柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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それを目の前にしたとき、何かが壊れた。

壊れたと意識などされないまま

けれど

確かに壊れたのだ。


守りたくても守れない、その歯痒さ。





たった一つという言葉の意味よ



 珍しい光景ではなかった。だから多分、自分はたいして気にもかけなかった。
 自分達の育った孤児院は教会に併設されている。当然、教会という組織に組み込まれているのだから、それらの催しには参加が義務だ。
 それは楽しい華やかなことから地味で面倒なことまで多種多様だが、その中でも一番辟易とするのは葬儀の手伝いだろう。もっともそこまで深く関わるのではなく、掃除や物品を並べたり花を用意したり、誰にでも出来る雑用だけだったけれど。
 それでも楽しいわけはない。沈鬱とした空気の中、黙々と作業を行うのが常だった。
 今日もそうだったのだろう。久しぶりに帰ってきてみれば外から見ても解るくらい、院の中は粛然としていた。
 タイミングが悪かったかと小さく息を吐き出す。正直、嫌なことを思い出してしまうのでこの空気は嫌いだった。もう半年も昔のこととは思えない、この胸の中の空虚が痛みを訴える。
 大切だった。大事だった。そんな言葉で括れないほど、思い続けた存在が………今はいない。
 それを突き付けられる気がした。もっとも、そんなことはもう彼女の姿を土に還した瞬間からずっと、毎日といっていいほど思い知らされているのだが。
 ゆるく吐き出した息が重く淀んでいた。それを嫌い、青年はポケットの中を探ると煙草を取り出し火をつけた。
 近くて遠い院の佇む姿はどこか絵画じみた無機質さが漂っている。
 目を細めて吐き出した紫煙を追うようにその光景をおさめた。白い煙の先、そこは色褪せた世界がただ広がっている。それだけの、現実。
 もうずっと幼い頃から自分の世界を彩る基がなんであるか今更気付く。生きる意味にしてきたその依存心に吐き気がするが、もう遅すぎる。そんなつもりで傍にいたのではないと、そう訴える相手がいないのだから、届くべき音もまた、ない。
 もっと長い時間が欲しいと愚かに願い、耳に蓋をした。きっと自分にも聞こえていたはずなのに、聞かない振りをしていた。彼女を連れ去る天使の羽ばたきを、己の願望故に掻き消した。
 ………遠やれるわけでも、ないくせに。
 脳裏に掠めかけた幻影に鋭い頭痛が襲う。半分ほどまで吸った煙草の不味さに眉を顰め、青年は苛立たしそうな仕草で携帯灰皿を取り出すと、その中に煙草を押し込んだ。
 いっそ帰ってしまおうかと思い、それを頭を振って霧散させる。帰る場所はここなのだから、他の場所に帰るという考えは、おかしい。
 もっとも、もしもその言葉を与えるとしたら、きっとこの院よりもずっと相応しい場所はある。ただまだそれを告げていないから、自分の帰る場所は未だこの院でしかない。
 ようやく自分の中でも折り合いが付いたのだ。半年という長さでというべきか、短さでというべきかは解らない。それでもなんとか、立ち直ったつもりだ。少なくとも、自分以外の存在を思えるように立ち上がれる程度には。
 息を吐き出し、重い足を持ち上げる。そこにあるだけで気の重い雰囲気を押さえ込み、青年はその建物の中にいるはずの子供の元へと歩を進めた。
 院のドアを開けるとすぐに小柄な紺の服が翻った。幼い頃から見慣れているシスターの修道服だ。
 「あら和也、おかえりなさい」
 「………ただ今帰りました。あの、シスター…あいつ、こっちにいるかと思うんですが………」
 柔和な笑みで自分を迎えた初老のシスターに答え、少し口籠るようにして用件を言った。正直、あまりここにいたくはないのだと、そう伝えるように。
 そんな青年の仕草に初老のシスターは苦笑をこぼす。昔から彼はどこか淡白だったけれど、こと葬儀の場には敏感なところがあった。それが何故か彼自身も気付いてはいないようだったけれど、きっとそれは半年前のことを想定していた無意識の怯えだったのだろうと、そんな風に自分達には思えた。
 そう思うことが自然なくらい、彼はあの少女の傍に馴染んでいたから。
 「あら…おかしいですね。爆でしたら手伝いが終わってすぐに帰ったはずですが………」
 「えっ?で…も、あの家には」
 言いかけて、青年は言葉を飲み込んだ。今日は何があり、自分は何を思っただろうか。そんな単純なことを頭に思い描いてようやく気付く。なんて愚鈍なことだろう。苛立たしそうに青年は舌打ちをする。遠く、見透かすことも出来ない壁の先の、更に遠くの森にいるはずの子供を思って。
 息苦しそうに唇を歪め、青年は軽く頭を下げると何もいわずにその場を後にした。
 馬鹿な問答をしていると、そう思った。きっと彼女ならこんな馬鹿な手違いはしないだろう。いつものように微笑んで、院に進む自分の腕を引き、こちらに行きたいのだと、まるで自身の我が侭のように指し示す。そうして打ち沈み哭く魂を抱きしめるだろう。………そんな、不可解な洞察力を持つ人だったから。
 早歩きだった足はいつの間にか駆け出した。
 どうしてもっと、この腕は優しく伸ばされないのだろうか。必要な時に間違うことなく捧げられないのだろうか。
 間に合わなかった少女は、それでも鮮やかに微笑んで自分を受け入れてくれたけれど。
 もうあんな思いはしたくはない。あまりにも酷似した命を、同じように痛めて散らせることは空しすぎる。
 駆ける足は、どこまでもどこまでもその速度が早まることを求めて地面を蹴り上げていた。


 そこは遠くはない場所だった。幼い頃の少女でさえ歩いて着ける、そんな場所。ただ周囲に木の密集地点があり、案外人に知られていないスポットでもあったのだが。
 そこを少女は好んでいた。木のベールが日差しを柔らげ、その両手を自由にしてくれる場所。春には仄かな白い花の咲く、小手毬の空き地。
 辿り着いたそこで息を吸う。深く……森も日差しも風も、何もかもを体内に取り入れるようにゆっくりと。
 木の幹に手をかけながら、一歩ずつそこへと近付く。足音を隠してはいないのできっと勘のいい子供がその先にいたとすれば、既に気付いているだろう。心の準備は、いつだって必要だ。それが互いに共有する記憶に基づく感情に陥っているときであれば、なおのこと。
 青年はもう一度息を吸い、吐き出した。心臓の音が耳障りなほど大きかった。
 ………最後の一歩を踏み出した先、その光景に痛んだものは何だったのだろうか。
 記憶に重なる小さな背中。声もなく泣き顔を花にだけ捧げる、姿。
 幼い頃、自分はそんな光景を幾度も見た。自分には与えられない感情に寄り添える小手毬に、幾度苛立ちを覚えたかも知らないほど。
 切ない郷愁に眉を寄せ、青年は息を吐き出す。
 同じものを求めたいわけでは、ないのだ。過去の過ちを繰り返したいわけでもない。
 ただその小さな背中を思いながら天へと還った愛しい命を、自分は知っている。そしてその命のためだけに未来を思い続けた自分が、今、ここにいる。
 たったそれだけの単純な図式だ。………悲しいほど、単純な図式。
 「………………オイ」
 小さく声をかける。視線の先の薄く幼い肩が小さく震えたまま軽く頭が振られる。
 帰れと無言のまま示すのは、その声を出せば震えているからだろうか。
 慰めも同情も、まして傷の舐め合いも御免だという小さな背中は、哀れなほど幼い。痛々しいほどの潔癖さは少女が憂いた通り、あまりに清らかで澱みない。
 睨むように子供を見つめ、それ以上近付かない微妙な距離のまま青年は言葉を続ける。
 「今日のやつ…仲が良かったのか?」
 子供は青年の言葉にびくりと肩をはねさせた。まるで禁忌に触れたような過剰な反応だ。
 おかしいと青年は眉を顰めた。元々少女にしか懐かない、そんな偏りを見せる面のある子供は、自然と交友関係も少ない。その内面を垣間見た相手は慕うが、表面しか知らない一般の人間は基本的に敬遠するのが常だった。
 そんな子供の数少ない友人に何かあれば、院の人間が自分に知らせないはずがない。まして今日は院にまで出向いたのだ。まずそのことから自分に伝えるはずのシスターは、けれどまったく葬儀の中心者に関しては無頓着だった。
 ならば子供に関わりの薄い、赤の他人だったと想定しても不思議はない。
 「爆………?」
 不可解だと示すように、疑問を子供の名に乗せる。
 その音に子供の頤が上がり、花を散らせて緑に彩られたその枝に顔を埋めた。
 「違う。何度か礼拝の時に会った程度、だ」
 掠れた音が小さくこぼれる。まるでそれは懺悔のような響きだった。
 ますます意味がつかめず、青年は訝しさを示すようにして問いかける。
 「じゃあそこまで泣く必要はねぇだろ」
 冷たいようであっても、それは正論だ。あんな環境で暮らしているのだ。その程度の関わりのあった人間など、この先いくらだって葬儀の手伝いをする機会がある。その度に泣いては心がもたない。
 ……上手に心に蓋をする、その方法を取得しなければ病んでしまうのは自分自身だ。
 そう暗に示した幽かに冷度を持つ声に、子供は首を振る。否定のようなその仕草にむっと顔を顰めて青年が言葉を次ごうと口を開けると、子供のよく響く微かに高い音がそよいだ。
 「相手を思ってなど、いない」
 「………………爆?」
 言っていることと今のこの姿が一致していないと、呆れたような声で名を呼べば、子供はだらりと落ちていた指先を空に掲げるように持ち上げた。
 透き通る、白い子供の肌。けれどそれは病的ではなく健康的だった。いつも少女について回っていたせいで日傘の中にいることが多く、あまりその肌は日の色を写してはいなかった。それでも肌は力強さを内包して輝くように太陽に晒されることを喜んでいる。
 それを見上げるように更に頤が上がった。枝の中に埋没した指先は空を掴むのではなく、その腕を傷めるような音を響かせた。
 ぎょっとして一歩を踏み込んだ時、それを制すように子供の音が凛と響く。震えも帯びず掠れもしない、深く人の耳を打つ音。
 「あの空気の中にいると、目が霞む」
 泣いてしまうのだと、言葉にはせずに示す事実に息を飲む。
 確かに気鬱な空間だ。それは知っている。まして自分達は互いに誰よりも思っていた相手を、半年前に土へと還した。未だそれが傷になることは否めない。
 それでも、どこかであり得ないと、そんな考えが掠めていた。
 その葬儀の人間を思うのではなく、ただ葬儀というその空間が持つ冷たさと無機質さに感覚全てが奪われてしまうと、この子供はいうのだ。
 意志も思いも関係はなく、因果関係すらなく。ただ歴然とした事実としてそれだけがあるのだと。
 「思っているわけじゃない。……こんなものは、悼みですらないだろう」
 相手を思うわけでもなく、記憶の中の人を思うのでもなく。ただ身体が記憶している深すぎる傷に反射的に怯えているだけ。
 あの痛みを受けることを恐れて、逃げるための口実を構築しているに過ぎない。なんて不様で醜悪なことだろうか。
 「こんなもの、シスターには言えない」
 いっそ彼女の墓で思いのままに泣けばまだ、すっきりするのかもしれない。けれど彼女すら侮辱する自分の行為を、子供は自分自身で許せない。
 彼女を思い涙するならまだしも、あの喪失感を恐れているだけの自己防衛など、死者への弔いを足蹴にするも同然だ。
 だから、ここに来た。幼さを讃えた真っ直ぐな目を注いでくれるたった一人の人がいつも訪れていた木のもとへ。許しが欲しいのではなく、愚かさを自身で断罪できるように、来た。
 「だからお前も帰れ。俺は……大丈夫だ」
 救いが欲しいわけではない。欲しかったものは全て与えられて……全て奪われた。だから今はなにもいりはしないのだ。己で裁く腕だけ携えていれば、その他の全てはまかなえる。
 そうしなやかな背中は囁いた。その幼い肢体だけで生きることは出来るのだと、その強さと脆さを見せつけるように。
 その姿の歯痒さに唇を噛み締める。………大丈夫とか平気とか、そんな言葉は何の意味もないのだ。
 自分は知っている。その言葉の意味さえ知らず、ただ相手が笑ってくれるという理由だけで囁き続けた愚かな幼子がいたことを。
 それ故にその習性が消えず、人を思いながらも人を頼ることの出来ない哀れな命を、自分は支えることも出来なかった。
 「ふざけるなっ」
 だから、きっと……喉が唸るようにそんな言葉が出た。
 この子供に説教が出来るような立場ではなかった。自分は彼女を失ったその喪失感で、この子供を導くことさえ出来ずにこの半年を過ごしたのだ。罵られることはあっても、偉そうなことをいえるわけがない。
 それでも思いは突き抜ける。過去の日、自分は相手の微笑みに救われることばかりを願って、その人を守っているつもりでただ依存していた。
 もう二度とそんな真似はしたくはないのだ。思い知った無力さに生きる(しるべ)すら見失うような、そんな空虚を繰り返す気は毛頭ない。
 「大丈夫だぁ?ならあいつのところで堂々と言いやがれっ。泣き寝入りして、あいつが頭でも撫でるのを待つ気かよ!」
 棘ついた悲壮な言葉は容赦なく子供へと投げ付けられた。
 脳裏で響く警鐘に耳を傾けることなど出来ない。怒濤の如く溢れた言葉は巻き戻せない。
 ただ……許せなかった。
 逃げて、全てを己で収束できると勘違いしている、この哀れな子供が。
 どれほど己を過信しようと、傷付き痛んだ心は癒せるわけがない。醜く歪んでその鮮やかさを蝕む因にしかならない。
 それを自分は知っている。この身をもって、知っている。
 どれほど望んだって、己を救う腕は携えていないのだ。だからこそ、人は人を求めて腕を伸ばすのだから。
 苛立ちとともに青年の足が地面を踏み締める。
 乱暴な音が響く中、子供の背中は微動たりともしない。まるで、凍てついた像のようだった。
 破壊を知っている指先が、枝の中に埋もれるような子供の頭へと伸びる。痛みばかり求めて、罰されるとこばかりを祈って、この子供は何を罪と感じ何故に購うことを願うのか、青年には理解が出来ない。
 「逃げんな、脅えるなっ!あいつは…その程度でお前を見限るとでも思ってんのかよ?!」
 のばされた指は子供の頭を掴み、枝という檻の中から解放させるように引き寄せた。枝の悲鳴のような鈍い音がいくつか響いたが、子供は無傷だった。乱暴な仕草ではあるが、きちんと子供の頭を守るように青年の腕が覆っていたことに、かすり傷にまみれたその腕を眺めてようやく子供は気付く。
 ぼんやりと、子供は青年の腕の中でその傷を眺めた。………求め続けるぬくもりとはまるで違う、けれど同じ響きを持つぬくもり。
 乱暴で向こう見ずで子供っぽくて感情的で。なにひとつ脳裏に浮かぶ人と似通った場所などないくせに、真っ直ぐに澄んだその目の清らかさだけは鏡写しの人。
 霞んだ視界の先にたたずむことを許せるあの人と、同質の優しさ。
 「その程度で、最期まで傍にいたなんて、笑わせんなっ」
 罵るように恐れるように自分を詰る声は震えている。よくよく見てみれば包む腕も。
 言葉の選択も違ければ、その態度だって違う。同じだと感じること自体がおかしいだろうことを、誰よりも二人の傍にいた自分が実感している。
 それでも同じくらいの強さで二人が溶けるように一緒であったことを、自分は知っているのだ。まるで真逆のその姿は、鏡を介して見れば一致する性質。
 「…………笑わせるのは貴様だろう」
 だから、声を奮える。痛ましさなど滲ませない、いつもと同じ響き。
 あの人が傍にいた頃、いつだって蟠りそうな時に抱きとめてくれた。彼女は知らず甘えさせることがとても上手だったから、自分は破裂する前に負の全てを彼女に浄化してもらえた。
 目を閉ざしてみれば脳裏に鮮やかにたたずむ彼女の背中。自分を抱きしめる腕。頬を寄せれば弱々しい心音が、それでも確かに伝わった。
 たったそれだけのことが至上の喜びで、そのちっぽけな身体を有した命が、自分の世界の全てだった。
 「俺はシスターじゃない。………『泣く必要はない』だろう」
 いたわりを含みながらも冷徹に音が響く。肩にシミを作った液体を見上げはしなかったが、その頬が自分と同じように濡れていることは疑う余地もない。
 ぼんやりと子供は自分に縋るような青年の腕を見遣る。擦り傷だらけの腕は、自分の腕と同じだった。多分、彼もまた断罪が欲しかったのだろう。それは意識してではない、無意識の咆哮。
 同じものが欲しいなんて、いわない。そんなもの求める気もない。
 多分それだけは自分とこの不器用な腕の、共有した偽らざる思い。
 知っているから、悲鳴のような青年の声は肌を裂くほどに痛かった。それは自分とあまりにも似通った嘆きだ。
 「………お前とあいつは似ちゃいねぇよ」
 苦し紛れの声を吐き出して鼻をすする音が響く。本当に子供のような男なのだと、知らず唇が緩んだ。
 自分が言葉を失った時に傍にいなかったことを悔やんでいることを知っているし、この半年家に帰ることの出来なかったことへの後ろめたさも知っている。
 けれどそんな事はどうでもいいことだ。
 息の詰まるほどあの存在を思っていた証なら、自分を顧みる必要などない。自分もまた、この青年をいたわれるわけではないのだから、お互い様なのだ。
 一人立ち上がれるようになりたい。もう今までのように守られてその腕の中、ぬくぬくとしているなど出来はしない。
 もう二度とこの腕から何一つこぼさぬために、強くありたいのだ。それは、この自分にも彼女にもよく似た馬鹿な青年の前であったとしても、だ。
 「当然だ。俺はいずれ必ず世界を制覇するんだからな」
 蟠りは消えない。きっと同じ席に足を踏み入れればまた自分の視界は霞み、この木の下、一人泣くだろう。
 それでも構わない。その度に自分はこの思いを蘇らせるのだ。決して、同じ痛みを繰り返しはしないと、その度に誓うだろう。
 たった一人の命を思い、たった一言の言葉の重みを噛み締める。
 「はぁ?」
 間の抜けた青年の返事には耳を貸さず、子供は空を仰ぎ見た。木の枝に遮られていた視界は、青年に引き寄せられたために随分と開けていた。
 木漏れ日の先、太陽のかすかな光が見える。眩いそれを細めた視界におさめ、子供は厳かに頷き唇を引き締めた。
 「世界を、制覇するんだ…………」
 今はまだ、ただの夢物語。
 それでもこの足は歩みを止めず前へと進むだろう。
 侵しがたい雰囲気を身にまとう年端のいかぬ腕の中の子供を見遣り、青年は息を吐き出す。
 きっと自分のいない間にこの子供は何らかの結論を導き、それを具現するための方法を模索しているのだろう。昔から腹が立つほど頭の回る子供だったのだから。
 そしてそれはきっと自分一人で行うべきことと、そう思い至っているのだ。子供が澱みない言葉を紡ぐときは、その責任の全てを自身で背負う覚悟を決めている時だから。
 たった一つの事実が多岐に渡り人を動かす。なんて複雑で奇怪で……どこまでも愛しい絆なのだろうか。
 目を閉ざし、自分の中、霞みながら微笑む少女を見つめる。自分のために生きればいいのだと、そう囁いたその言葉の意味が、何となく理解できた気が、した。
 「じゃあ俺は、俺の分野で世界制覇してやるよ」
 子供の標にはきっとならないけれど、同じものを目指して歩むものがいることは励みになるだろう。
 生きる意味を見失い屍のように惰性で生きるより、きっとあの少女は誇らしく笑ってくれる。
 「真似をするなっ!」
 「まあお前より俺の方が先に出来るけどな?もう世界の植物は調べ尽くしたし、この国の植物の研究も区切りが付いちまった。後は実際に他の国に赴いての研究だけだ」
 幼い叫びを思い出した子供の姿に喉奥で笑い、青年はいたわるようにその身を軽く抱きしめる。
 言葉の綴った事実に、一瞬だけ子供が身体を硬くする。遠く離れることは珍しくはないし、今までだって当然だった。むしろ一緒に暮らしている時間の方が短かったのだから。
 だから驚くことの方がおかしい。そう思い、子供はゆっくりと息を吸って心を落ち着ける。
 その様を見て青年は苦笑する。本当は……もっと早くにそうすべきだったのだ。それでもこの国に彼女がいる限り自分は飛び立てず、それを彼女は憂いていた。
 大丈夫なのだと、この子供のように強がりであったとしても囁けばよかったのか。その言葉に痛んだ自分を知っているが故に囁けなかった言葉の意味はあまりに深く、自分には複雑すぎた。
 「俺は先に歩くぜ。お前のこと、待ってなんかいねぇし。悔しかったら、さっさと歩き出せ」
 優しく包むように愛しむなんて真似、自分には出来ない。そうしたかった人にさえ自分はあまりにも拙い腕しか示せなかった。
 だから、せめて雄大にいてみせよう。この子供がいつか本当の意味で独り立ちし、歩む足の恐ろしさに気付いたとき、その遥か先に自分はたたずんでいられるように。
 意地悪く笑んでそう宣言してみれば、むっと寄せられた幼い眉が意志の強い瞳とともに自分に向けられる。
 今日初めての、正面から見た子供の顔はやはり痛々しいほどに涙の跡を残していた。それでも真っすぐに貫く意志を忘れない柔軟さは、何よりもあの少女が与えたいと願ったものだ。
 その身を朽ちさしてもなお、彼女は自分も子供も導き高める糧だ。きっとそれは永遠に変わることのない事実。
 「貴様になど負けん。せいぜい足をすくわれんように足掻いていろ」
 「………お前、本当にかわいくねぇ物言いばっか覚えてんな…………」
 呆れたように辟易といってみれば、腕の中の子供は立ち上がるために回された腕を邪見に取り払った。
 抵抗なく解き放ってみれば、子供はその身長と同じほどの木を見ながら愛しそうに抱きしめた。………あの、かつての日の天使と同じ仕草で。
 「知っているか、和也」
 楽しそうにその木に頬を寄せる腕は、先ほど己で傷つけたせいでかすり傷だらけだ。それでもその柔和な雰囲気はあの日の少女を思わせるほど、澄んでいる。
 息を飲んでそれに見入れば、からかうような声音で子供がいう。
 「シスターは絶対に言うなといっていたが、この木はお前を呼んだんだ」
 「………………?」
 「初めてシスターが言った泣き言を叶えるために、木が呼んだんだ。だから、お前はシスターを見つけて声をかけた」
 おとぎ話のような夢見た戯言だ。それでもそれを否定するにはあまりに尊く少女は語った。だからきっと、そんな奇跡が起こっても不思議ではないのだと、自分にも思わせた。
 「お前はシスターの夢そのものだったんだ。………だから、シャンとしていろ」
 拙い言葉が木に触れ、微風を起こす。頷くように枝は揺れ、いたわるように子供を包む。
 決して奇跡を起こす神木などではなく、聖樹崇拝の対象ですらない。そんなちっぽけなこの低木は、けれどそれ故に身近にある人間をどれほど励まし包んだのだろう。
 「同じ言葉、そのまんま返してやるぜ、ガァキ」
 詰まりそうな息を飲み込み、不器用に笑んで青年が答える。
 その頬を流れ落ちた雫を見ない振りをして、子供はもういはしない人を抱きしめるようにその木を抱きしめ、瞼を落とす。

 …………身体には木漏れ日が優しく降り注いでいた。





 葬儀の場は私は嫌いです。背筋が寒くなるし、言い様のない焦燥感に襲われるので。
 別に霊感があるわけではないので何かが見えるわけでも何でもありません。
 ただまあ…自分の中から感情が競り上がるだけで。
 そういうのが恐いので葬儀の場にはあまり行きたくないと敬遠しがちなのですが、それでも避けて通れない場でもあるわけです。
 ならもう、発想を変えてマイナスに落ちていくのではなく、プラスに立ち上がるしかないのかな、と。
 そんな風に最近は思うようになりました。

 素直に死者を弔えれば、それが何より一番なんですけどね。

06.1.23