さらさらさらと
さらさらさらと
瞼を落としてそれを見つめる

記憶の中の花

散り逝きながらも鮮やかな
ただ一つの花
たった一人の 華

さらさらさらと
さらさらさらと
頬を落ちる水滴を忘れて

記憶の中の花

ただそれだけを、見つめる




02.音もなく降る雨は



 ………それは偶然の産物といえた。
 特に約束していたわけではなく、たまたま近くを通りかかって、そうして進んだ先に彼がいた。
 声をかけるかかけないかを一瞬迷い、おそらくは何らかの用事があって町に下りてきたのだろう彼を思い、開きかけた唇を閉ざした。
 肩から不思議そうに問いかける声で鳴く聖霊に苦笑を送り、そっと足を彼とは違う方向に向けた。
 あてもなく歩いていたようなものだ。わざわざ忙しい人間を巻き込む意味はない。そう思い、気の赴くままに歩を進める。
 春は優しい季節で、けれど同じくらい、物悲しい季節だった。
 芽吹きと産声に包まれながらも散り逝く花に彩られた季節。細めた視野の中、さらさらと風に流れる綿毛が見えた。目の端を過った小さな白に肩が揺れ、詰めかけた息をそっと吐き出した。
 肩に乗る聖霊はそれに気付きはしたが、そっと目を向けるだけで何も子供に言いはしない。言葉を拒否するのではなく、聞こえないだろう子供の横顔に小さく吐息を落とすだけだった。
 「…………………」
 揺れそうな子供の眼差しの先、白い綿毛はゆらゆらと風とともに揺れ、どこかへと飛んでいく。
 そっと瞬いた子供の瞳はそのまま風の吹いた方向へ流れ、それに合わせるように止まっていた足が動き始める。
 まるで川を流れるようにさらさらと、子供は迷いもせずに進んでいく。
 いつものようにあまり揺れない肩の上、聖霊は風を見送るように周囲を見渡した。白い綿毛はもう、どこにも飛んでいない。
 子供でありながら体勢を崩さずに歩くことを身に付けている彼の肩の上は居心地がいい。微かな物悲しさを孕んだその思いを振り払うように聖霊は風から目を逸らして子供を見遣った。子供らしくない子供は、自分と出会ったときから依怙地にまでに一人で立とうとする。
 危ういその強さが気にかかり、自分のパートナーに選んだ彼は、資質は申し分ない上に気質も性情も守るものに属していた。それは年若すぎる彼にとっていいことなのかどうか、とても判断に困る問題ではあったが。
 大抵のGCは共に戦う中で憧れだけの使命感から現実に直面し、それを乗り越えて本当の資格を得るものだ。だというのにこの子供は、初めから憧れではない、並大抵の人間では持ち得ぬ意志を携えていた。
 己の小さな手のひらの限界を知り得ながら、その上で取りこぼさずに守るのだと、言葉だけではない行動を伴った誓い。
 揺れる子供の髪が聖霊をくすぐる。もうこうして彼の肩に乗るようになり、どれほどの時間が過ぎたか。まだ数年と経っていないというのに、彼は導く必要さえないほど、彼自身の持つ意志のみで守るものの立場を知り、その意味を理解している。
 それは、悲しいことだ。………辛いこと、だ。
 守られることを知っていたから、それを持つのだ。それを失うから、その対象を守るために己の力を求めるのだ。
 この小さな体で、子供は知っているということだろう。守りきれない現実を。そして、己の無力さを。
 だからこそ守ることを選べた彼は、それ故に確かにGC足るものだ。
 ………どれほど物悲しく切なく映ろうと、それは遅かれ早かれ得なくてはいけない絶対の試練なのだから。
 ただ彼は、それが少し人より早かった。そしてそれを他者の導きではなく己の意志で掴み取った。それだけの、ことだ。
 そしてそうだからこそ、自分は彼に寄り添いたい。自分の力を本質的には必要としていない風変わりで破天荒なGCだ。長い年月、自分の生まれ出た意味をさえ変えてしまいかねない、彼の傍に。
 あまりにも寂しい子供は、未だ一人だ。守るべき対象ばかり増やして、その背を去らせる相手を求めない。
 …………パートナーとして認めてくれる自分にさえ、彼はその身を守ることを求めないのだから。
 少しだけ悔しいその事実に顔を顰め、聖霊はその不満をやり過ごすために子供の髪を軽く引っ張る。呼び寄せるためというには強すぎるその力に眉を寄せた子供は、夢現つにも思えたその足取りから聖霊の傍に舞い戻り、瞬きを一つ落とした後、軽くその体を指先で弾く。
 ……………まるで慰めるように。
 その事実にまた、聖霊は小さく小さく溜め息を落とした。



 歩んだ先は野原だった。公園であるらしいそこは、軽く柵がされているだけで遊具は何もなく、桜の木とその下に据えられたベンチだけが立体物として存在していた。
 周囲に人影はなく、ただ芝生の合間、顔をのぞかせている白と黄色だけが風に揺れている。天気のいい春先だというのに珍しいことだと子供はその公園の中に足を踏み込む。広くも狭くもないそこは、確かに何かをするには不向きかもしれない、丁度良さというものに欠けているような気もした。
 そのせいで人があまり寄り付かないのかと思いつつ、子供はベンチへと歩み寄る。
 子供の視界の中でシロツメクサとタンポポは気持ちよさそうにそよいでいた。時折思い出したような突風が吹くと、また綿毛がひらひらと流れていく。
 ぼんやりとそれに目を向けながら、桜の木の下で木漏れ日を浴びていた。薄ピンクというよりは白いその桜を見上げ、子供は目を細める。
 白い花は好きだ。………でも、この時期に見るのは少しだけ辛い。
 綺麗な花だからこそ悲しい。厭うつもりはなく忌避する気などないけれど、どうしても痛む胸はある。
 さらさらと花弁が舞う。それを隠すように子供は瞼を落とした。逃げたいわけではないけれど、またすぐに季節は巡ってしまう。春はすぐに終わりを告げ、夏になる。その瞬きの合間に、自分はまたあの無力感に打ち拉がれる日を味わうだろう。
 石碑の前に立つ勇気も持てず、小手毬の下、微睡み続ける。家に籠る男を思うことも出来ず、ただ過去の日を、その日だけは懐かしみ惜しんで白い花に埋もれる。
 そこはさらさらと、花が降るのだ。白く小さな花弁が、音もなく風に揺れて自分に降り注ぐ。微かなぬくもりはきっと日差しにあたためられたせいだろう。頬をくすぐり髪に絡まり、口吻けるように優しく自分を包む。
 あどけない幼子のようにただ安心しきった心持ちで眠っていいのだと、そう教えてくれる指先のように。
 花弁はまるで雨のように降り注ぐ。絶え間なく、それでいて、冷たくはない。雪のように見えながらも雪ではない。降り積もるのではなく、流し去ってくれる。………また明日から一人で立ち上がれるように。
 一人そこにいることは儀式めいていた。そんなものに頼らなくてはならない自分の弱さは嫌いだ。が、そう思いはしてもそれ以外に立ち上がる術がない。
 全てを己一人でまかなうにはまだ腑甲斐無いほど自分は幼いと、子供は頬を滑り落ちる桜の花弁を思いながら苦笑した。
 白い花は優しい雨。あの日だけは、そう感じる。いつもは包み込むぬくもりしか感じないくせにと、どれほど己を詰っても、あの日だけは特別そう感じる。
 さらりと頬を滑る花弁。小手毬よりもずっと大きなその感触に浮かんでいた苦笑が消えた。
 弱さを知っているから、強さを願った。………守りたいとずっと、物心ついたときから……否、つく前から、きっと願っていた。
 それが叶わなかったから、せめて今度こそ何も取りこぼしたくはなかった。だからこそ、己自身に約した。強くなることを。
 せめてそれが一年中変化なく己を包めばいいものをと、そう思うこともできないけれど。
 たった一日。その日だけは、ただの子供に。
 それ以外のときは一人きちんと立つ、から。その日だけはあの腕の中に帰ることを許されたい。痛烈なほど春という季節は自分が未だ幼い子供だと実感させる。
 早く強くなりたい。こんな風に蹲ることなく立てるように、なりたい。
 過去の日求められたものとは違うかもしれないけれど、それでもこれもまた、強さの一つだから。約束を違えないために、強くなるのだ。
 真っ白な花に包まれた綺麗な黒髪。眠るその人は幼い自分にはこの世で一番綺麗な人だった。その人以上の存在なんて、おそらくこの先だって見つからない。見つかるわけがない。
 「………………………」
 一瞬、脳裏に浮かんで消えた黒い髪。流れるその様は過去の日の優しい柔らかさではなく、若干の硬質さを見せた。
 それはどこか、先ほど見かけた人間に似た、質感。
 ……………微睡みはじめた思考の中で子供は苦笑する。同じ色をしているからといって混合するなどおかしな話だった。
 過去の日の人と現在いる彼とは、まるで違う。それを、自分は知っているのに。
 春は物悲しい季節だ。………分かりきっていることを再認識する季節。
 だからだと、そんな自身ですら訳の分からない言い訳を脳裏で呟き、眠りの波に子供は誘われる。



 真っ白な小手毬に包まれて微笑む人。
 今はもう、そこには自分一人しかいないけれど。
 きっと、この先も自分一人しかいないだろうけれど。
 それでも交わした約束を守るために、強くなろう。

 ………自分は、そうした生き方しか、知らないのだから。


 春はまだ、きたばかりだった。






 続いているわけではないですが、何となく春の話にしてみました。音のない雨、というお題を見て浮かんだのが零れ落ちて風に流れる小手毬の花だったのですよ。
 まだ隣に誰かが立つ日など想像も出来ない、過去に捕われたままの頃のこと。………一人立つことの意味を、孤独であることを強いることで成せると頑なに信じていた頃のこと。
 心寄せる存在と分かち合うことだとは、到底思えない。まだ世界も視野も狭かった、そんな時期。
 これから少しずつ友達や仲間の意味を知っていきますよ。
 守るだけではなく、自分を守ってくれるのが彼らだということを認識した時、きっと世界は様変わりするだろうから。

 小さな花を集めて、大輪に変わる。………それは小手毬の花のように。シスターが願ったままに。

06.11.2