怒る意味もない、そんなこと。
自分は傷つかない。こんなことでは。

それなのに平気だと呟けば

彼は遣る瀬無く顔を歪めて、怒るのだ。




近似する命だからこそ  2



 頬をこする。少し、かさついた気がするのは擦り切れたせいか。
 厄介だなと思いながら溜め息を吐いた。別にこの程度痛くはない。別段珍しくもない、自分達とは違う種の人間への怯えの現れだ。そうしたものに目を付けられやすいわけではないけれど、時折意固地なまでに突っかかってくる馬鹿はいる。
 自分も適当に躱せばよかったのだ。それが出来ないわけではないけれど、どうしても譲れないことくらい、やはりあって。
 そうした結果の、幼い殴り合いは不覚にも人数的な差で引き分けだった。こうした場合は無傷で帰らなくてはいけないのに。
 知っている、から。悲しそうに歪む目を。叱るわけでも咎めるわけでもない。ただ、諭すように祈るように眇められた瞳の奥の、すくいとれないほど深遠な、悲しみ。
 あれは、下手に怒鳴られるよりよほど辛い。もう二度と、と思いながら、それでも繰り返してしまっている自分の成長のなさに辟易とする。
 またこぼれた溜め息。
 聖堂がのぞく視界の先。いつもなら耐えられなくて駆けそうな足が今日は重かった。
 どうしようか。なんと言い訳すればいいだろう。転んだなんて馬鹿な言葉で騙せるわけもない。正直に話したなら、泣かれてしまう気も、する。
 それが喜びからか悲しみからか、その判断が自分にはつかない。だから、言葉に出来ない、怯えという感情。
 俯きながらもう少しゆっくり歩けばよかったと埒も明かないことを考えていると、不意に聖堂の扉が突然開いた。
 誰か来ていたのかと視線をあげて見れば、そこには今日はいないはずの男が立っていた。
 彼は遠目に自分を見て手を挙げて合図し、奥にいるだろう人に振り返って話しかけている。
 「お前、よく解ったな。そろそろだって」
 「あら、だって爆はいつも寄り道しないで帰ってくるもの。すぐに解るようになるわ」
 誰かさんのように泥だらけで夜帰ってくるような無茶はしないものと、昔を思い出してかくすくすと笑う。楽しそうな、朗らかな声で。
 昔からの知り合いというのはこういった時に厄介だ。簡単に揚げ足を取られてしまうのも関係の親密さを教えはするが、どこか決まりが悪いし、居心地も悪い。
 むっと顔を顰めて不愉快さを表すけれど、結局は照れ隠しと看破されてしまうのだから覗き込む彼女の顔はやはりやわらかく笑んだままだ。………それにどこまでも(ほだ)されてしまうのだから、大概自分も甘いのだが。
 「お帰りなさい、爆」
 そっぽを向いたままの男の隣、少し陰りのある聖堂の中から一歩前に出て、シスターが声をかける。空からの日差しと同じ、透き通った声だ。
 それに耳を澄ませるより早く少しだけ左を向いてしまった。目の前の男と同じ仕草であったことに微かな自己嫌悪が湧いてしまうのもよくあることと腹の中で押さえ込む。
 それに気づいて、また一歩、シスターが子供に近付いた。気づいた男もまた、逸らしていた顔を二人に向ける。ちらりと空から降り注ぐ日差しを見て、何かを計算するような間のあと、に。
 「……爆…?」
 やわらかな声が名前を呼ぶ。その声は優しくて……きっと、その顔はやわらかく綻んでいるだろう。
 解っているから逸らした顔を返せない。その顔を見たなら憂える瞳を知ってしまう。
 すっと差し出された細やかな指先。息を飲んで、それが触れる瞬間を罪人にほど近い面持ちで待った。頬を撫でる爪先。痛む箇所を手のひらが包んだ。まるで癒せること願うような仕草。
 「………どうしたの?」
 「………………………」
 「爆………?」
 問いかける声は誠実で静かだった。決して叱っているのではなく、何故の傷かを知りたいという、寄り添う声。
 息を飲んで、覚悟を決めるように、目を開ける。
 まっすぐに彼女を覗けばやはりその目は優しくて。………優しいからこそ、ひどく痛んでいることが解ってしまう。
 「喧嘩、しただけだ。大丈夫、だから」
 「そう………? でも、腫れてしまうわ。冷やさないと、ダメね」
 子供の言葉を詮索はせず、小首を傾げて囁く様はどこか寂しそうだ。
 「ねえ爆」
 たおやかな指先が頬を撫で、それに従うかのように、ゆっくりとシスターがしゃがみ込む。同じ位置にある、深く淀みない、透明な瞳。
 「…………なんだ」
 「喧嘩が出来る、ということは、悪いことではないの。でもね」
 まっすぐに見つめる目は、どこまでも同じ位置。決して自分を子供として見下さない、同域に住うものとして認める、その態度。
 だから彼女の言葉はよく響く。この、胸の中。
 「一対多数の場合は、別よ。どれほど正当な理由があったとしても、それはしてはいけないことなの」
 子供同士の些細な喧嘩であったとしてもそれは許されることではないのだと、厳かな唇が囁く。穏やかで優しい彼女の、それは厳しいまでの真っすぐさ。
 大人には珍しいその尊さが、子供には心地よかった。周りの全てが有耶無耶に済ますそれらを、彼女は真っ向から受け止める覚悟と誠意があった。それに敬意を表すように頷き、再び伸ばされた指先が頬を包む様を見つめながら、小さな己の指を彼女の指に添える。
 「解っている。でも、本当に平気だ。痛いわけじゃ、ない」
 遠く、どこか見えない遠くを見つめるように子供が囁く。この腕がある限り、きっと自分は揺るぎなくいられる。認めてくれる人がいる。それは、何よりもこの身を支える勇気をくれた。
 だから、大丈夫。
 この先どんな理不尽さがあろうと真っ向から立ち向かうことができる。
 「…………で、誰だ、その相手」
 不意に割って入ってきた不粋な声に綻んでいた子供の顔が微かな険しさを含んだ。
 その反応に微かな舌打ちが聞こえ、シスターがどうしたのだろうと彼を振り返る。
 「和也?」
 びくりと、彼女の腕が頬の上で跳ねた。少しだけその声は震えている。どうしたのだろうと顔を向けるよりも早く、和也の声が届いた。
 「お前が殴られるぐらいなんだし、それなりの相手だろ?」
 「…………別に、たいしたことはない。宙くらい、4人掛かりでなければ………っ!」
 「ふ〜ん……タダシ、ねぇ。そういやいたな、信者の家族に」
 おそらくその子供を思い出しているのだろう興味のなさそうな和也の声にシスターが慌てたように立ち上がった。
 心なしか、顔が青白い。また具合を悪くしたのだろうかと顔を顰めて、彼女の指をとった。指先は冷たく、微かに震えていた。
 「和也……ねえ、待って?」
 「シスター? どうしたんだ?」
 静かに脈打つような声。彼女の声音にしては、どこか震えていて子供のようだった。
 不可解なものを見るようで腕を引いた子供にシスターが顔を向けた時、たっと、床を蹴る音が響いた。
 ふと気付いて振り返った時には既に和也がいない。急用でもあったのだろうか。もっともそれをいうのであれば、今日きたこと自体が何か急用だったのかもしれないが。
 それにしても挨拶もなく帰るのは失礼だ。むっと顔を顰めて自分が来た道を見遣る。
 「なんだあいつ。あいさつもしないで」
 「大変、爆、その子の家への近道、知っている?」
 青ざめて、シスターは微かに震えた声で子供に問うた。それはどうしようもなく縋る声音にほど近い切実さで。
 怪訝そうにそれを見遣りながら首を傾げ、あの子供の家を思い出す。集団下校の時、確か自分より先に家に辿り着いたから覚えている。そこにいくための近道なら、知っていた。
 「わかるが……どうしたんだ?」
 「和也を連れ戻さないと。また、騒ぎを起こしてしまうわ」
 「………和也…って、まさか、直談判か?!」
 子供の自分だってそんな真似はしない。子供の問題は子供同士でつけられるのだ。それがいじめにほど近かろうと、少なくとも自分はそれに立ち向かう力があり、彼らに負けていない。大人が出てきたところでことが大袈裟になるだけで収集などつかない。
 それに知っている。彼らが自分をいじめるわけ。
 同じではないというそれが恐いだけ。その恐怖心を克服すれば、きっと仲だって良くなれる。恐いと思うということは、それだけ彼らは自分を見ているということだし、理解しようとしたというだけのことだから。
 シスターの手を取り、走り出す。
 馬鹿だと心の底から思う。考えれば、解りそうなものだ。もしも自分が本当に耐えられないのであれば、この人がこんなにも冷静なわけがない。それくらい知っているくせに、どうしてあの男は大人でありながらああも落ち着きがないのだろうか。
 冷たい指先。こうして走って、汗をかいて、体を冷やしたら、もしかしたらまた体調を崩すかもしれない。それでもいま自分だけが和也の元にいってもどうしようもない。説得できるのが誰であるか、子供は空しいくらい解っていて、それ故に、一番負担をかけたくない人に負担を強いている。
 馬鹿だと繰り返し思いながら、それなのに、どこかで嬉しいとも思っているこの矛盾。
 町中より少し教会に近い、町の入り口。その辺りで、声がする。灼熱のような、荒々しい感情の迸る声。
 自分も彼女も、こうしたものは見ない。自分達の持たない何かを、きっとこの男は持っているのだろう。
 理論も理屈もなく、ただ感情だけのその姿。それでもそれは、こんなにも危険に見える姿なのに、この上もなく優しい感情だ。
 「和也っ」
 背中で声がした。自分が腕を引く人の、高らかな声音。
 駆けながらの発声で息苦しそうだ。玉の汗がその頬を滑り落ちた。
 かなり早めに駆けてしまった。きっと苦しかったのだろう、胸元を押さえながら、彼女は大きく息をする。
 そうして振り返った和也の、大きく見開かれた、目。
 閉ざされた口はそのままに、食い入るようにシスターを見つめる。まるでそうしていなければシスターが消えてしまうとでもいうかのようだ。
 彼女のとなり、その腕を支えながらゆっくりと歩く。まるで時間が止まったように先ほどまでの騒ぎが消えてしまった。
 たった一人、こんな細やかな少女が現れた。それだけで変わる空気。
 それはひどく誇らしかった。
 自分を認めてくれるこの人を、世界が認めてくれる、その感覚。
 シスターが家の人間に謝罪をしている。ふて腐れた子供のように顔を逸らし、決して謝ろうとはしない和也を、家の人は苦笑しながら許していた。多分、あまり珍しことでもなかったのだろう。あまりにスムーズなやりとりになんとはなしに、そう思う。
 玄関の奥、壁から顔をのぞかせながら様子をうかがっている影が見えた。自分と別れた後この家で遊んでいたのだろう、自分と同じく傷を負っている子供たち。
 ゆっくりと目蓋を落とし、回想する。何が悪かったか、何が正しかったか。
 「和也」
 そうして、声を出した。凛とした、深みのあるその声を。
 ぎょっとしたように足下に目を向ける和也へいうというよりは、玄関の奥で縮こまる子供たちにいうように、呟く。
 「子供でも、解ることはあるぞ。仲違いできるのは、どこかで接点があったからだろう」
 ゆったりと響く、音。微笑むシスターを見上げながら、幼い指を彼女に捧げた。
 「方法は間違う。誰だってな。それでもその先で解りあえるかもしれない可能性があるんだ。怪我だって、悪いものじゃないだろう?」
 誰のことも自分は恨んではいない。憎んでも、いない。
 ただ自分は自分であるだけのこと。それを好まなければぶつかり合うことだってある。それはまた、仕方がない事実だ。
 それでも、そうだからこそ、いつかは解り合えるかもしれない、その微かな可能性を自分は理解している。そう子供は、幼い瞳の奥の英知でもって囁いた。
 「でも、きちんと冷やすことを忘れてはダメよ?」
 小さくシスターは笑い、傷を誇る子供の指先を愛しそうに握りしめる。
 尊いその光景を見ながら、和也は遣る瀬無く唇を噛んだ。
 どうして、こんなにも同じ生き方をする生き物がいるのだろう、と。
 この小さな体で、子供はどこまでも彼女の意志を汲み取り成長していく。この世に他に同じ種はいないだろう、その深み。
 「………馬鹿なガキ」
 呟いて、睨む子供の頭を乱暴に掻き混ぜる。
 むすっと顔を顰めたまま、和也は小さく呟いた。
 「悪かったな。お前の土俵、入り込んだ」
 自分で戦えるものの場所に踏み込むのは相手への不審だ。それを認め、和也はちらりとこちらを見つめるこの家の人間に目を向けた。
 ぶっきらぼうに軽く頭を下げる。驚いたように目を丸める相手をしり目に、子供を抱き上げて背を向けた。
 「和也! おろせっ! お前に担がれる覚えはない!」
 「うるせぇガキだな、たまには大人しく甘えろ」
 「爆?」
 盛大な言い合いに発展しそうな二人を見ながら、シスターがその腕を子供に差し出した。彼がダメならこちらにくるかと問う眼差しに、彼女がここまで走っただけで十分疲れきっていることを知っている子供は仕方なさそうに口を噤んだ。
 ゆっくりと振り返り、また最後に謝意を込めて頭を下げたシスターに手を振りながら、小さく呟く声は彼らには聞こえない。
 「………遣る瀬無いもんだねぇ。あんなにいい子たちに育ったっていうのに」
 二人の幼い日を知っているから、子供たちに語って聞かせたこともある。もっとも今回の騒動の発端はそれらしいところがあるので自分に責任がないとはいえないのだが。
 優しい日差しのなか戯れながら帰路につく。そんな当たり前の姿が目に痛い。
 やりきれない溜め息を吐いたあと、ちらりと奥を見る。叱られることを待っている我が子が壁からゆっくりと姿を現す様を見て、仕方なさそうに吹き出してしまう。
 本当にあの子たちはいい子に育った。そしてその子たちの育てた子供もまた、見事なものだ。同世代の子供を、親が叱る以上の感銘で持って、動かすのだから。
 叱る言葉は自分ではなくあの子供が与えたと笑い、我が家のドアを閉める。


 優しい風景が、どうか少しでも長く続きますようにと、そう願いながら……………







 彼女に愛されて、どこまでも一緒にいられる。その上、彼女にとってかけがえのない、彼女が生きるための、その理由となっている存在。
 そりゃ悔しいでしょう そんなわけでやたら細かい設定まで書いてくれたリクエスト、これ、リクした人が確実に解る気がしてならないんですけど。まあいいか。
 といいますか、これ、オリジナルにするべきでした? 名前出してしまったのでパロの方で消化しましたけど。名前出ていなければ確実にオリジナル行きでした(きっぱり)

 爆と喧嘩(?)した子は「緘黙の泣き声」で同じように爆にちょっかいかけていた子です。
 友達になりたいけどその術がなかっただけで、悪い子じゃないんですよ。
 喧嘩しては落ち込んでいますから(笑)

 これの和也視点の後日談書きたいですね〜。←書いちゃったよ☆
 和也は和也で辛いところなのよ? シスターと同じような反応ばかり返す子供だから、あの頃できなかったこと全部してあげたくなって仕方がない(笑)
 もしかしなくても結構子煩悩(所詮私のキャラですから!)
 長いことまあ三人ともどこか馴染めず溶け込めず。ずっと流れ流れているけど、きちんと辿り着く先があるのです。
 だからこそ、今というときが大切と思える、そんな子たち。
し羨ましかろうよ(笑)
 でも何故か、私、和也が男としてシスターのそばにいるイメージがない。
 まあ困らないのでいいんですが。

05.2.27