ゆっくりと息をする。
咀嚼して、飲み込む。
日差しを避けながら、歩を進める。
もう既に身についてしまった昔からの所作。
それが痛ましいと思われても自分には当たり前のこと。
辛いわけではないの。
苦しくも悲しくも、ないの。
だから痛まないでいいのよ。
あなたはいつも、泣き出しそうな顔で怒ってばかり。
私は今、こうして生きているわ。
自分の意志を貫いて、生きているもの。
何も不幸なことはないの。
愛しい子供の傍にいて
あなたが帰るときを待って
二人を、おかえりと、そういって迎えられるのよ。
こんな幸せに生きている人、そうはいないと思うもの。
近似する命だからこそ 4
院に着き、子供はシスターの腕を解いた。
まっすぐにその顔を見上げ、笑う。
「宿題が終わったら部屋に行って平気か?」
「ええ。そうしたら、パイを温めましょう」
了承を得て嬉しそうに子供は頷く。自分にとってそれはよく見知った姿だが、何となく解る。おそらくこれは、彼女の前でだけさらされる、この子供の本質。
遥か昔、彼女が花の前でだけ綻ぶ笑みを携えていたように、この子供の笑みは今は少女にだけ与えられているのだろう。
花開けば彼女のように全てに愛しまれるその性情。けれどきっと、子供自身はそれを知らない。きっと解らないのだろう。自分自身の強情さを知っているからこそ、ゆとりや幅が、子供には欠けている。
もっともそれはこんな幼いうちに開花される類いではないのだから当然といえば、当然だ。自分や少女が早熟過ぎたにすぎず、まして少女にいたっては、生き急ぎ過ぎだ。
もっとゆっくりと、熟成されるワインのように静かに時をかけて成熟すればいい。それが一番、本人を傷つけずに成長できる方法だ。
少し憂いを持って二人を眺めてみれば、にっと子供が笑った。それは過去の自分もよくこぼした、悪戯をする寸前の楽しくて仕方なくこぼれる笑み。
「和也、シスターを困らせるなよ」
「………本当に可愛げのねぇガキだな、お前はっ」
これ見よがしに自分を子供扱いしていった言葉には多分に釘を刺す意味合いがある。つい先ほどのように頭に血を上らせて迷惑をかけるなと、そういっているのは紛れもない事実だ。
それでもこんな小さな子供にとうに自活している自分が言われる言葉ではない。
また怒鳴りそうな声を軽やかに子供はかわして駆けていく。健康そうな、その姿。それだけは本当に救いだ。子供は少女のように健康面での不具合を示す徴候は見られないのだから。
「本当に仲がいいわね」
「…………そう、みえるのか」
あの子供は自分を侮っているようにも軽んじているようにも見えてしまう。もっとも、その大部分には親しみが込められての行動と解らないほど自分も幼くはないが。
少し忌々し気な声にはいましがた去っていった子供と同じ親しみ故の遠慮のない仕草。
「だって、あの子は私にあんな物言いしないもの」
かすかな音で笑い、微笑む口元を指先で隠しながら綻ぶ顔を俯かせた。
そうして響いたのは、軋んだ、咳の音。
「……………っ! おいっ」
ぎょっとして荒げた声が口から飛び出した。それを咎めるかのよう伸ばされた逆の指先が和也の頬を掠めて口元を覆う。口元を押さえてもれる音を最小限にしているせいか、くぐもった咳はひどく奇妙な音に聞こえた。昔から幾度となく聞いているというのに慣れることのない、彼女の柔らかな声音とは似ても似つかない、音。
「……大…丈、夫」
浅い呼吸を数度繰り返して喘鳴を喉奥に潜ませた少女の声が掠れて響く。
「ちょっと、気が抜けただけ。休めば、平気よ」
言葉を短く切りながら呼気を繰り返し、ゆっくりとしゃべる。やはり、昔から繰り返し見ている姿だ。
崩れそうなほど細い肩に腕をのばし、支えるように抱く。………なんとなく、前に同じようにしたときよりもそれは小さく手のひらにおさまった気が、した。
「………お前、やせたか?」
ただでさえ薄い体を更に細める気かと咎める声に少女は苦笑するだけで答えなかった。無言は、彼女の場合は肯定だ。
荒々しく息を吐き出し、不機嫌に眉を顰める。自分の不摂生はあんなにも注意するくせにと言ってみれば、申し訳なさそうに垂れる優美な眉。
言い訳もせず、まして弁解もしない。それはひどく彼女らしかった。
けれどそれと同じくらい、いま話すことが喉へ負担だということを自分は知っている。それが解るくらいには、幾度も過ちを犯してきたのだから。
ふらつく少女の体を支えながら誘導するように歩く。途中で会った他のシスターに声をかけ、白湯を部屋に持ってくることを依頼した。まだ若いシスターは、けれど彼女の状態を理解しているらしく慌てることなく和也の言葉に頷いて俯く少女に笑いかける。
きちんと、彼女はこの院に受け入れられている。そう思うことは遠くに住う自分には本当に安堵できる事実だった。
さして歩かずに彼女の部屋は見える。昔、この院に訪れた日から割り当てられた場所は院の中を動き回る上で最も導線の短い場所。外への出入り口の近い場所だった。
そんな場所に住んでいたくせに、ほとんどその存在を知らせることなく過ごしていた初めの頃を思うと、胃が痛むほどだ。それを面白半分に笑っていたのだから、無知とは罪だと痛感する。
無造作に彼女の部屋のドアを開ける。自分達の年齢を考えれば非常識だが、彼女に関してはそんな常識を適用している場合でもない。
もうずっと昔から繰り返していることだ。今更恥じるようなことでもないし、彼女の生活空間は女性らしさというよりは機能重視のシンプルなもので、本棚に佇む多くの本がなければモデルルームにでもきた違和感を感じるほどだ。
中に入ってすぐに見えるベッドに座らせ、体を起こしていられるようにベッド上に転がっている枕やクッションを積み重ねて背を預けさせる。もう既に手慣れたものだ。
その様を見ながらようやく人心地ついたのか、ゆっくりと息を吸い、吐いたあと、少女が小さな声で呟いた。
「ごめ…ん、ね。せっかく、帰って、きたのに………」
一瞬、錯覚する。ずっと昔に戻ってしまったような、そんな錯覚。
まだ彼女が今よりもずっと体が弱く、日のした歩くこともできなかった頃に舞い戻ってしまったような、肌を粟立たせる悪寒。
それをやり過ごしながらくしゃりと、彼女の髪をかき混ぜる。それは先ほど子供に対して行ったような、そんな愛しさをまぜた乱暴な仕草。
「馬鹿か、お前は。”たまには大人しく甘えろ”って、お前にまで言わせる気か?」
苦笑して揶揄するように呟く。あの子供と同じくらい小さい頃、傷つけてばかりいたのだ。ようやく自分を省みることが出来るようになった今、彼女のためになにかが出来るということは誇らしいことであり、負担ではない。
だから構わない。どうせ帰郷といったって、自分は彼女とあの子供に会いに帰ってくるだけなのだ。この院が懐かしくないわけではないけれど、それは全て、彼女とともに生きた時間を刻んだ場所だからだ。
人を痛ませてばかりの自分が人を愛しむことを覚えた場所、だからだ。
喘鳴もおさまり呼気も落ち着いてきた少女を見つめる。静かだった。命の音さえ途絶えそうなくらい、彼女のいる空間は静謐に包まれていて、騒々しい自分の音さえ、畏縮して消える。
幼い頃はベッドに横たわり、その傍らには点滴棒が鎮座していた。輸滴は毎日のように必要な糧であり、彼女を生かすために不可欠なものだった。痛ましいその痕が残る腕はゾッとするほど白かった。腕に針が入らなければ平然と、大人さえ痛がるはずの手の甲を己から差し出していた、あの頃。
花に生まれればもっとできることがあったと、寂しく笑う姿を覚えている。
それでも人として生まれたから、その意味があるはずだと己に言い聞かせ生きることを放棄しなかった、あの強さ。
いま思い出しても目眩が、する。
少女の座るベッドの足下に跪き、その顔をのぞく。僅かに顔が青いのは、先ほど無理をさせたせいか。
「なあ…無茶するな、とはいわねぇけど」
ぽつりと、呟く。こぼれ落ちる涙の代わりの、それは音。
「心配くらいはさせろ」
言葉は弱く沈み、それに従うように俯く顔をどうすることもできず、和也はそのまま眼下のベッドに顔を隠す。………こんなにもひどい顔、見せられるわけもない。
願うように乞うように。頼ってほしいのだと、幼子の我が侭のように呟く。
もう何も出来ないあの頃の子供ではないのだ。彼女があんなにも取り乱した時、呆然とただ見つめることしか出来なかった、そんな子供ではない。
泣き叫ぶそのとき、自分に腕を伸ばして欲しいと、そう思うのは愚かだろうか。
………こんなにも彼女に負担ばかりの、自分では。
「ねえ、和也」
打ち拉がれたように自分の座るベッドに額を埋める男に、少女は笑いかける。
昔から彼はいつも一生懸命だ。方法を間違えたり、遠回りしたり。それでも、どんなことにも己の感情すべてを傾けて、必死に動いている。
それは自分にはできないこと。それは迸る命の脈動の、駆ける軌道。
それを見ることがどれほど自分に勇気を与えたか、きっと彼は知らない。
倒れて負担ばかりかけているのは自分だというのに、そんなこと気にもしないで傷つけてばかりだと悔やむその優しさ。
打ち拉がれないで。……………その命は、思いのままに駆ける時にこそ輝くものなのだから。
「喉、乾いたわ。飲み物が欲しいの」
自分の膝に顔を埋めるわけでもなく、触れることで壊れる硝子細工のように怯えている幼い人の、その髪を梳く。さらさらと短いそれは指先からこぼれてすぐに彼のもとに舞い戻った。
「和也が、いれて? 私のいうことを忘れたから、その罰に」
それで全ての蟠りが消えるわけではないだろう。それくらい、自分にも解っている。
彼の中に抱えられているものはあまりに深く、自分が人に与えることのできるものはあまりに少ない。
あの日見つけた子供を育てるだけで手一杯の自分には、彼の中の空虚を埋める術が見つからない。
だから、小さな頃から繰り返す、蜂蜜じみた言葉。
我が侭を言葉にして、お願いではなく軽やかな命令で。
自分を見上げる、自分よりもずっと大きいはずの男に笑いかける。
不貞腐れたような眉は複雑そうに深められて、解かれる。その様を見ながら、綻ぶように笑ってしまうのは、もう癖のようなものだ。
甘やかされているのはどっちだと言いたそうな顔でこちらを見るくせに。決してそれを反古はしない。和也が立ち上がったことに気付いたかのようなタイミングの良さで先ほどの年若いシスターが白湯を持ってやってきた。
それを受け取る姿をクッションに寄りかかりながら見つめてゆるやかに息を吐く。
ゆっくりと、それでも確実に自分の内部が錆びていくのが解る。せっかくこんなにも元気になれたのに、きっとそう長くは一緒にいることは叶わないだろう。
憂えてしまいそうな思考を霧散させるように深く深呼吸をすれば、昔発作を起こしては彼が入れてくれたマローブルーの香りが鼻先を漂った。
変わらないものがある。変化するものもある。
そのどちらもが尊く愛しいと、自分は思うのだ。
結末は変わらず、先に延ばすにも限度がある。それでもこうして生きたことには必ず意味があるから。
鮮やかな青い水色のハーブティーを片手に近付く人に微笑みかける。
どうぞ、彼に、幸いを。
自分が彼に与えることのできない幸を、いつか誰かが授けてくれますように。
ようやく終了。オリジナルは自分で全て伝えなければいけないから大変よね。
想像させるにも、そのためのもとを自分が作るのだから。やれやれ。
マローブルーは青い水色で、レモンをたらすとピンクに変化するあのお茶です。
気管支系に効くといわれているので、喉がおかしい時はいいかもね。
和也は植物学者ですので、調べようと思えばこの辺りは一気に成分表ごと調べます。恐いね!
しかしそんな彼ですが、一応大人になった後はシスターをいじめることも減ったんですよ。なくなったんじゃないあたりがなぁ(笑) いじわるというよりは、甘えているだけな気もしますけどね。
昔からまあ……原因はそんな感じなので、端から見れば可愛らし……くはなかっただろうな。シスター彼が原因で何回倒れてんでしょうね。
05.2.28