柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



enter






綺麗な人を思い出す。
優しくたおやかで
何もかもを見通す透き通った瞳を携えた人。

まだこの手首が自由で
まだこの肩にはぬくもりがなく
まだ隣にはただその人がいるだけだった頃のこと

目を瞑ったなら思い出す。
綺麗な綺麗な、彼女の面影。
静かにひっそりといつだって景色の中にいた。
消えるなんて夢想、思うこともなかった。

そんな、不変を当然に甘受していた頃のこと。





いま目の前にいるあなたと、未来にいる誰か



 ドアを開けた瞬間、微かな咳が聞こえた。
 首を巡らせれば、小さな部屋の中にあるベッドに眠る人はおらず、窓際に立っていた。
 「シスター!まだ熱が出ているんだろ!?」
 どうして寝ていないのだと、未だ高さを残した子供の声が諌める。それに気づき、窓際で外を見つめていた少女は緩やかに振り返り、口元に柔らかな笑みをたたえた。
 「空気の入れ替えを、しただけよ。爆は心配性ね」
 困ったように優しい声音がそう綴ると、子供の言葉に従うように楚々とした仕草でベッドへと歩み寄り、腰を掛けた。
 同じように室内に入り込んだ子供は、少女の腰掛けたベッドに近寄り、その前に立つと手に持っていたお盆をベッドサイドにあるテーブルに置く。
 少しだけお盆の上には水滴が零れており、先ほど声をかけた際に子供が零したのだろうことが伺えた。
 それに気づいたのだろう少女は、子供に手を差し伸べ、その頬を軽く撫でる。………微かな指先はそのぬくもりを子供の頬に知らしめた。
 「ね……?身体、冷やしていないでしょう」
 「………どうせ、和也のこと見送ったんだろ」
 優しい仕草で不安を解消してくれる少女に、甘えるような声で不貞腐れた言葉を子供は贈った。
 別に、それが嫌なわけではない。ただ、少しだけ悔しい気持ちが残ってしまうだけだ。自分とシスターが彼とは違う絆で繋がっているのを、彼が悔しがるのと同じだ。自分もどこかできっと、この人を独占したいのだろう。
 それはどこか赤子が母を求める感情に、近い。いや、本能と言い換えた方がより適切なのかもしれない。
 言葉には成し難いものなのだ。自分や和也がこの人を求める思いは。
 自分の中にある空虚を埋めたいのだと、そういってしまえば容易いかもしれない。けれど、それだけではないから。
 もっとも、人が人を求めることを言葉に換えることの出来る哲学者など、自分たちは信じもしないけれど。
 引き結ばれた子供の唇に微かに眉を寄せ、少女は笑む。やんわりと、包むような優しい笑みだ。
 そうして頬を撫でていた指先はそのまま髪を梳き、霞むように眇めていた視界を開かせるように覆っていた前髪をなくした。
 「また、和也にも心配、かけてしまったでしょう」
 「……………」
 「あなたにも、不安な思いをさせてしまった、から」
 せめて二人が一緒に歩む姿を見たかったのだと、困ったように幼い笑顔でシスターは囁く。
 夏という季節柄、どうしても不具合をきたし易い身体は、毎年こうしてベッドへと潜り込ませてしまう。
 昔よりはずっとその時間は減ったけれど、なくなったわけではない。そのことが少し、悲しい。自分の回りにいる人をどれだけ不安にさせるか、解らないわけがないから。
 子供に捧げられるのは、切なそうに眇められた瞳と、チグハグな子供のような笑顔。
 間近でそれを覗き込みながら子供は軽く首を振り、目の前の人の首に腕を絡めた。小さく細く、まだこの細身の女性さえ抱きしめることの出来ないちっぽけな幼い腕で。
 「違うぞ」
 そうして、呟く。はっきりとシスターの耳に響くように。
 「俺は、不安なんか感じない」
 ぎゅっと抱きしめる腕に力を込める。その体温を確かめるためではなく、目の前の人こそが抱えている何かを支えられるように、強く。
 不安はいつだって、自分から湧くものではなかった。自分が不安に思うものは何もなかった。
 いつだって真っ直ぐに自分を認め導いてくれる人がいた。何もかもを承知で見つめてくれる人がいた。それがどれだけ希有な存在か解らないほど、馬鹿ではないのだ。
 そしてそれにどれほど自分が救われているか知らないほど、己に無関心ではない。
 けれど湧くものがある。それは、自分の中からではない。………触れる感情が揺らめいている、のだ。
 悲しまないでと、シスターは眉を顰める。不安を思わないでと、祈るように声を震わせる。
 …………まるで、彼女自身がそれを纏っているかのように。
 「シスターはここにいるし、明後日は森に行く約束の日だ」
 それでも震える腕は、自分の震えではない。今こうして腕を捧げている人の、震えだ。解るのに、自分はそれ以上は解らない。どうして震えているのと、たったそれだけの謎を解けないでいる。
 そしてその問いかけは、暗黙の内に打ち消されるのだ。決して問いかけてはいけない、禁断の言葉。
 「シスターは今まで約束破ったこと、ないからな。明後日には、治るだろ」
 自信を込めて子供は呟く。それは至上の音だ。
 不安に染まりはしない、煌めきを孕んだ未来のための音。
 破天荒な幼い子供の夢想をさえずるような、そんな不可能を知らない音に、小さな腕に、抱きしめられたまま、ただ静かに少女の唇は笑う。
 嬉しくて………ただ嬉しくて、湧き起こるのは命の、そんな根源的ななにかが歓喜する感情だけだ。
 祝福を捧げるように小さなその身体に顔を埋め、少女は柔らかな声音を響かせた。
 「…………そうね。あなたがそういうなら、きっと治るわ」
 どんな薬よりもその真っ直ぐな子供の言葉こそが自分を癒すと、そう知っているから。
 穏やかなその顔の微笑みを。支えるものがなんであるかを知らない尊い子供は、偽りの滲むことのない清らかな音に満足そうに笑い、その腕の戒めを解き放つ。
 そうして目線の変わらないその人に笑い、年長者のような風情で言うのだ。
 「ああ。だから、ちゃんと寝てないとダメだぞ。和也だって、院に顔を出せばすぐに帰ってくるんだし、気にする必要ないんだからな!」
 少しだけ棘ついた声でいいながら、未だ上体を起こしている少女の肩を軽く押して横になるように促した。
 細く薄い身体は、自分の小さな手のひらでも容易く押さえられるほど、力なく感じられる。
 「爆は手厳しいわね」
 その手に従い身体を横にしながらクスクスと楽しそうに笑うシスターに、少し照れたように目元を赤く染めてそっぽを向きながら、子供は腕を組むと憮然とした風を装って言葉を次いだ。
 「当たり前だ。年がら年中、あっちこっちに飛び回って帰ってこない奴など知らん!」
 帰ってこないかと心待ちになどしていないと、未だ幼い仕草のまま綴る音の甘えに、少女はふんわりと微笑んで、横になったベッドの中、思い出すように呟いた。
 ずっと昔のことだ。この子供を見つけ、育てることを決意した頃のこと。彼に遠い町の学校に編入するのだと伝えられた瞬間の、あの感情。
 「いいのよ、それで」
 「………え?」
 やんわりとした笑みを唇に映し、少女は夢見るような柔らかさで音を綴る。まるで歌うような、滑らかさで。
 「和也には、和也の道が…あるもの。私ともあなたとも、違うわ。それは…和也でなくては歩くことの出来ない、道だから」
 一度言葉を止め、少女はゆったりと息を吸い込み、遠い過去を思い出すように、その長い睫毛を伏せがちに笑った。まるで、幼い子供のように。
 どきりと、する。時折シスターはそんな顔をする。取りこぼしてきた過去の顔を、不意に拾ってしまったような、そんな幼い顔。
 自分と大差ない年頃のような、そんな錯覚を思わせる表情のまま、どんな大人に問いかけても決して与えられることのない、そんな幼い至言を囁くのだ。
 「遠く離れても、道は交わるの。別々の道を歩んでいても、交わってしまうの」
 「そんなこと、不可能だろ」
 二人の中の不可侵を思い知らされるようで、子供はぶっきらぼうに呟く。それは否定の言葉というよりは、否定されたいが故に落とされた、言葉。
 それに微笑み、少女は細くたおやかな指先を伸ばし、少し遠い子供を手招きする。それに従うように子供はしゃがみ込み、その枕元に顔を寄せた。
 子供を導くように少女が抱き寄せ、その額を交わらせる。
 柔らかなぬくもりが互いを包むように滲む頃、ゆったりとした声が響く。肌に直に沁みるような、優しい声音。
 「思いを忘れなければ、可能だわ」
 やんわりと綴られる音色は、どこか儚い。微笑む柔らかさの中に隠されてしまう、その気配の希薄さ。
 その幽かさを嫌い、消え入りそうな気配を鷲掴むように、子供は焦点が合わなくなるほど間近にいる人を睨みつけた。
 「そんな相手、見つかるわけない」
 そうしてそのままに囁く声は、震えていた。
 いつだって見せつけられる。遠くにいるくせに、この人を支えている影。自分がそうありたいというのに、小さく頼りないこの身体は、願い求めるだけの力を発揮することがない。
 続ける言葉を綴るには苦い唇を噛み締めれば、微かに吐息が触れる。
 綴る音を追いかけて吐き出される呼気は、少女の体調故か、ほんの少し、途切れがちだった。けれどそれは、意固地な幼い音を暖かく綻ばせるように重なる音を芽吹かせた。
 「見つかるわ。私にだって、二人も見つけられたのよ………?」
 和也のことばかりと眉を顰ませた子供の顔が、一瞬、驚いたように弾かれる。交わっていた額が解かれ、近すぎてぼやけていた少女の微笑みに焦点があった。
 綺麗な人だと、いつも思う。その姿形ではなく、心のあり方が。生きるのなら、そんな生き方がしたいと思わせる、真っ直ぐな命だ。
 その心が、一心に自分に注がれることが解るから、湧き出るものがある。それをきっと和也は知っていて、また、シスターも理解しているのだ。
 まだ幼い自分だけがそれを知らず、ただ甘くあたたかなその優しさに酔いしれるように目を細めて、眼前にいる病床に臥せっている筈の人に、音という名の腕を伸ばす。
 「………なら、俺はシスターが最初で最後だ」
 暖かく染み込むその声を抱きしめて、自分の傲岸さを知っている子供は呟く。
 あまりに自分の生き方もあり方も同世代の子供に受け入れられるものではないと、そう知っているから。この人のように優しく柔らかく、万人に受け入れられるしなやかさがない、から。
 だから理解してくれるものは少ないだろう。そして自分は理解されなくとも平気だと、それらに背を向ける。………たとえ背を向けたとしても、自分が行いたいことは行えることを知っているから。
 誰も知らなくていい。自分がどんな物思いを抱え、それ故に何を成したいかなど。
 「いいえ」
 それでも伝えた言葉には、否定が綴られた。それは心からの自信を秘めた、優しい音。
 見遣ってみれば、変わらない真っ直ぐな瞳に強い意志とともに光が宿っている。
 「必ず、見つかるわ。それがいつかは解らないけどれど…どこかに必ず、いるもの」
 夢想の戯言ではない、確信を秘めたその言葉。
 どこか浮き世離れした彼女の、それは一種独特の癖だった。なにかしらの根拠があるその言葉は、それ故に今は理解出来なくとも、いつだって未来で祝される祝詞だ。
 不思議な予言を聞くように子供は目を瞬かせ、次いで仕方なさそうに……笑った。
 「シスターの言葉なら、信じてみるか」
 そう呟いて、動いたせいで肩が露出してしまった部分に布団をかけ直す。
 たった一人自分を見つけだしてくれたこの人だけは、何があろうと自分を知ろうと腕を伸ばしてくれる。そして彼女がある限り、その影にはあの男が寄り添うのだろう。
 だからこそ、この世のどれほどの人が非難しようと誤解しようと、自分は恐ろしくなどないのだ。
 ふうわりと子供の言葉に微笑んで、少女は目を閉ざす。そんな、どこか幼くさえ感じさせるその仕草を見つめながら、思う。
 この先にどれほどの人に出会うことがあろうと、彼女と同じ命はないのだと。
 何かに代わることが出来ないという、そんな当たり前のことを実感とともにこの人は教えてくれる。
 人は、ただ一人の人なのだ。未来に待つ誰かがたとえ本当にいたのだとしても、それはこの人とは違う。同じだから受け入れるのではないのだと、眠る吐息を落とすその面にかかる前髪を撫で上げて、心の底に落とす。
 この世にただ一人の人なのだと、小さく聞こえないように呟く。だから早く一緒に遊ぼうと、誰にも……自分にさえ聞こえないように、心裏にさえ見えない奥底に囁きかけながら。
 ちらりと見遣った窓の外は晴天。
 そしてその窓辺にはタペストリーにした葉っぱが静かに佇んでいた。


 和也と作った葉っぱのタペストリー。
 それを飾った時、和也は何かシスターに囁いていた。
 そうして、落とされた微笑み。

 あんな笑顔を与えられるように早くなりたいと、小さな手のひらで硬く拳を握りしめながら……………







 朱涅ちゃんからの頂き物への返礼「空と森」の続き。
 書いた日にちを見れば解るように、実はこっちが先に出来上がっています。…………ええ、これがそのままあの話に繋がる筈だったんです。
 でも長さ的にも無理になったので、少しいじくって翌日の話にしました。

 カイの存在を知っているので、シスターはいつかきっと誰かが必ず爆を見つけてくれると思っています。それはカイに希望を託しているのではなく、爆という本質を見てくれる誰かがいたことへの希望です。
 まあだからこそ安堵もあったんですけどね。残すことへの不安と同じくらい、大丈夫と思えるのは、あの山で出会ったことに起因はするのです。
 そして何よりも和也が残ることへの、希望。

05.10.19