喧嘩、した


なにが悪いか知っている
どうして言い合いになったか知っている
彼がそれを嫌っていることも
恐れていたことも、知っている
それでも
悔しくて切なくて悲しくて
自分一人蚊帳の外で、遣る瀬無くて

自分を見てと、叫んだ

もういない人を思って
目の前にいる人に

……………八つ当たりだと、分かっていながら




05.あの人はここにいない



 気分は最悪だった。
 ガンガンと、疼くというよりは鳴り響くように頭が痛かった。浅かった眠りは幾度も夜中に目を覚まさせ、その度に微睡みの中で後悔が渦巻いた。
 分かっていながら吐き出した嘘。
 …………知っていながら傷つけた言葉。
 それを自分は嫌い、疎んでいたにもかかわらず、敢えてそれを口にした。わざと選ぶように、喉がそれを排出したのだ。
 「………………………………………」
 重い息を吐き出して、窓を見遣った。カーテンの隙間、うっすらと日差しが見える。天気はいいようだった。
 それに弾む胸はなく、更に沈鬱とした顔が僅かに俯く。謝る言葉があると分かっていながら、多分自分はそれを口に出来ないだろう。
 階下、あの人の部屋に籠っているだろう青年を脳裏に浮かべ、首を振って何かを掻き消すように顔を顰めた。それは、多分に彼への甘えだっただろう。
 彼は、小さな自分を恐れている。そんなこと言葉になどすることはないけれど、分からないわけがない。
 自分よりも大きな手のひらは、触れる瞬間怯えている。まるで容易く壊れる硝子細工にでも触れるような慎重さ。………がさつで愚かでずぼらな、自分にはマイナス点ばかりが思い出される彼の、それは珍しく卑屈な態度。
 どうしてと彼にではなく、彼のことを誰よりも理解している人に問いかけた。対等に扱って欲しいのに、彼は子供扱いをするのだと、そう不満をぶつけるように。
 その人は苦笑して、困ったようなその笑みを少しだけ細めた眼差しに溶かして、教えてくれた。
 ………自分の力が強いことを恐れる人もいるのだと。壊す力があるから、恐れるだけなのだと。
 壊したくなければ壊さなければいいと自分は言い募り、強いのであれば守ればいいと言及した。それは幼さ故の視野の狭さだろう。したくなければしなければいいのだと、過ちを背負う意味はないと、当たり前にいった。
 それに、あの人は………なんと答えただろうか。
 ベッドから降り、カーテンを開けながらふと霞んだ思い出に首を傾げる。勢い良く開けたカーテンの先、日差しを全身で浴びながら探るように瞼を落とす。思考の波の中、漂うように泳ぎながら欲しい情報を探す。
 幼い頃、自分は今以上に偏屈だった。正しさに執着していたわけではないけれど、自分が分かることは全ての人間が分かって当たり前だと思っていた。それは個性というものを顧みない、一方的なものの見方だった。
 そう分かったのは自分を育て慈しんでくれた二人の、似ていながらも正反対なその姿を見つめてきたからだ。そして、そんな二人に似ていながらもやはり違う自分を二人が認め、その個というものを伸ばすことを喜んでくれたからだ。
 自己という当たり前のものを潰すのではなく、一人の人として自我を持つことを認めてくれた。自分達の考えを押し付けるのではなく、思い通りにならないと罵るのではなく、時間をかけて理解しようとしてくれた。
 全てを分かってくれたわけではなかったけれど、それでも二人がそうしてくれたことは、………あまりにも周囲とかけ離れた自分を肯定してくれたことは、自分という人間が育つ上で不可欠の栄養だった。
 もしもそれが与えられていなければ自分はいなかった。………自分はきっと守ることを願わず、壊すことを求めていただろう。そうすることで、自分を見てほしいというその欲求をきっと体現していた。
 …………幼すぎた頃の、癇癪の、ように。
 ああそうだ、と、そこまでを考えて思い出す。
 悔しくて腹立たしくて、二人が自分に気付かないのがただ悲しくて。気付いてと叫ぶのではなく、わざと壊したマグカップ。
 幼すぎた自分はそれが悪いことだと知らず、そうすることで音が出て二人が自分を見てくれると、それだけを知っていた。
 だからこそ敢行された行為。彼女はおそらくその意味を知っていて、気付かなかったことを謝罪し抱きしめた後に、壊れたものが二度と戻らないことを悲しんで教えてくれた。
 そしてその間ずっと、彼は………凍っていた。
 ……………そのときの顔を、どう表現していいのか分からない。真っ白な、顔。きっと呼吸などしていなかった。表情の抜け落ちたその顔は幽玄というべきだったのかもしれない。小さすぎた自分にそんな言葉、分かるはずもなかったけれど。
 彼はきっと、恐怖を、覚えたのだ。だから彼女は、悲しんだのだ。
 衝動的に大人が悪と類する行為を幼い子供が行うことはある。そうした行為が大人の注意を引き付け注目を寄せ、自分に気付かせるものだと、理屈ではなく経験的に知っているからだ。誉めることよりも叱ることを、大人は繰り返す。どちらがより幼い子供に必要であるか分かっていても、繰り返される。
 彼は不器用で、自分に伸ばす腕はいつも震えていた。怯えているあの腕が自分を受け入れていないと、そう思った。だからそんな人の傍に居て欲しくなくて、彼女を自分に引き寄せたくて、割ったマグカップ。
 たったそれだけの単純な理由だ。彼が恐怖を覚えるような理由はない。
 それをたとえ説き伏せても、彼はやはり同じ顔をさらすだろう。まるで諸悪の根源は己なのだと、そういうかのように。
 「…………………」
 小さく息を吐き、愚かだった自分と、全てを背負っては空回りする彼とを思う。
 物を壊すことを選んだ自分を、彼は己のせいだと思っていた。どうしてなどという余地もなく、そう信じた。…………思い込んだという方が正しい。
 彼の生育暦など自分は知らない。ただ、かいつまんで聞いた話で、幼い頃の虐待を聞いた。だから強くなったのだと、我流の喧嘩の方法を教わったときの彼の苦笑を思い出す。
 だから、と、続くべき言葉がもう一つあることを、それから暫くして、自分は知った。何の本を読んだのか覚えてはいないが、そこに載っていた言葉。『虐待はしばしば連鎖を繰り返す』という、眉を顰めざるを得ない言葉。
 それを彼が引きずっていることは容易く想像ができた。だから恐れているのだと、やっと合点がいった。
 彼はあんなにも慈しむことを願って生きているくせに、そんな言葉を恐れている。そうあろうと生きながら、それでも無くしきれない疑惑に怯えている。
 その結果が、自分への恐れだ。圧倒的に小さく、彼よりも弱かった幼児の自分。それに己の幼い頃を重ねたのだろうか。そして傷付き動かなくなる様すら、想起したのだろうか。
 だとしたらあまりにも愚かだと自分は彼をなじるだろう。全ての人間が同じ行動を模するわけではないのだ。自分は自分であり、彼は彼だ。重ねるなと、怒鳴っただろう。
 けれど彼女は、違った。………そう、違ったのだ。
 思い出した彼女の言葉に自然と唇がほころんだ。どんなときもあの人の言葉は自分にとっては心地よい音だった。たとえたしなめ叱る音であっても、それは素直に体に染み渡った。己の都合を押し付けるのではなく、自分を思っての言葉だと、そう分かったから。
 彼女はいっていた。人は感情を持っている、と。だからそれを怖がることもあるのだと。
 相手のことが大好きで大切すぎて、だから気持ちを押し付けてしまうこともあって、それが大切な人を悲しませることもあるのだと、寂しそうに教えてくれた。
 感情は優しいものだけではないと自分は知っていて、だから返す言葉を探しても見当たらなくて俯いた。きっと、自分は今それを彼女に行ったと、何となく分かってしまったから。
 そうして彼女は、優しく自分を抱きしめて、もう一つ………教えてくれた。
 『感情を持っているから、人は人を大切だと思うの』
 喧嘩をして、ぶつかりあって、そうしてまた相手のことを一つ知って……もっと大好きになればいいのだと、間違いは無駄なことではなく必要なことなのだと、包むように教えてくれた。
 間違いばかりを繰り返してしまう自分や彼を、彼女は本当に愛してくれた、から。
 だからその言葉はひどく優しく響いた。………自分達を必ず受け止めてくれるという、その無償の安堵。
 小さく息を吐き出して、今はいない人を思う。
 …………いくつもいくつも彼女に願い、約束を出来ない彼女を困らせていた自分。そんなこと気付きもしないで、押し付けていた自分。
 それでもいいのだと、いつも彼女は笑っていてくれた。
 ぽたりと頬から零れた何かが床に落ちる。全身に浴びる日差しは相変わらずのどかな春の日差し。季節で彼女を感じるとするならば、いつも自分は小手毬の咲くこの季節を思う。
 優しくて暖かくて慈しむように、空気のすべてが包み込む気配に溢れた、この季節。………あまりにも物悲しい、この季節を。
 だから感情が抑えられないのだと、脳裏で困ったように微笑むあの人に腕を伸ばした。
 ちゃんと、朝食の時には彼に声をかけよう。お互い言葉は交わさないだろうけれど、顔を逸らしたまま……それでも一緒に食事をとろう。
 彼女の好きな紅茶を入れて、彼女の写真を見遣りながら。少しだけ遠ざかった彼女のいなくなった日を思い、夕方には、自分の誕生日を思い出そう。
 仏頂面のまま彼はきっとプレゼントを差し出して、思いのほか器用な腕前を披露した料理やケーキを整えるだろう。
 それを写真立ての奥からあの人は微笑んで嬉しそうに見てくれる。
 だから、小さく今はまだ言葉に出せない言葉を、脳裏の彼女に贈る。
 本当はちゃんと知っていたから。
 ただ。
 自分は知りたくなかった。そう思いたかった。
 感情が、納得したくないと喚いていたから。
 堅く瞑られた瞼の下。微笑む彼女の唇が何かを奏でる。
 都合のいい言葉だと、そう思いながら………それでも彼女らしいと、子供は不器用に笑んだ。

 『気持ちが溢れるほど好きでいてくれて、ありがとう』

 ひどいことを押し付けたのに、それでも彼女は笑ってくれる。
 自分も同じなのだと、抱きしめてくれる腕。


 いまはもういないその腕を、この季節だけは痛感する。



 だからきっと、自分も彼も、感情が溢れるのだ。

 …………そう、子供は小さく苦笑した。







 で。溢れた感情のままに爆はカイにジバクくんをぶつけました、と(笑)
 うん、そのための補完用の話でした。いや、内容的にオリジナルでもいけるからどうしようか悩んだのですけどね。
 ストーリー的には繋がるものなのでこちらでいかせていただきました。
 オリジナルの方でも同じお題を書くつもりなので、出来ればこのお題部分はリンク出来るように和也の話を書きたいなぁ。

06.11.7