさえ、男は笑ってきくのだろうか。
 囁きに秘められた声無き声を聴きながら、シンタローは自分が確実に置いていく男を憶う。
 どんな誓いも無意味な現実。
 それでもやはり、これしかシンタローには言える言葉はないのだ…………
 「俺は自由人として生きて、自由人として死ぬ。お前は龍人として、生きる。それは変えれねぇよ。……だけど…………」
 ゆっくりと降ってくる、透明の雫。
 片目しか残っていない男の目は、多くの泉を従えて敷き伏せた男の言葉を聴いている。
 ……目が瞬く度に、囁く男の胸を彩る雫が増える。
 「まだ生きてる。……ここで、お前も俺も。お前の生きる時間を考えれば、奇跡だろう…………?」
 抱え込んだ男の首はひどく熱い涙で濡れている。
 咽び泣く男を抱き締めながら、シンタローは思う。
 ……同じ世界、同じ時を駆け、共に戦う多くの者を見つめてきた竜人界ナンバーワンの男。
 その中の自分もまたほんの一時の輝きなのだ。
 それでもこの男は諦める事も忘れ、他種族を思うのか………。

 情の深い男を抱き締めながら、シンタローは思う。
 ……この、強すぎる男の弱さとなり得る想いを。
 ――――自分が抱き締める、ただの男の事を……………








出来上がりました、キリリク777!
かなり遅い申告だったので誰も踏んでいないのかと 泣き濡れていましたが、よかったよかったv
リュウとパーパで書く事があるとは思いませんでした!
でもリュウ、好きです。五巻の『竜人界到着!〜』の回のリュウが一番かな!
あれ思い出して、龍パーもいいかもと思えました♪

この作品はキリリクを下さった霧夜様に捧げますv