いつもなにかに飢えていた。
なにかに追われている気がしていたのだ。
―――……否。それは追われているのではなく追っていたのだろうか。
この背の後ろ、視線の端。どこかになにか、足りないのだ。
いつだって、飢えていた。……焦燥に駆られていた。
未だ小さいこの手の平に苛立ちを覚えながら、空ばかり見ていた。
ただ、知りたかった。……自らのことを――――――

晴れ渡った空の下、子供はつまらなそうに石を蹴った。
転がっていった石はなにに当たるでもなく自然に止まり、また子供の目の前にあらわれる。
それを横目で見て、子供は今度は蹴ろうとせずに道を進んでいった。
……眩しいほどの空と陽射しに見上げた瞳が眇められる。
自嘲げに息を吐き出し、子供は家へと歩を進めた。
何も変わらない毎日。
この心の中に巣食う、身を灼くような焦燥さえ変わらない。
……ただ、ひどくなる。
居場所の見つからない、苦痛だろうか?
けれどそれに負けるほど自分は弱くないと自負している。
たとえば二親ともいない事に子供は疑問をもっていない。
……子供の住む家にいるものは、それが当たり前だから。
けれど消えない、この心の奥底のなにか。
望むものが判らずに、幼い時からずっと遠くを見つめていた。
早く大人になりたくて、貪るように知識を詰め込んだ。
それで手に入れたものは、あったのだろうか……?
思い当たるものがなく、子供は空を見上げた。
眩しい光が瞳を射た瞬間、たった一つ手に入れたものがあった事を思い出し、子供の口元に笑みが宿った。
子供の歩が、早まる。
それに会う事を急ぐように………

「……ただいま」
大きくはない子供の声は広い聖堂に響く事なく消えた。
それでも応(いら)えるもののいる事を子供は知っていた。
ゆっくりと、奥の部屋に続くドアが開く。
やわらかな黒髪が覗き、次いで若いシスターの顔が現れた。
「お帰りなさい、爆」
優しい声は鈴が鳴るように響いた。
爆の口元に笑みが灯る。それは先ほどまでの大人びた子供の雰囲気を霧散させ、幼ささえ覗かせた。
シスターに応えるように頭を軽く下げ、爆は鞄をおろしながら前に進む。
歩きながら器用に鞄を開け、中から数枚の紙を取り出した。
それがなんであるか気付いたシスターは笑いかけながら訊ねた。……どこか、切なさを臭わせながら。
「……今日のテスト?出来はどうだったの?」
「この程度出来て当然だ」
素っ気無く言った爆は押し付けるようにそれをシスターに渡し、鞄を背負い直した。
受け取ったシスターは我が事のように嬉しげに目を細め、次いで寂しそうに笑った。
……その瞬間が爆は好きだった。
他のシスター達のように褒めるでもなく、ただ笑い悲しそうに見つめてくる瞬間。
それはただ一人自分を思っている証拠だ。
居場所が違うと、自分達とは違うのだ、と。
褒めながらも他の子供とは明らかに一画を期すシスター達と、この女性は違った。
間違う事のない子供を、自分のことのように憂え、その心を砕いている。
それを知る事ができるから、このシスターを爆は誰よりも信頼していた。
……母のように姉のように慕って、いた。
だから嬉しい。その切なげな微笑みが。
だから、悲しい。泣きそうな心の原因が自分である事が。
「……どうしたの?」
不意に聞こえた間近い声に爆は目を開く。
甘い、女性特有のやわらかな匂いが鼻を掠める。
微かに紅潮した頬を隠すように俯き、爆はぶっきらぼうに答えた。
「いや。なにもない」
「そう?」
いまいち納得していない響きを残しながらもシスターはそれ以上追求はしなかった。
そしてその場に流れる気まずさをぬぐい去るように明るい声を出した。
……まるで年端のいかない子供のような無邪気な笑顔で。
「そうだわ!もうすぐ、あなたの誕生日ね」
「そうだったか……?」
「そうよ。忘れないで、覚えていてよ?」
本当に覚えていない様子の爆にシスターは困った顔をして囁く。
それはどこか祈るような響きが附随している。
「くだらん。本当の誕生日でもあるまいし……」
けれどまだ心の動揺をおさめていない爆はそれに気付かなかった。
―――――――……それを幾度後悔したか判らなかったけれど……
爆の言葉に寂しげに目を伏せてシスターは笑った。
「そうかしら……?」
そして、囁く。
謳うように滑らかに、柔らかく包むその声。
赤ん坊の頃からもっとも間近に聴いていた。
それを記憶ではなく身体と心の奥底で爆は知っている。
ずっと、自分を守り、導いてきた声音。
「私があなたを見つけた、それだけでも奇跡だわ」
噛み締める、その言葉。
まるで惜しむようなシスターの態度にやっと爆は不審を抱いた。
「シスター……?」
「あなたはおぼえていないでしょう?」
訝しげに囁いた爆の声をシスターは聴かなかった。
それはまるで問う事を禁忌と知らせているようで、爆の眉間に皺が寄る。
……それさえもを微笑みで包んでシスターは言葉を続けた。
「あなたと出会った、あの時を……どれほど神に感謝したでしょう」
「……神など、いない」
夢見るようにどこか遠くを見ているシスターの視線を自分に戻したくて、爆は駄々っ子のように言った。
それに笑いかけ、ようやくシスターの目は爆に注がれた。
優しい笑みを象る口元が、静かに開かれる。
「神は、在るわ」
言い返そうと口を開きかけた爆は、ふと奇妙な違和感を覚えた。
……今、シスターはなんと言っただろうか。
いる、ではなく……在ると言わなかっただろうか。
「………在る?」
疑問をそのまま声音に乗せ、教えを乞う子供のように真直ぐな視線を爆はシスターに向けた。
それににっこりと微笑み、気付いたことを喜ぶようにシスターは囁く。
……広い聖堂の中、シスターの声は不思議な程よく響いた。
それはまるで聖歌を奏でるように澄み渡った、美麗と言うに相応しい空間を作る。
「ええ。私は神に会った事はないもの。
でも、信じているわ。……あなたに会えたから」
「………?」
「あなたを見つけ、育てて…私は自分が生まれた意味を初めて知る事が出来たの。あなたに出会えた奇跡は、
私を人として育て、生きる意味を教えてくれたわ」
照れるでもなくシスターは真直ぐに爆の瞳を見つめた。
……絡み合う、澄んだ幼い瞳たち。
まるで鏡のようなそれは、けして逸らされはしなかった。
「あなたとの出会いは、私にとって最上のことだったから。
それは、既製の言葉では言い表せない意味を持っているの。
……だから、神という言葉を使うのよ」
微笑みに溶けるようにシスターの髪が揺れた。
美しい漆黒はやわらかな空間に彩られて静かに輝いていた。
「この言葉に、意味はないわ。使った人と、聴いた人がその価値を決めるモノ」
ゆっくりとシスターは屈み、視線を幼い子供と同じほどにした。
伸ばされた手の平はやわらかな頬を包み、慈しむように撫でた。
愛しさを零すように、シスターは囁く。
「いつか、あなたもそれが判るわ。それまで、覚えていて。私がいった事を……」
まるでもう、それを教える事がないと言いたげなシスターに爆はいいようのない焦燥に駆られる。
……それは、或いは生まれた頃から感じていた、あの焦燥に酷似していたかもしれない。
「……シスター?」
焦れた声は幼さしかなかった。
親を思うように、爆は無心でシスターに心を向けた。
それを包むように……躱すように、シスターはまた口を開いた。
「ねえ、爆」
「……………」
「今年のあなたへのプレゼント、実はもう決めてあるの」
微笑みは柔らかく、呟きは温かかった。
幼気な心をそのままに残したシスターは、爆の心の奥底に今も鮮やかに残っている。
胸の温まる思い出として。……決して消えない傷跡として。
それは、こんなにも美しい人、だったから………
「……あなたがいつも歌っている、あの聖歌、あるでしょう?」
頷けばシスターはその触りだけを軽く口ずさみ、にこりと微笑んだ。
なにをするつもりか判らなくて爆の視線は憮然とする。
……いつも、こうなのだ。
自分はこのおっとりとしたシスターの静かな筈の行動の先が見えない。必ず予想と違っていて、驚かされるのだ。
……今もまた、そうだ。
悔しくて少し、むくれてしまう。……そんな幼い反応さえ、このシスターにだけ向けられる特別なものなのだけれど………
「丁度…このフレーズの後がいいかしら……」
自分に確認するように囁いた後、シスターは大きく息を吸い込んだ。
じっと、爆はシスターを見つめた。
なぜだろうか……。どこか今日のシスターは儚げで、自分が見ていなくてはそのまま空気に溶け込んでしまいそうで恐ろしかった。
……そんな爆の思いさえも飲み込んだ、響き渡る旋律が聖堂を占めた。
細いその肢体のどこからそれだけの声量が出るのか不思議なほどシスターの歌声はよく通る。
目を閉じて、爆は酔うようにその流れに身を任せた。
高く低く、優しく紡がれる聖歌。
そして、先ほどシスターが口ずさんだフレーズが語り終えられた。
続くのは、同じく解読の難しい他国の言葉なはずだった。
けれど、違った。
ひどく透明な、身体に染み渡るような声は静かにその歌詞を口ずさむ。
翼ある者への憧れと羨望。そして、その高みへと上り詰める希望の歌を……
それはまるで自分の身に宿り続けるあの焦燥感を表わしていうようで爆の瞳は見開かれる。
旋律はなおも続き、その慣れ親しんだ聖歌を全て綴った。
しん……と。聖堂内の一切の音が凍った。
シスターも爆も語らない。……動かない。
ただ絡む、同じ輝きを持つ瞳たち。
ステンレスガラスの窓に閉じ込められたマリアが微笑みながら二人を見つめていた。
愛しそうに、労るように、悔恨さえも飲み込むように……
マリアを揺らす強い風の叩き付ける音が、ようやく凍結した空間を溶かし、時を刻ませた。
ゆっくりと、シスターは瞳を瞬かせた。
見つめ合う瞳は逸れない。
「ねえ、爆……」
高い声は少しだけ寂しげだった。けれどそれを覆い隠すほどには、シスターは強い人間だと、爆は知っている。
だからただ、答えた。
この先になにが待っていようと変わらないこの心のままに…………
「なんだ」
「……あなたは、強くなれるかしら?」
伏せ目がちの瞳は優しげな筈なのに、まるで爆は叱られているような錯覚を受けた。
訝しげに眉を顰め、爆は凛とした態度で答える。
「強くなれるかどうかじゃないだろう。
ならなくてはいけないんだ。……だからなる。―――……誰よりも強くな」
その言葉に、シスターは嬉しそうに微笑んだ。
まるで空気に溶け込むように透明な、やわらかな光のようなそれ……
微笑みを消さぬまま、シスターは囁く。
「……忘れないで。あなたが成したい事を。どんな形でもいいから…決して、忘れずに生きて」
その囁きが涙に濡れていたように思えたのは、自分の気のせいなのだろうか。
かける言葉さえ判らない爆を、シスターは抱き締めた。
まだ幼い、小さな肢体は細いシスターの腕の中にさえ収まった。
流れる涙を隠すようにシスターは強く腕に力を込めた。
昔、生きる意味さえ見出せなくて死にたがっていた自分を救った、天から降ってきた輝く赤児。
自分にとって、この赤児こそが希望だった。
他の誰に見えなくとも、シスターにはいつだって見えていたから。
――――――……赤児の背に在る、透き通る美しき翼が………………
………震える肩を抱き締めて、ただ爆は静かに目を瞑った。

目の前で行われているその光景を、爆はまだ認められなかった。
神父の厳かな、けれど型通りの言葉。修道服に身を包んだ女たちの悲しげな顔。幼い子供達の泣き声。
……柩の中、横たわる美しいシスターの眠るような顔。
それは確かに現実だった。
あの、プレゼントだといわれた歌を聴いた日から幾日も経っていない。
……病気など、自分は知らなかった。先天性のモノならば、自分が育った中で気付いてもよさそうなものなのに……
あんなにも元気に、この歳まで生きれた事さえ奇跡など、ふざけた話だ。
死期を悟っていたなど、認めない。……それならばなぜ、自分に何もいわなかったのだ。
零れもしない涙に代わって、空が泣き始めた。
柩をおさめた十字架を前にしたまま、爆は動かなかった。
……待って、いた。
なにかの間違いだといっていつものように笑ってあらわれるシスターを。
濡れる頬さえ気にならない。ただ、待っていたかった。
どれほど経ったのだろうか。不意に身体にあたっていた雨がなくなった。
大きな傘に気付くのにかなりの時間を要した気がする。
「………なにか用か」
冷たくさえ聞こえる声で爆は呟いた。振り向きもしない爆に年配のシスターは苦笑した。
「もう、悲しむのはよしなさい。あの子も浮かばれませんよ」
「悲しんでなど、いない」
自分は泣いてなどいない。
ただ、待っているのだ。
黒い髪をなびかせた、自分と同じ…幼い瞳を残したままのシスターを……
「そうね、あなたは悲しまないはずですね……」
切なげなその響きは、果たして爆に向けられたのか、死別したシスターに向けられたのか……
ただ、音もなく時が流れる。……恐ろしく静かに。
「あの子は、あなたに全てを託したのですから……」
私達育ての親とも言えるものよりも、爆一人を選んだ。
寂しげな声に、初めて爆は後ろを振り返った。
涙こそ流していないその人は深い慈悲と限り無い包容力を沈めた瞳を切なげに揺らして爆を見つめていた。
「あなたは、どうしますか……?」
その、言葉に。
爆はきつく唇を噛み締めた。
……もういないのだと、いわれた。
あのシスターは、自分をただ認めてくれる瞳はないのだ、と………
だから爆は決めた。
自分はなにを成すべきか、この瞬間に決めたのだ。
「オレは………」
霞む視界に爆はきつく歯を噛んだ。
自分は泣いていない。これは新しい始まりだ。泣く理由などない。
その始まりがただ……一人から始まるだけなのだ………
「院をでる。一人で生活をする」
こぼれる雫を雨に流し、真直ぐ爆はシスターを見つめた。
「そして、世界制覇をしてやる。……もう二度と、この手から何一つ失くさない…………!」
切ない響きを漂わせたまま、爆は墓前にそれを宣言した。
そして誓うかのように歌を綴る。
高く低く……あの日聴いたシスターの歌声のままに…………
年老いたシスターはただそれを見つめていた。
自分には加われない、目には見えないもう一人との誓いの儀式を………
爆は深く息を吸い込んでシスターのさす傘から出た。
……そして雨を真っ向から受け止めた。
今はまだ、その青を見つめる事は出来ないけれど………








あとがき