凛とした背中
脳裏に浮かぶ彼の姿は
真っ先にそれ
その意志の強い眼差しでもなく
言葉を吟味し引き締められた唇でも
華奢にも見える肩でも
弛むことなく歩む足でも
必ず掴み取ってくれる指先でもない
己の目に映る全てを
そう、全てを
まるで守ろうとするかのような
そんな彼の小さな背中
誰にもそれを手折ることは出来ない
01.早咲きの色彩
さわさわと風が過る。髪を揺らすだけの力のないそれは頬をくすぐるだけの空気の振動。
眼差しを柔らかく細めて空の彼方を見つめるような横顔が視界に入り、口元をほころばせながら声をかけた。
「………なにかいい事でもありましたか?」
やんわりとした音はいま吹きかけた風のように優しく静かだった。そう歳の変わらない少年が携えるには少し達観した音だ。それに目を向け、すぐにまた空に戻された瞳は一度瞬きをするようにしてその視線を隠した。
また、風が吹いた。前髪をくすぐった風を追うように目を開けた子供が、小さく唇を動かす。
「いや……思い出しただけだ」
そっと囁かれた声はその体の小ささに見合った幼い声。けれど彼の言葉として響くとそれは重厚となり、軽々しさがない。言葉の意味の深さではなく、それは彼自身の人間としての厚みなのだろう。
彼は言葉を選び取り綴る。出会った当初、吃音かと思っていた会話の最中の僅かな間や音を出さない唇。けれどそれは決して音を出せないわけではないと気付くのにそう時間はかからなかった。
自分よりも小さな子供は、その年齢に見合わないほど言葉の重さを知っていた。
与えられた言葉によって命が挫けることを知っていた。人が言葉一つで容易く傷付くことも、それによって消えない傷を負うことも。それが故に、子供は言葉の持つ鋭利さに注意を払っていた。
ふざける必要や、そうした形での幼い交流を持つための乱暴な物言いはあっても、そのどれもが必ず信頼関係を得た後に与えられた。
相手の懐深くに沁みてしまう瞬間の言葉は、いつだって熟考を重ね一つとして棘とならぬように配慮されていた。
それはいっそ痛々しいほど徹底されていて、そのくせ、子供は自身に向けられる言葉や感情には無頓着というアンバランスさがあった。
あるいは、無頓着であろうとしているのかもしれない。時折、そんな馬鹿なことを考えてしまうほど、子供は幼さを手放そうとどこか依怙地だった。
綴られた子供の言葉を眺めながら、少年は子供と同じ空を視界に埋めた。真っ青な空は淡く、雲は見当たらなかった。ただ遠い先の土地では雲が立ち籠めているのか、青は淡い白から僅かな灰色へとその色を変えている。
けれど春の近付いた空は優しい色だった。風も寒さを忘れはじめ、眠っていた新緑が目を覚ましはじめている。
それに目を細め微笑み、少年は喜びを感じるようにしみじみと頷いた。
「そうですか。………春が待ち遠しいですね」
こんなにも綺麗な空だ。冬の合間の小春日和。今日なにかを思い出すというのなら、それは春の記憶だろう。命の脈動しはじめる、優しい季節。
命の連鎖を受け継ぎ眠りから覚めはじめる、そんな季節。
頷く少年の揺れる髪が風にすくわれ、微かに空中を舞った。それが子供の視界で踊り、青かった視野に僅かな黒が掠めた。その瞬間の子供の姿に、少年は目を丸めた。
………ぎくり、と。
もしもそれを表現しろといわれたなら、少年はそう擬音をつけただろう。それほど子供は顕著な反応を示した。
まるで驚くように……否、怯える、ように。あり得るはずのない思考が一瞬脳裏を掠め、少年は首を傾げる振りをしてそれを打ち消した。
何が原因であるのかは分からない。ただ自分達は空を見上げ話をしていた。静かな時間だった。言葉も音も空気の流れさえも、静謐といえるほどに。
それに子供が動揺するはずがない。彼はいつだって弛まぬ背中を自分達に示してきたのだから。
目を瞬かせて見間違いかどうかを確認しようと少年は子供に視線を向けた。まっすぐに、彼だけを視野におさめる。
小柄な子供の肢体が映る。その細さからは想像さえ出来ない力を有した、自分よりも年下の子供。
平時はあまり表情を乗せていないせいかその造りは幼いはずなのに妙に大人びて感じる彼の顔。その眼差しの端にすら先ほどの反応の痕はなかった。
いつもと変わらない真っ直ぐな視線。歪むことさえ知らない、研ぎ澄まされた彼の魂そのものの眼差し。
揺れることもなく見返してきた子供のどこにも先ほどの面影は見えなかった。やはり見間違いかと小さく苦笑し、軽く息を吐き出した。………それは、安堵の吐息。
もしもこの時もう少しだけでも大人であったなら、もっと違う見解を持てた。そう、後から幾度も思う。その度に彼は苦笑して気にする必要などないといってくれるけれど。
それでも見えていたはずのものを見ていなかったことが、悔しい。自分はこの時気付けたはずなのだ。先入観でも思い込みでも………身勝手な希望でもなく、彼を見ていたなら。
ただ彼は苦笑を浮かべた自分をかすかに細めた目で映し、その口元に笑みを乗せた。
それだけで相手が不安を消すことを知っている、そんな仕草。誰かに甘える以上に誰かを守ることを決意した子供の寂しい癖。
「春は………物悲しいな」
「そうですか? ああ、でも、桜などが散る頃はそう感じますね」
小さく呟かれた言葉に一瞬首を捻りかけ、けれどそんな瞬間も確かにあると少年が頷く。
ぎゅっと握りしめられた子供の手のひら。それは極自然な動作で、少年の目には吹きかけた風の強さに身構えた程度にしか映らない。
そうして叩き付けるような突風が消えた後、子供はまた空を見た。真上の空ではなく、遠い空。薄らと霞んだ白と灰色の、空を。
なにかを噛み砕くような沈黙。引き締められた唇は綻ぶことさえないような気がするほど力が込められていた。それはまるで睨むような、そんな姿。
どうしたのかと訝しみながらも、遠い場所を見遣るのに視線が険しくなっているだけかもしれないと見当を付ける。
………緩やかな時間は変わらずに流れていた。少なくとも、少年はそう感じた。
それを眺めながら、子供の肩を見つめる。少しだけ後ろにいつもいるせいか、少年が彼に目を向けると初めに映るのはその小さな背中や肩だった。
自分の手のひらや腕でも容易く包めそうなその小ささに時折驚く。彼がまだ、年端もいかない年齢の子供であることを今更のように思い出した。
「生まれることと死に逝くことは、同義だからな」
だから春は物悲しいのだ、と。
子供は風に乗せるようにそんな言葉を噛み締めた。呟くというよりは、己自身に言い聞かせるように。
もうすぐやってくるだろう季節を、まるで覚悟を定めて迎え撃つような、そんな子供の声。それに目を瞬かせて、少年は苦笑した。
彼がいうにはあまりに大げさな物言いだ。正しい自然サイクルの循環は、確かに生死を同一視せざるを得なくはあるが、それを実感を込めて囁くには自分達にはまだ早すぎる。
戦うことに身を置き、国という広域な範囲をただ一人で自分達は守る責務がある。それでも、決して死を司るのでも生を司るのでもない。
守るというその単純な意義を不純物なく認識出来るのがどうしても子供だけだから、聖霊と心通わせることが出来る自分達が戦うだけだ。
だからまだ年齢的な情緒は育みきっていなくて当然だ。早熟すぎることは決していい結果を招かない。
まだ幼いのだからと、そう教えるつもりで、少年は目の前の小さな肩に指を伸ばした。そっと添えるようにその肩を手のひらで包んで笑いかける。首だけを巡らせて少年を見上げた子供は眉すら動かさずに瞬いた眼差しで疑問を示す。
それを受けて、少年は柔和と関するべき笑みを浮かべた。前に進み過ぎなくてはいけないほど、彼は弱くはない。強さをひたすらに求めるほど、彼は盲目でもない。
強さも弱さも自覚して、その上で彼は真っ直ぐに立つのだ。平然とした顔をして、あっさりと活路をつかみ取る。
自分以外の誰も傷つけないように配慮して、その体だけ、ボロボロにして。
それは彼の優しさであると同時に、彼の弱さ。
「育む季節、ですよ」
全てを重く己に課せる必要はないと、幼い子供に言い含めるような声音で囁く。
彼は強くて、同じくらい、弱くて。己一人で立ち続けようとするから。そんな風に先に急ぎ過ぎず、周囲の景観に身を浸して穏やかさの中微睡んでもいいのだと。
自分が彼の年頃に包まれていたぬるま湯のような心地よさを思い、綴った。
「あんなに綺麗な季節なんですから」
笑い、子供を見つめる。相変わらず表情の乏しいその面には、小さな苦笑。
「そうだな………」
呟く声はいつもと変わらずに響く。
彼は優しく、彼は暖かく。………それ故に、彼は孤独だ。
そんな当たり前のことをまだ知らなかった頃の、晩冬の話。
何を思い呟いたのか
何を見つめ恐れたのか
何を感じ憂えたのか
何も知らないくせに、知った気でいた
どこまでも身勝手な、思い込みで…………
時期的にはカイと爆が出会った後、カイの村がトラブルモンスターに襲われる前、です。
なので友人として認識はしているけれど、まだ爆にとってカイは守るべき人間の一人であって、背中を預ける位置にいない。
カイはカイで爆が傷を負っているという観念はなく、子供であるが故の無謀な頑固さと勇気が支えている面もあるだろうと、勝手に自己見解で完結させちゃっている感じで。
そんな感じの頃合いから段々変化していって、『小手毬の記憶』のように押し付けた親切心からちょっと衝突、という感じですか。
今回のお題はシスターシリーズではあるけど、まだシスターの存在を知らないカイで書いていこうかと。
なのできっと苛つきそうな予感もします。なんでそんなに鈍いんだよお前!とか言いたくなるような。でもカイもまだ13歳くらいなんで。十分聡い方だと思いますよ。
06.10.31