どこか遠くを見る視線
まっすぐな眼差しは強く
何者も介入の出来ない意志の強さを映していた

強くなりたかった。誰よりも強く
だから、きっと
その視線の強さに平伏したくなった


その眼差しは、自分が欲しかったものに酷似している

何よりも清らかで純乎な


一対の、眼差し




4.強い眼差しに僕はいつでも憧憬を抱いてた



 隣を見遣れば、当然のように座っている子供。否、当然のように座っているのはあくまでも自分の方だろう。そう思い、少年は苦笑する。
 ここは子供の家であり、入り込んでいるのはあくまでも自分だった。
 それでもソファーに座るでも椅子に腰掛けるのでもなく、ぼんやりと硝子戸から陽光を浴び、外の景色を見つめる自分の隣に彼は座った。
 まるで、それが当然のような自然さで。
 まだ知り合ってさしたる時間は経っていない。…………随分と一方的で不躾な、身勝手な理由での対面を経たのだから、友として認められ傍に立つようになった月日を考えることすら野暮なことだともいえるが、それでもあっさりと認め許しを与えるこの子供に、確かに喜びを感じたのだ。
 だからこそ、普段であればトラブルコールが鳴り響かない限りは仙人の元から離れることのない、強くなるというその盲目的な目的にだけ捕われていた自分が、こうして足しげく他者の家に訪れている。
 …………もっとも、ここに訪れる理由は自国からの距離を駆け抜ける修行の一環という、そんなあやふやな理由によってはいるのだけれど。
 思い、苦笑が漏れる。隣に座る子供の前髪が微かに揺れ、自分の苦笑に気付いたことが分かった。けれど彼は何もいわない。
 きっと彼は思い悩んでもいるだろう。こうして唐突に築かれた友情を持て余してもいると思う。彼もまた、あまり人を傍に寄せつけない人だから。
 互いにどんな時間を過ごして生きてきたかなど知りはしない。自分には背負いきれないほどの痛みがあるから、それが故に目を曇らせていたから、人のそれを日の元に晒そうなどという不粋な真似はしない。少なくとも、そうはせずにいてくれる彼の隣は、心地いいのだ。
 知りたいという欲求は当然あるし、どこかには知ってほしいという身勝手さもある。
 決して誰にも告げたくない己の弱さは、けれど同時に、あの小さく雄々しい背中を晒し、守ることを笑んで示す人に知ってほしいとも思う。…………限りない、矛盾だ。
 「……………………」
 小さく溜め息に似た吐息が隣で聞こえる。見遣った視線の先、子供は硝子戸の先、木々に彩る花を見て目を細めていた。
 懐かしそうな瞳。幼い彼には似つかわしくない、憧憬と悲哀を混ぜた、愛しげな眼差し。
 それは喉が引き攣れそうな、無辜の視線だ。そこにはない何かを手繰り寄せるような、追うことの出来ない幻影をただ感覚だけで撫でるような、そんな寂しい仕草。
 目を瞬かせて、同じ景色へと目を向けた。彼が見遣った先に、一体何があるのだろうと不思議に思いながら。
 彼は不遜で雄々しく、誰にも屈することのない己の意志のみを尊重して生きる子供だ。どんな絶対者の言葉も聞かず、己の歩む先は己で掴み取る、そんなしたたかさとしなやかさを持っている。
 それは決して誰もが持っているものではない。誰もが持ち得たいと願いながら得ることの出来ない、ものだ。
 そんな人が憧憬を持って見遣る先が、この春のうららかな風景かと首を傾げる。彼がここに住んでいるのであれば、この光景は幾年月見遣ったかなど分かりはしない。決して新築ではないこの家は、それなりに人が住んだ時間を重ねていた。
 懐かしいと、その眼差しがいう理由は見当たらない。決してその目は、嘆いてはいなかった。寂しさや悲しみを滲ませながらも、それは慟哭を彷佛させるものではなかった。
 …………だから違うと、思っていた。
 「春は………優しい季節ですね」
 ふともれた言葉は、なんてことはない当たり障りのないものだった。意味すら他愛無い。ただ何となく彼の視線を風景から自分へと引き寄せたい、そんな幼い我が侭だ。
 ぴくりと彼の肩が揺れ、瞬きを落とす大きな瞳は、ほんの微かに揺れた後、目蓋に閉ざした一瞬でいつものあの強かな光を乗せて自分を見返す。
 まっすぐな視線。誰のことも恐れず、見くびりもせず、同じ位置に立つ同じ人間として見据える、空恐ろしいほどに純粋な眼差し。知らず、息を飲んだ。
 彼の目はその背中と同じほどに彼の意志を指し示す。決して屈することなく挫けることなく歩むことを止めない、そんな頑強な意志を乗せた酩酊を知らない瞳。
 それを見つめる度に、溜め息が漏れそうになる。早く自分もそうありたい、と。
 その意志が見据える先に、自分もまた立ちたいと、そんな夢を思い描く。
 「当然だ。………春は、優しいものだ」
 ふと意識がずれた瞬間を縫うように、子供の声が響いた。高くも低くもない、まだ幼い声。水のように透明だと、そう思ったのはいつだったか。
 意志に穢されることのない、至純の音。………誰かを救いとるために紡ぐなど思ってもいない、傲岸な音。
 だからこそ救われる不可思議な音色は、その視線とともに少年に与えられ、そしてまた、逸らされた。
 ………惜しいと、そんなことを思う。あの視線も声も、与えられるならどれほどの無体も耐えられる気がする、天性の力を持っている。それはきっと彼がずっとそうして生きてきたからこそ構築された、彼の力の一つ、だろう。
 型も知らず力の配分も知らない、素人の身のこなしで、けれど彼と立ち合ったなら武術を学ぶ身でありながら、勝てる気がしない。自分が弱いのではなく、彼のその意志が自分を平伏させるのだ。否、おそらくは、誰もを。
 彼はまた風景を見つめ、その幼い唇は引き結ばれた。癖、なのかもしれない。言葉を紡がない時に音をこぼさないようにするかのようにその唇を噛み締めているのは。
 我が侭でありながら我が侭ではない、不思議な子供。本当の意味で己の意志を主張することがあるのか、自分には分からない。
 彼は無茶をいい無茶をやらかし、そうして、その無茶を実現させる。その多くは、己の我が侭、に見せ掛けて、誰か他者のため。…………いっそ尊いほど、彼は他者のために生きているように思える瞬間がある。
 問えばきっと不可解をそうに眉を顰め、世界制覇のためだとか、そんなことをいうだろう。けれど、彼のその真意がどこにあるか、まだ少年には理解し得ない。
 彼の望む世界制覇がなんであるかなど、分かるはずもない。そんな夢物語を、その言葉の意味のままに紡ぐほど浅はかではなく愚かでもない子供。………そうであれば何を願い、その言葉を糧に生きているのか。
 知りたいと思い、同時に、知ってはいけない気が、する。
 自分はまだ力なく、信頼もまた、薄い。もしも何かしらの危険が互いの身に同時に降り掛かれば、子供は当然のように自分に手を差し出し守ろうとするだろう。己の身にかかる痛みなど微塵も知らせず不敵に笑んで、こちらが気にする必要すらないとなんでもないことのように。
 …………傷を、求めるように生きる子供だと思ったのは、初めて会ったあの日を繰り返し思い出し続けた結果だ。それに意図も意味もない。ただそう、漠然と感じた。自分が強さに溺れて目を塞いでいたように、どこか彼はその強さ故に、痛みを求めている。
 「ええ………綺麗な、季節です」
 小さく応えた言葉はまた外へと向けられた眼差しを追って、彼の頬を過り、その眼差しの示す風景を焼きつけた。美しい景色だ。新緑の緑、とりどりの花。その対比は、まるで芸術家がうまく配分したかのような鮮やかさ。
 ……………優しく美しく、誰もを包み癒してくれる、季節だ。
 彼の声を乞う声には、けれど応えは返らず、互いに惚けたようにただ外の景色を見つめた。
 いつもは意志の強さを乗せて睨み据えるように見遣っている眼差しは優しく柔らかく、その景色を映している。それを傍らで共有できることに幸せを感じながら、微睡むような思いで、笑みを浮かべた。
 まだ共に過ごす時間は短い。こうしてこの家に来ても拒まれない代わりに、決して心許されているわけではない。それくらいは、鈍い少年でも知っていた。
 まだ歩み寄る距離は遠い。それでも一歩ずつ近付きたい。失うが故に近付かない、そんな愚かな時間を過ごした自分の数年を思い、苦笑を胸裏でこぼした。
 この家に通うようになるまで、失った記憶の日から、ずっと山に籠っていた。そうしていれば、もう二度と失うことがないと、そんな浅慮、きっと仙人は見透かしていた。それでも許されていたのは、そうしなければ生きていられないほど、自分が弱かったからだ。
 …………それでも今は、ほんの少しだけれど、こうして歩み始めた。
 幼いまろみある頬を見遣って、その眼差しが注がれる先を見つめて、少年は笑みを唇にのせる。
 まだ傍には近付けない。物理的な距離ではなく、目に見えないその距離がもっと縮まればいい。そう願うことがあるなど、過去の自分には思えなかった。
 弱く脆く他者を失うことを恐れていた自分を、その眼差しは真っ直ぐに射抜いて、小さな背中は立ち上がり歩むことの尊さを知らしめた。
 だからその傍らを許される存在に、なりたいのだ。
 ………強く見据えるその視線の先、茨が蔓延ろうと歩むことを止めないこの子供を、守ることが叶わなくとも共に歩める、そんな存在に。
 同じものを見つめることのできる目を携えられたなら、と。
 遠い景色を見遣ったままの子供を視界におさめ、小さな吐息とともに、思った。



 何も知らず、何も理解せず

 それが故に

 傷すら気付かず抉っていた頃の、こと。







 まだ互いに傷を知らず、互いの中にも踏み込めていない頃。
 知らないから、自分の思う感情のまま、告げてしまう。それは決して悪いことではないけれど、相手が気にしていないことであっても、確実に後悔を教える。
 人に関わるからこその怯えとこの先幾度となく対面しながら、それでも誰かとともに生きることのかけがえのなさを学んでいけばいい。
 まだ成長途中の子供に、それは許された特権だから。

 まあ大人になると臆病になりやすいよね、という、己の身の脆弱さの皮肉でもある(苦笑)

07.3.27