それは多分、自分が幼い頃親から受けていたことを繰り返している悪循環。
虐待は受け継がれると、そう囁かれたことがあることだって知っている。
だから、我慢することに必死だった。
感情を抑えて、吹き出すものを留めようとする。
けれどそれは結局ぎりぎりのどこかで爆発させる因にしかならなかった。
もっと優しく生きることのできるものになりたかった。
それなのにそれはひどく難しい。
癇癪を起こしてはひどく後悔して
優しい御手に癒される。
ああ、守りたいのに。
その腕をこそ、守りたいというのに。
どうか自分のこの悪癖が、彼女を傷つけませんように。
近似する命だからこそ
空は快晴。機嫌良く歩きながら、聖堂の扉を開けた。
ここに帰ってくるのは久しぶりだ。今回は何も予告しないでの帰郷だが、それもまた仕方ない。たまたま著書の訂正部分に入れたい資料がこの院に残したノートの中だったのだから。
別にさして急ぐことでもないので連絡くらい入れる余裕はあったが、驚く姿が見たくてこっそりきてしまった。きっと自分を見た時、あの子供は幼い顔を顰めて不貞腐れるだろう。その反応はどこか幼い頃の自分に似ていて、ついからかってしまうのだが。
扉の先、ちょうど立ち上がったらしい影に目をやる。と、それは幼い頃から見知った少女だった。
黒い長い髪が揺れ、日に透ける。ステンドガラスから差し込む日差しのなか眩そうにこちらを見遣った目は、幼い頃のように大きく見開かれて瞬いた。
「え………? 和…也?」
「よ、こんな場所で何やってんだ?」
軽く手を挙げて笑う。悪戯が成功した、子供のような笑み。
「それは私の台詞じゃないのかしら?」
クスクスとそれに笑いかけながら足音さえ微かに彼女は歩み、扉の近くまでやってきた。和也の隣から外をのぞき、その天気の良さに先ほどのようにまた、目を細めた。
「散歩日和か?」
「ん……少し日が強い、かしら。でもこれくらいなら、今は平気よ」
日傘がなくても歩けそうと笑う姿はそれでもどこか儚い気がして苦笑する。もっとも日差しのした歩けるだけ、確かに昔に比べればずっとましになったのだけれど。
「まあ…それなら今は中にいろよ。あいつ帰ってきたら、外いけばいいし」
ドアを閉めながら軽くその小さな肩を中へ押した。今はもう、その体を片腕で支えられるくらいに成長した自分の手のひらは、それでも彼女と一緒にいるとどこかチグハグな気がしてしまう。
「ゆっくりできるの?」
「そこまで急いでねぇし。資料探しにきただけだけど、しばらくいても差し支えはねぇよ」
まああいつが怒るかもしれないがと喉奥で笑う。どうしたって力でかなわない自分に悔しいと、あの小さな体で本気で思っているのだからたいした男だ。もう既に一人前に守る者のためにどうすればいいのかを考えることのできる、大人と同じ位置にいる子供。
そう思い、笑った口元は苦笑に変わる。
「あら、あの子はあなたに懐いているわよ?」
どこか面白そうに笑う彼女にとって、きっと自分とあの子供が互いに思う複雑な感情は好ましい類いなのかもしれない。
大人も子供も関係なく、馬鹿らしいまでに同じ位置で意見の交換ができるのは、確かに考えてみれば微笑ましく尊いことなのだが。どこかそれでも違うのではないかと思ってしまうのは、互いに譲れないものが同じというその一点なのかもしれないけれど。
「で、お前は何やってたんだ?」
話を元に戻し、立ち上がった少女の理由を問うように言葉を返してみれば、やわらかく微笑む。
それだけで勘付く。………確実に、あの子供に関わることだ、と。
「もうすぐあの子が帰ってくるから、たまには外で待っていようかしらって……」
「思っていたら帰ってきたのは俺だったって?」
「偶然ってすごいわね」
微かな嫌味にすら聞こえる言葉をやわらかく包んで少女が笑った。相変わらず、どこかふわふわしていて掴み所がない、穏やかな笑み。もっともあの過去の笑みを思えば今の方がよほどいい。少なくとも悲しみからの笑みはなくなったのだから。
「あいつ、こんな早くに帰ってくるのか?」
時計を見ながら自分の下校時間を思い出してみる。大体学校が終わったのは3時くらいだったが、自分はそのあと歩き回っていたせいで日も沈んだ頃に帰ることが多かった。
「早くもないわ。今日は随分ゆっくりしている方よ。トラブルでないといいけど………」
「なんだ、あいつ、いじめでもされているのか?」
顔を顰めて問いかける。そんなものに負けるような鍛え方はしていないけれど、子供は同年代に比べて体が小さい。そのことを考えるとあの頃合いの子供は力が強いものが勝つケースの方が多い事実はネックだ。
そわそわし始めた和也に笑いかけ、少女は首を振った。
「少し、違うと思うの。そうね、私に近い、かしら」
思いながら少女は小さく微笑む。
だから心配はないのというような仕草は、何故か無条件で信じさせてくれる。が、今回は少し勝手が違う。彼女と同じ状態だというのであれば、それは自分が彼女と出会った当初していたことを指すのだろう。それらは確かに陰湿さの少ない、軽やかで罪悪感のないものだ。それでもそれを味わった本人が傷付かないわけではないことくらい、いまは知っている。
あの子供は彼女と一緒に暮らしていたせいか、もともとの素地か、ひどく幼い頃の少女に似ている面がある。
何もできなかった頃を、癇癪を起こすばかりで自分より小さな女の子を苦しませてばかりいた頃を思い出して遣る瀬無くなるほどに。
「大丈夫よ、和也」
「……………?」
とん、と、まるで自分が考えていたことを看破したかのようなタイミングの良さで少女の細い指先が自分の背を優しく叩く。
目をやれば、空からの淡い日差しに微睡む昔の女の子のような、静かな笑み。
「あの子は解っているもの。きちんと、ね」
祈るように手を合わせ、そうして少女は誇らしそうに笑んだ。
彼女の、たった一つの生きる意味。…………それは自分の前でさらされた約定のようなものだった。
そうしてそれを違えることなく彼女は眩く成長した。あの頃でさえ、自分は追い付けないと足掻いていたというのに。今はその足下にすら寄れないのだから笑い種だ。
「和也も、大丈夫よ?」
「はぁ?」
突然降られた言葉に反応しきれず、素っ頓狂な声が漏れる。昔からどうしても彼女にはペースを狂わされる。普段は自分が周りを振り回すというのに、だ。
「あら、気付いていないの?」
「なにを」
「それなら……うん、どうしようかしら」
「おいっ」
きょとんと小首を傾げてしげしげと自分を見つめる少女に少しだけ険を孕んだ声を向けるが、ふうわりと笑う唇があっさりとそれを受け流してしまう。
これだから、この少女にかなわないのだ。
たとえば自分が彼女を脅したとしても彼女は跪きはしないだろう。……それは力の有無には左右されない、彼女の内なる輝きに自分が平伏してしまっている証だ。
むっと顔を顰めてみせるが、彼女は背の高い自分の頭に腕をのばし、その髪先をいじるように梳いて、笑う。…………まるで幼子をあやすようだというのに自然すぎて腹も立たない。もう遥か昔から、彼女にとって自分がずっと年端のいかない子供のような、そんな錯覚があったからかもしれないが。
「意地悪するなら、内緒よ?」
からかうような声で、楽しそうに少女が言った。
絡まった前髪を優しく空いて解き、遥か昔、あの小手毬を抱きしめていた天使が、笑う。
自分と同じように成長して、その羽根は相変わらず手折られたままだというのに、あの頃と変わらず静謐の空気の中で生きる人。
離れた指先を、知らず追いかけ掴む。また、消えてしまうのだろうかと思い、そんなわけはないと思う。………その理由が自分ではない誰か故、なのだから、少し腹立たしいのだけれど。
「もう、意地悪してねぇだろ」
少なくともそうと思ってした覚えはないと不貞腐れた声が呟く。まるで、子供だ。到底男として彼女の前に立つことは出来ない。
彼女はどこまでも許す人、で。
自分はどこまでも許される人、だ。
遣る瀬無く歪めた眼差しの奥、掴んだ指先を包む、たおやかな指先。
静かな笑みをたたえた唇は、誇らしげに音を紡ぐ。
「ね、だから、大丈夫なの」
「…………………?」
「和也はきちんと、自分の生き方を見つけられる人だから」
あの子供と同じく、自分を逃げ場とはせず、飛び立つための止まり木として帰りくるだけ。
そうして生きることのできる人間は、きちんと己に降り懸かる難題を己で考え乗り越える力がある。
昔のように気付いてほしいからと方法を誤りはしない。傷つけることで得られるものはないと知った人間は、どこまでも優しく鮮やかに生きることができるから。
「でも……そうね」
「ん?」
「あの子は、どこか昔の私に似たところがあるから……それだけは、不安、かも知れないわ」
大丈夫と自分に言い聞かせて全てにただ真っ向から挑むだけの意固地さ。迂回したりほんの少し歩む歩を緩めたり、誰かと一緒に力を合わせたり。そうした柔軟さが、まだ欠けている。
「あの生き方は、自分の傷に気付けなくて、周りの方が悲しくなるわ」
「…………気付いたんなら、お前も大丈夫、か?」
苦笑する少女ににやりと笑って意趣返し。
「あら、失敗したかしら?」
幼い仕草で驚いたように目を丸め、次いで綻ぶように彼女は破顔する。
本当に……たくさんの表情をさらすようになった。無表情ではなく、ただ笑うだけでもなく。
心のままに、その感情が表情に表れる。そんな当たり前のことが嬉しいと。
ただ思う。
だから、か。
あの子供の無表情さは、時折この胸をひどく、軋ませる。
彼女に愛されて、どこまでも一緒にいられる。その上、彼女にとってかけがえのない、彼女が生きるための、その理由となっている存在。
そりゃ悔しいでしょうし羨ましかろうよ(笑)
でも何故か、私、和也が男としてシスターのそばにいるイメージがない。
まあ困らないのでいいんですが。
05.2.27