昔々 大好きな人がいました
ずっとずっと一緒だと そう信じていました
その人もそれを望んでくれていました

そうして時は移りゆき

今 自分の隣 は


ただ、虚空だけが漂うばかり。



2.泣きたいのは君なのに、僕が泣いて



 目を瞬かせてそれを見遣った。たいしたドジだと、そう思いながら。
 右手の親指の付け根からは溢れる赤。感じた衝撃とともに心臓より高くに上げられた腕は、けれど流れ落ちる赤を留める役割は担わなかった。
 このままでは服まで汚れてしまうと、とりあえず患部を閉ざすように右手をすぼめ、その上から左手で圧迫する。とりあえず、一時的な止血ではあるけれどしないよりはましだろうと考えながら。
 どこに救急箱をしまっておいただろうか。脳裏で片付けた記憶を探りながら、足は無意識に赴いている。自分が使うよりも、この家の持ち主の愚かな怪我を治療するために用いられる回数の方が多いそれは、自分一人の家ではあまり用をなさず、自然追いやられるように取りづらい箇所にしまい込まれていた。
 足先で椅子を動かして踏み台にし、棚の上に鎮座する箱に左手を伸ばす。体から離した右手からは、ポタリと一滴、流れ落ちた血液が赤い水玉を床に彩らせた。
 掃除が面倒だと軽く息を吐き出しながら、それでも表情も変えずに子供は片手で引き寄せた箱を肩に乗せ、うまくバランスをとりながら椅子から降りた。振動で、また、赤が舞い散る。
 たいして深くは感じない傷だが、出血はそれなりの量だ。久しぶりの自宅での自炊だというのに、珍しい失敗は、珍しいだけに、ひどかった。
 ガーゼを取り出し流水に傷口をさらして消毒を済ませ、手早く包帯を巻いた。絆創膏では覆いきれない広さの傷口に不機嫌そうに眉が寄ったが、どうしようもなかった。
 また小さな溜め息のように息を吐き出し、救急箱はテーブルに置いたまま、とりあえず食事の支度だけは済ませようと台所へと体を向けた。瞬間、まるで見計らったかのように、GSウオッチからコール音が鳴り響いた。
 もはやトラブルコールなど鳴るはずもないそれは、けれど仲間間の通信機器としての使用は可能だった。もっとも、最近では携帯電話の方がよほど需要がましていたけれど。
 少し目を見張り、次いで顔を顰め、その鳴り響く音の質に誰が鳴らしているかを悟って一瞬の逡巡が脳裏を過った。
 「…………………」
 三度目の吐息は、明らかな溜め息だった。


 GSウオッチの傍には指で突けばそのままどこまでも転がることが出来そうな丸い物体が座っていた。小さな手足がばたついていて、彼が慌てていることが解る。それを見て取り、タイミングの良すぎる呼び出し音を思い、深い溜め息が子供の唇から漏れた。
 「…………ジバクくん……あいつに何を言った?」
 礼節を重んじる面のある相手にしては、随分と長くコールを鳴り響かせている。よほど急ぎでない限りはこちらの都合を伺ってから出なければリアルタイムでの通信は行わない相手だ。慌てふためく聖霊を見遣れば、気まずそうに視線を泳がせている。
 コールを切り、通信をオンにすれば、顔の強張った少年が必死になって言葉を探している最中だった。
 「爆殿?! どうなさったんですか!!」
 「その言葉をそのまま返却してやる。何の用だ?」
 声だけでその表情が克明に浮かぶ少年の様子に嘆息しそうなところを押しとどめ、子供はいつもと変わらない素っ気なさで軽いパニックを起こしている少年の気勢を削いだ。
 平淡な子供の変わらない口調に、普段の穏やかな口調から掛け離れた息巻く少年の声が言葉をなくしたように間をあけた。無言を返したならさぞ長い間意味をなさない悲鳴のような質問が矢継ぎ早に与えられただろうと、容易く想起できる可能性をぼんやりと子供は思った。
 「とりあえず、コールした用件を言え」
 混乱して言葉が見つからないらしい相手の沈黙に、子供は仕方なさそうに助け舟を出した。
 戸惑った相手の声は意味をなさない単音が数度続けられた後、先ほどの勢いなど忘れ去ったかのような緩やかさで言葉が綴られた。
 「い…え………あの、爆殿、から」
 ひどく躊躇いがちな少年の声が、それでも鮮明に透き通ってGSウオッチから流れた。歯切れの悪い、途切れがちな声だ。混乱というよりは、困惑、か。そんな風に見当を付けながら返答を待った。
 それでも数秒の間があけられ、そのまままた悩むような気配が感じられ、仕方なしにまた、催促するように声をかける。
 「俺から?」
 「…………………………緊急事態のコールがきたので…………………」
 だから驚いたのだ、と。もしもコールに出なければ通信元にテレポートするつもりだったと続く声は耳を通過し、子供の脳裏には届かなかった。
 瞬きよりも短い沈黙と静止の後、子供はこっそり逃げ出そうとしている傍らの聖霊へと腕だけを瞬時に繰り出して捕獲を行った。
 確実に、彼の行動だろう。料理中は汚れるといけないので外しておいたことが仇となった。
 一人遊びにも飽きていじっているうちに誤って緊急コールを押してしまったのだろう。取り消しも出来ずに慌てているところに、自分が顔を出したというところか。
 手のひらの下で手足をばたつかせる球体をいっそ握り潰してみようかと剣呑な思考が脳裏を過るが、少し込めた力の下、彼は抵抗を止めてしまうからそうすることもできない。
 もうこの世にたった一人の聖霊。仲間もなく、還る場所もない。それは少しだけ自分達を似かよらせ、決定的に断絶も、する。
 悪戯好きは相変わらずでも、少しだけ以前と変わった。それはきっと、あの旅の果てで自分が一歩前へと進んだのと同じこと。
 彼も自分もまだ、前へと進み成長する段階なのだ。
 深く溜め息を吐き出して、子供は畏縮するような雰囲気をまとっているGSウオッチの先に佇む少年へと声を送った。
 「…………ジバクくんの悪戯だ。騒がせてすまん」
 「は? あ、いえ………あの、それは……構わないのですが……」
 低い声で紡がれた事実と謝罪に相手の方がびっくりしたように戸惑う声を出した。
 まだ何か続きそうなニュアンスで留まった言葉に、子供は耳を澄ませた。言葉を探すのに、彼はさして時間を必要としないタイプだ。思ったことを言葉に組み換えることが自分ほど下手ではない。
 それでも時折言葉を探すように作る間は、相手への負荷を減らすためか……あるいは、言うこと自体を躊躇うか、だ。
 どちらも自分に遠慮するには愚かな理由だ。どんな言葉も受け止める自信くらいはある。他者の言葉が鋭利な凶器になることは知っているが、それに朽ち果てるほど脆弱に生きてきた覚えはない。
 そうした自負とは裏腹の自分の応対は、それ故に、仲間たちをひどく慎ましくする。告げるべきか否かを、時に逡巡させると、豪快な少女に言われたのはいつだったか。
 思い出せば、待つ間すら愛しいものだ。…………以前は幼さ故に躊躇われていると思い込み、睨みつけもしたものだけれど。
 示される好意は、決して深いではない。誰しもそれは当たり前のことだ。それに気付かずに踏みにじっていた過去と今とが違うのは、己が先へと進んだが故、だろう。
 まだまだ成長など足りず、自分自身では満足など出来ないけれど、それでも少しだけ、大人へと近付いた。その証と、そんな風に、思う。
 「あの……爆殿」
 ようやく紡がれた続く音は、緊張を少しだけ孕んでいた。おそらく、彼にとっては決死ともいえる覚悟を定めたのだろう。内心吹き出してしまいたいほど大袈裟だが、彼にとっては真剣なことだ。
 「なんだ」
 小さく答える声に、小さな間。
 それを経て、彼の音が流れた。
 「……悪戯では、ないと思います」
 「…………………?」
 「なにかありませんでしたか?」
 まるで子供の身に凶事でも起きたかのような、そんな不安そうな声。けれどそんなことに覚えのない子供は首を傾げ、手の中の聖霊を見遣った。今もまだ右手の下で鎮座している彼は、何もいわず動きもしない。
 彼を包む手のひらに巻かれたのは、真っ白な包帯。それを視界に入れ、また子供は首を傾げた。
 「いや……料理を作っていたくらいだ。ちゃんとジバクくんの分もあるぞ?」
 食い意地の張った彼がそれを心配したのかとほんの少しの揶揄を込めて呟くが、手のひらの下では反応がない。これは違うかと眉を寄せ、軽く息を吐き出した。
 「他には………」
 恐る恐るといった感じの少年の声に、子供は迷うような間をあけて、小さく息を飲み込んだ。
 言うべきか言わざるべきか。たいしたことすらないのに、わざわざ言っても意味はないのではないか。
 そんな風に考えつつも、他に列挙できる事実がないのだから、言わざるを得ないのだろう。少なくとも、今回は彼を驚かせ迷惑をかけたことは確かなのだから、彼は知る権利がある。
 長い溜め息を吐き出した後、仕方なさそうに己の右腕から聖霊を解放し、その手を持ち上げて眺めながら、呟いた。
 「少し右手を切ったが、たいしたことはない」
 「……………、痛み、は?」
 「ない」
 「出血は……」
 「止血はした。処置は慣れている」
 だから心配は無用なのだと、子供は胸を張るような堂々とした音で告げた。それはきっと、少年へだけではなく、足下で転がっている聖霊へも向けられた言葉。
 何も心配する必要も怯える必要もないのだ。痛みはなく、処置は終わった。きちんと動くし、あとは傷が塞がるのを待つだけだ。だから気にする必要などない、些細なこと。
 GSウオッチの先、沈黙が流れる。少しだけそれは長い沈黙だった。首を傾げそうになった頃、少年の声が小さく呟いた。
 「………あの、爆殿。後ほど、そちらに伺わせていただきます」
 「どうかしたのか?」
 「薬草を、持っていかせて下さい」
 乞うように呟く彼の声が、少しだけ震えて聞こえた。
 子供は目を瞬かせて首を傾げる。誰かに施しを与えるなら、そんな不安そうにする必要もなかろうにと、変わらない彼のいたわり方に口元が緩んだ。
 「構わんぞ。どうせなら造血作用のあるものももってこい」
 「承りました」
 ほんの少しの本音とからかう声で告げてみれば、恭しく彼が返す。友人間で使うには少し固い彼の話口調は、けれど決して壁を作るようなものではない柔らかさ。
 聞き慣れたその音を耳に響かせ、通信を終える言葉を告げて子供はスイッチを切った。
 料理の続きを行わなければいけないと立ち上がり、足下転がる聖霊が自分を見上げていることには気付かなかった。
 それはどこか、先ほどの少年の声の響きに似た、震える視線。

 まだ、しらなかったのだ。
 痛みが他者とは違う大きさでしか響かないこと、を。
 …………忘れてしまいたかったから、本当に忘れてしまっていた、なんて。



 遠い通信の先で、親しき仲間が零したものも、知らない。


 進んだはずの足は、まだ続く道のりさえ、知らない。







 以前書いた話で痛覚に対しての鈍さを主体にしたものがあったかと思います。読み返していないのでどの話だったか明記できませんが(オイ) 今回の話はそれを自覚していない頃という感じですか。
 心が成長したからといって、全てがいっぺんに前に進めるわけではないです。一つを乗り越えたからといって、劇的に全てが前進するなんて、そうはありません。まあそうなってくれれば有り難いのは確かですが(苦笑)
 自己開示が大切なのは、そうした隠されたままの負の部分を自分で自覚できる部分にもあると思います。本当に知らないままでは進むことなんて出来るはずもないし、周囲が気付いてしまえば、それは悲しみを呼ぶこともあるから。
 誰かを守りたいという意志の強さが挫けないのなら、自分自身もまた守らないといけない。………一番面倒で厄介な対象ですけどね。
 その一歩に辿り着くまでは、幾度かこんなエピソードがあったのではないかなぁと思います。

07.2.7