きょとんとした顔の幼い瞳。
……なにも知らないが故の、純乎な視線。

初めて見た時それは意固地な思いに捕われ、闇雲なる赤に包まれていた。
それは取り落としておくにはあまりに希有な輝きで、
仕方なさそうに笑って……ついいつものくせでその手をとってしまった。
決してそれを後悔する気はないのだけれど………
それでも違和感を覚えた日から、少しずつ蟠るものを抱えている。

……………………それはもう、お互いに共通した思い。





エデンの実



 一瞬、目の前にいる青年の言葉の意味が判らなかった。
 故に呆気にとられて言葉さえ返すことを忘れてしまった。
 不思議そうに自分を見上げる幼い瞳。……歳に似合わないほどにそれは澄んでいる。
 違和感は………何故に………………?
 詰まる喉を抱えたまま、男は小さく息を飲み込んだ。そうしたなら、再び響いた青年の声。
 「…………お前、誰だ?タイガーって……俺?」
 聞いているか、と純粋に問いかける瞳。……どこか片言の、拙い語り方さえ同じなのに…その言葉のなかに親しいものに向けられるやわらかさがない。
 飲み下したはずの息が吐き出される。……苦々しいそれに顔を顰め、男は切なく笑った。
 嫌な予感はしていたのだ。これとまったく同じことを自分も体験したから判る。
 見覚えのある葉ぶりのいい大樹。撓わに実った実が見るものの食欲を誘うように緑の葉の間から顔を覗かしている。
 そして…青年の膝元に転がっている赤い果実。
 林檎によく似たその実は………人の脳を蝕む。海馬にとりつき、その記憶を吸い取ってしまう。
 散歩にいったまま昼食の時間になっても戻らない虎を探しにきて、見つけた瞬間のこの状況からすでに予想出来ていた事態だった。
 それでも何故こんなにもその言葉にショックを受けているのか。
 のぼった苦笑に自嘲を含めて刻めば……青年に精悍な眉が困ったように垂れた。
 ………自分でも不思議な感覚に零す男の苦笑を青年は違う意味に捉えたらしい。
 それに気づき、慌てて男は青年に声を掛けた。
 「あ、悪い。ちょっと自分も同じことしたなーと思って……」
 焦ったような言葉に嘘はない。……中に隠された感情以外には。
 それを見つけるほどには成長していない青年の瞳は、目前に出された言葉の中にあるその一言に気をとられた。……それに安心したように吐息を吐く自分を男は不思議に思うけれど……。
 囁かれる問い掛けを含んだ短い一言。たとえ記憶をなくしても人は変わらないのだと知らしめるようなその姿になぜか安心する。
 「………同じ?」
 なんとなく判るその安堵への答えを包み隠すように笑い、男はその言葉に応えた。
 穏やかな声にはもう、迷いも不安も奇妙な喪失感もない。
 ……………ただ深く人を包むいたわりと優しさが存在する慈父の声音。
 「その木の実、あるだろ……?」
 「…………………」
  自分の傍に落ちている食べかけの赤い実を手にとり、あっているか問うように視線を向ければ男は小さく頷いた。
 何の変哲もない木の実。甘いその芳香に食欲は誘われるけれど……それ以外に不審な点はない。
 不思議そうに見上げた青年の視線に答えるように男は口を開いた。………苦笑を抱えたままの声音は幼子への諭す声音に酷似してる。
 「それはな、食べると記憶がなくなっちまうんだよ。俺も前に食べて一騒動起こしたから、よく知ってる」
 その言葉に大きく目を見開いた青年の考えていることに思い当たり、男はゆっくりと言葉を付け足した。
 安心を、与えるように…………
 「ちゃんと治せるから大丈夫だ。とりあえず……帰ろうぜ?」
 力強い、人を安心させる男特有の笑み。
 ………自然とその言葉を信じさせてしまう力を秘めた、何者にも変え難いそれに青年は知らず小さく頷いていた。
 何者かも知らない相手に諾々と従うことは信じ難いけれど……それでも信じて大丈夫だとなくした記憶の欠片が囁くのだろうか……?
 その笑みとともに差し出された手を掴むことに抵抗がない。ただ存在するのは受け入れられた安心感と癒される孤独感。
 揺るがないその背にあるはずも覚えているはずもない郷愁が誘われるのは……何故なのだろうか………?
 ……緩やかな風とともに降り注ぐ陽射しさえ目に入らない。
 ただ小さな音を紡いで自分のことを教えてくれる男だけを視線が追ってしまう。
 振り返る男の笑みになにかが揺さぶられる。言葉にはならない違和感。………否、既視感。
 忘れていても、忘れていない。

 ………………それはまるでインプリティング。

 辿り着いた大きくはない家のドア。………なんとなく安堵感のある雰囲気の風景に自然心が落ち着いた。
 それが目に見えたのか、男は幼子を見守るものの瞳で囁く。
 「本当はあと二人一緒に住んでるんだ」
 「………二人?」
 「そ。俺の息子と、その嫁さん」
  明るく笑っていう言葉の中にある息子という単語。……無くした記憶に常識が含まれているわけではない。だから知っている。子供をもっているのなら……寄り添う相手が男にもいるはずだという事実。
 ………けれど、二人と言った中にそれは含まれていない。
  囁きたくても囁けない、飲み込めない棘に開きかけた唇が消える。
 ドアをあけて振り返った男の中にある穏やかさに飲み込まれて、あやふやなままにしたい誘惑に勝てなかった。知りたいけれど知りたくないと、そう思う自分に顔を顰めても答えはでなかったけれど………
 中に入るとこじんまりとした空間が奇妙に自分の肌に馴染んでいた。……記憶になくても判る。ここは自分が好んでいた空間。いとしんで、壊せないほどに愛した世界。
 安堵の溜め息ともつかない溜め息を吐くと男はあたたかなお茶を差し出しながら笑いかけた。
 それを受け取ることに違和感はない。知らなくてもこっている。……それを、実感した瞬間。
 「まあとりあえずあとでサクラにでも薬を調合してもらおう」
 「………………サクラ………?」
  また出てきた聞き慣れない単語に問いかければ、面倒くさがることなく男は言葉を返してくれる。
 ………先程から幾度となく繰り返される、話の腰を折るように返す囁きに決して男は顔を顰めない。
 いっそこちらが驚くほどに男は当たり前に付き合い、それを厭わない。
 「サクラって言うのは花人の英雄だ。俺の時もあいつの作ってくれた薬で治ったからな。いま旅行にいっているからいないけど、すぐ戻ってくる」
 だから安心しろと囁く声に小さく頷き、青年はあたたかいお茶に口をつける。………熱くはないその茶に少し驚いた。
 男の飲むものよりも幾分冷めている。のぼる湯気でそれに気づき、次いで青年は嬉しそうに笑んだ。
 男は決してその気遣いを言葉に変えない。………ただ無言の中で人を包める。
 例えば、熱いものの苦手な自分に確認することなく自然に自分の飲むものとは違う温度に変えた茶をすすめるように………
 初めて、見た。……否、いまの自分には真実初めて目にする他人だけれど。それでも思うのだ。
 この男が希有だと言う事実を、……それだけは忘れてはいないと。
 そして唐突に思い至る。………自分は色々なことをこの男から聞いているけれど………肝心の男のことは何一つ聞いていない。
 その名前さえ知らないのでは、呼ぶことすら出来ない。
 …………語ってくれないことに小さな違和感を抱えながら、青年は少しだけ拗ねた声音で男に尋ねた。
 まるで除け者にされた子供のような視線で…………
 「お前……名前は…………?」
 「へ?」
 囁きに思わず間の抜けた声を男は返す。………すっかり忘れていた。普段自分の名をこの青年は呼ばないから、名を名乗るということさえ考えていなかった。
 どこかむくれた幼さに苦笑を与え、男は青年の頭を軽く撫でる。
 「……悪い悪い、お前俺の名前呼ばないから忘れてた。………俺はシンタローだよ、タイガー」
 「シン…タロー……」
 舌の上で転がした響きは確かにあまり馴染んでいない。……けれどそれは厭っていたが故というわけではなく………囁きとともに降ってくる熱が身体を疼かせるが故ではないのだろうか………?
 持て余すように顔を顰めた青年を見て、男は小さく笑う。
 「別に呼ばなくてもいいぞ?」
 どうせ前から呼ばれていんかった名だ。そんなことを気にはしないと囁く瞳の奥に、けれど微かな寂しさが見えてしまう。
 それはあるいは自惚れかもしれないけれど…………
 それでも男の隠したがっている寂寞を消したくて、それを舐めとるように青年は困った顔のままその瞳に口吻ける。……幼い優しさだけに彩られた不器用なあたたかいそれに男は目を見開いた。
 流れる黒髪に指を搦め、慌てて身を離そうとする男を青年は捕らえる。………どうしたいわけでもなくて……ただ傍にいたい。離したくない。
  逃げようとする肢体を捉えて包めば、どこかなくしていた自分を取り戻したような安堵に包まれる。……抱き締めることで抱き締められる感覚にくすぐったさを覚えて虎は小さく笑った。
 そんなことまで気づくことの出来ない男はただ唐突な青年の行動に混乱して上擦った声音でその名を叫ぶけれど…………。
 「タイガー!?」
 「………もうちょっと………」
 こうしてたいと囁いて頬を寄せれば、男は奇妙に顔を顰めて朱に染めた。
 ずっと抱き寄せたかったぬくもり。…………望めないことを知っていた記憶を携えていた頃の自分を微かに憐れむ。
 伸ばした腕の先にはいつも微笑む男がいた。……それだけは知っているけれど。伸ばせなかった。愛しい世界を、この空間をなくしたくなくて。壊したく、なくて………。
 けれどなくした記憶が怯えることなくその手を差し出させた。
 ………どうせ一つもなくすものを持っていないのだ。恐れる必要が、あるのだろうか…………?
 差し出した腕を、男はそれでも拒まない。………甘受するわけではなく、ただ受け入れた。ただ…認めた。

 欲しかったのはそんなちっぽけなぬくもり。
 ………壊れることのないそれだけを願っていた。
 泣きそうな瞳で、それでも深く彩られた笑みを零すその男だけが……欲しかった。

 なくした記憶の先、それでも居座り続けた願い。
 ――――――記憶の代わりに手に入れたそれをなくさないように、そっと青年は唇を寄せた…………








キリリク21000HIT、変な実シリーズ化した第3弾!
今回は20000HITと同じく記憶喪失でタイガー×パーパでしたv

近頃ギャグが多いので、このシリーズでちょっとシリアス目指して見ました。
………ってなにもギャグ用のネタでシリアス目指さんでも(遠い目)
だって好きなんだもん、シリアス書くの……………
今回は馴れ初め(笑) お互いなんとなく勘付いているけど、それでも壊せない境界線ってことで。
記憶なくなりゃ壊せないものなんてないわなーと思ってv
なかなか楽しかったです(笑)

ちなみに、書ききれなかったネタとしてはヒーローは天界で修行中。
ミイちゃんは羽根伸ばしに実家帰ってます。
サクラはタイガーのこと聞いて翌日にでも帰ってきます(笑)ということでしたv
………サクラ、タイガーには健気ないい子だなー……………

この小説はキリリクを下さったユキさんに捧げますv
もしもギャグをお望みだったならごめんなさい。