柴田亜美作品

逆転裁判

D.gray-man

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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それは突然起きた。
夕食を囲み、父と母の前に座って箸をとろうと腕を伸ばした。
その瞬間の……悲鳴。そして振動と暗転。
弾き出された自分。呆気無いほど簡単に幼い肢体は宙を舞った。
家だった破片が見開かれた子供の瞳に映る。
空に灯る月が……淡く自分を照らす。
吐き出した吐息の音さえ自分の耳は聞いていた。
こんなにも悲鳴と破壊音と……断末魔の叫びに満ちた空間で。
そして……翻る影。
宙を舞った子供を守るように重なる長い髪のやわらかな肢体。
その二つを巨大な影から救うように棍を携えた大きな背が見えた。
………見えた……のに。
それはもう永遠に見えない。
母の肩から微かに覗く(ひしゃ)げた四肢。
降り注ぐ赤が少年の瞳にかかる。………ぼやけた視界の中には、自分を抱き締める顔さえ見えない。
だんだんと冷たくなっていく……身体。
やわらかかった腕は凍り付く。
不思議そうに……子供は母だった人を見つめた。
「………母さん……?」
小さな声が掠れて響く。
誰も……子供を見遣る余裕などなかった。
たった一人で……子供は背に大きな岩を食い込ませた母を揺する。
震えた声が……小さく掠れて紡がれる。
「なあ…目を開けろよ……。母さん……母さん…………おいっ!」
揺すっても……血すら流れない。
溢れた涙に瞳に入った赤が流れる。……それはその瞬間涙でさえ無くなってしまう。
凍り付く……子供の表情。流れた赤だけが生気のない幼子を彩る。
………慟哭は空に響いても誰も気付かない。
全てが破壊された村が……子供の心に重くのしかかる。
「母さん…父さんがいない……。………俺…独りぼっちだ…よ?なあ…答えろよ、オフクロ!オヤジ!!」
響き渡る幼い声に答える者はいない。
ただ……月だけは淡く輝き子供を慰めるように微笑んだ。



導きの月



 何も見えない瞳を抱えたまま、子供はただ呆然と歩いていた。
 月が……ゆっくりと廻る。子供の足元が闇に包まれることを危ぶむように。
 それを全身で受け止め、遥か彼方の頂上を目指した。
 …………そこには、小さな祠がある。
 前に家族で行った事があった。この山の隣にある秘境といわれる山に住む仙人を崇めた祠。
 そこに行って……なにをしたいわけでもいなかった。
 ただ会いたかった。ただ取り戻したかった。
 この腕に触れた冷たさを消したかった。
 それがどういう事か分かっている。それでも……足は止まらない。
 この命を天に帰すために地を登る。どこか滑稽なその行為さえ…子供には何も伝えなかったけれど………。
 パキリ……と。時折踏み締めた枝の折れる音が聞こえる。
 なんの不都合もなく動く身体。………あれだけの衝撃を……それでも卓越した武道家であった母は全て自身の身体だけで吸収し…子供を生かした。
 ………………その事実がどうしようもなく重い。
 なにもない。この腕にあったものは全て壊れた。
 まるで飾られていた硝子細工。吹き掛けた強風に抵抗する事もなく静かに落ち……果てる。
 それに殉じたいと思う事は……罪なのだろうか。
 亡くなったものを悼む思いは……愚かなのだろうか。
 力なく踏み出される足はいまだ幼い。
 たった独り生きるには……あまりにも幼気で脆く…儚い。
 重い足は子供には辛いはずの山道も、その距離も忘れさせた。
 ………軽すぎる心は疲れも痛みも感じなかった。
 汗さえ凍てつき、動かない能面は影を纏ったまま虚ろに地を見つめている。


 ほんの数時間。……けれど子供の一生を変えてしまう数時間。
 その全てが子供の中にいまも消えない眩さで溶け込む。
 生涯変わる事のない閃光。………消える事のない灯火。
 追い掛け続けたのは……英雄の影かその瞬きか。
 それさえ解らないけれど、それでも出会った。
 ……全てを浄化する曙光に。
 痛みを思うぬくもりに………………


 祠は本当に小さなものだった。
 小柄な子供が数人は入り込んだならそれでいっぱいになるほどに。
 それでもこじんまりとした祠は清廉に聳えていた。………闇夜が淡く晴れ始めた中、息を白く色づけ…幼い子供が現れる。
 掠れた視界の中、子供はその扉に腕を伸ばす。
 …………何もかもを知り尽くした万能の仙人がこの世にいるという。
 それならばなぜ……それを敬い崇めた自分の村は災厄に見舞われたのか。
 信仰心の篤い、潔癖な自分の父と母があんな不様に消えなくてはいけないのか。
 力があれば示せばいい。そうでないなら…何故希望を持たせるように存在するのだ。
 奇蹟を起こせる仙人は、それでも救ってくれなかった。
 崩壊した村も。守るために武器をとった大人も。……嘆いた幼子の哭き声さえも………!
 その祠に祭られた神仏に触れれば……解るのだろうか。
 …………自分が生き残った意味が。守られた意味が。
 喉から……小さな呼気がもれる。
 緊張からではない。………奇妙なほど子供は冷めていた。
 どこかで知っているのだ。
 ……………この扉を開けても………
 小さな指先がゆっくりと扉に掛けられる。
 軽く引かれたそれは……軋んだ音を響かせてゆっくりとその身を晒す。
 「…………………」
 溜息さえ……こぼれない。……………解っていた気がする。
 なにもない空間。真空というに相応しい冷たさでそれは悠然と存在する。
 なにも……いるわけがない。
 なにも……あるわけがない。
 この世に完璧なものが存在するはずがないのだ。なのに……期待しているわけがない。
 眇めた瞳で開け放たれた扉を見つめ……子供はその背を翻らせた。
 一歩………また一歩。ゆっくりと進められた足は切り詰められた崖へと進む。
 小さな石が子供の足にあたって悲鳴をあげながら足下へと落ちた。………まだ夜も開けていない山の中ではその暗闇の先になにがあるのか解らなかった。
 その中に……ぽつりと灯った光。
 あまりにタイミングのいいその灯火に……子供は目を見開く。
 まるで……誘われているようだ。この闇の中に飛び込んでも受け止めてくれると囁くようなあたたかい光。
 それはまるで亡くしたばかりのぬくもりを思い出させる。
 …………掠れて見えない視界の中、子供はその光を掬いとろうと腕を伸ばす。
 「………………?」
 伸ばした腕が……空を掠める。
 遠近感のない陰った視界の中で示された明かりを掴む指先は……濃紺の闇に捕われ抱き締められる。
 ………遠ざかる意識を見つめながら、子供は微笑む。
 それは消えるはずのないもの。それは手に入れていたもの。
 亡くしたと思っていたあたたかさに抱き締められ、子供は目を瞑る。
 耳のそばを過る風の音さえ隔離して…………………



 闇夜を見つめながら、幼子は小さく息を吐き出した。
 ……調度、夕方通った村がトラブルモンスターに襲われたのだと同伴のシスターが囁いていた事を思い出す。
 院で恒例の子供を連れた巡回中にそうした事は少なくない。……けれど他の国で、こんなにも身近で起こると気分がもやもやとしてスッキリしない。
 そばにいたシスターの腕を引き、幼子は顔を寄せる。
 心得たようにしゃがみ、子供の口元に耳を近付けたシスターは、小さく笑った。
 「………外に出る。なにか……気になる」
 本来、こうした時に子供を一人外に出すなど問いかける事すら愚かな事。
 けれど……幼子とシスターは違った。
 シスターは幼子の顔を覗き込む。その澄んだ瞳に映る自分の像を見つめて……微笑む。
 どこか深い憂いさえ含む、歳に相応しくない幼子の声。
 幼子は決して我が侭はいわない。……自分一人の為の我が侭など知らない。
 だから頷いた。信頼に足るだけのものを幼子は持っている。
 他の子供やシスターに見つからないように二人は連れ立って部屋を出……外へと続く扉に向かった。
 長くはない廊下を横切り、誰に咎められる事もなく二人は外へと出れた。
 濃紺の闇夜の中、ポッカリと月が顔をだす。……いつもより輝きが強く感じる。それは…先ほど聞いた村の崩壊という悲劇への感傷故だろうか。
 軽く顔を俯かせ、幼子は決意するようにシスターの指先を強く握りしめた。
 それを受け止め、シスターは変わらない笑みを浮かべる。
 「………気をつけて、爆。けして無理をしない事。………それだけは絶対に約束よ……?」
 「解っている。……すまん。すぐに…帰って来る」
 「じゃあ……腕を貸して」
 「……………………?」
 にっこりと子供のように笑って囁くシスターに、子供は訝しげに眉を顰めて……それでも素直に腕を伸ばした。
 その腕に巻かれた純白の布。………目を丸くして子供はそれを見つめた。
 「約束、してね。それを汚さない事」
 無茶をするなとは言わない。けれど……ちっぽけな布を気づかえるぐらいには冷静でいてくれと……夜明けも間近な時間に幼子を送りだすシスターは囁いた。
 その思いを受け止め、幼子は顔を綻ばせる。………決して押し付けがましくないシスターの思いが嬉しかった。不安を全面に出さず、自らの責任で進めと認めてくれるその視線が本当に嬉しかった。
 強く白を握りしめ、幼子はシスターに頷くと背を向けた。
 ………暗闇の中……その白い腕だけは際立って浮かぶ。それが完全に消えてもまだ…シスターは幼子の背を見つめていた……


 しばらく歩くと、小さな石の落ちる音が聞こえた。
 それは近くから聞こえ……幼子は携帯しているバックからランプを取り出した。小さなものだが、それなりに光源として役に立つ。
 ゆっくりと光をかざしてあたりを見回す。風すらない光景に揺れるものは葉すらない。
 眉を顰め、子供は目を閉じる。
 ………どうせ、闇なのだ。目を開けて集中を妨げるよりはっきり閉じて聴覚に集中した。
 音が……響く。遥かに高い空からなにかが風を切って滑り落ちる。
 ――――瞬間の空白。
 全てが停止した空間に、空から降ってきた人。
 ………………羽もなく……けれどやわらかな明かりに包まれて。
 息が、止まった。あまりにも現実味のない光景。
 遥か空から落ちてきた子供。けれど木々のクッションで怪我もない。少し切った額から滲む赤が見えるくらいだった。
 穴の開いた空から、やわらかな光が注ぐ。それは月明かり……なのか。
 そういうには眩かった。
 その光に触れるのを躊躇うように子供は近付きながらも子供に触れる事が出来なかった。
 …………ゆっくりと…光が強まる。そして気付く。それが朝日である事に。
 口を開けた空からだけではなく、幼子の背からも漏れ始めた光。
 微かに……子供の瞼が震える。
 それに気付き、やっと幼子の中で時が動き始めた。
 「…………おい……?」
 小さな声が、躊躇うようにかけられる。
 それに応えるように子供の瞳が開かれた。
 …………深紅に染まった瞳は、視界に入ってきた光に眉を寄せる。
 返されない声に幼子は子供を見つめる。
 あるいは…声を潰したのかと思い至り、幼子は子供の傷を覗き込んだ。
 語れない相手にこうした時、かける言葉より触れるぬくもりに意味があると思うから。
 「怪我……しているな。……シスターとの約束だが仕方ない」
 小さく悩むような独り言が囁かれる。それを耳に染み込ませ、子供は初めてそこに誰かがいる事を知った。
 再び開けられた赤は…眇められ、霞んでいた。ぼやけた光の洪水の中、小さな影が腕を伸ばす。
 それが優しく額に触れた。……ピリッと電流が走るような痛みに眉を潜める。
 崖から落ちてこの程度の傷で済んだのなら、奇蹟なのだろう。それを知りながら……まだどこか納得が出来ない。
 また……助かった。自分だけが生き残った。
 その意味が解らない。
 ………それを知りたいのに……なにも応えてはくれない。
 「………痛いのか?」
 不意に、幼い声が寂しそうに囁く。それに応えなければ、頬がぬくもりに包まれた。
 短い指が辿々しく頬を撫で、労るようにぬくもりを与える。
 それはひどく単純な行為。幼気な魂はまだ誰かを慰める言葉を知らない。
 だから……その心のままに願うものを分け与えた。
 たった一人で寂しいと、……凍えそうなのだと流れる涙を掬いとるように…………
 鮮烈な光を全身で受け止め、子供は流れる雫に目を瞬かせた。………涙が出るとは……思わなかった。
 もう叫び過ぎて声すらでないのに。
 ……音を紡ぐ事を拒否しているのに。
 それでも……この目は悼む事を覚えていた。
 拙い指先に導かれ、抱えた苦しみを……重さを流せと示される。
 それは神々しき光。
 ………人を象った曙光。
 眩さに瞳が射抜かれ、開ける事も出来ない。
 掠れた空気が音もなく唇からもれる。………それを抱き締めて、幼子は子供の背を叩いた。
 その耳を見れば……解る。この子供は被害にあった村の出身者だ。
 こんな時に山に登り……空から落ちてきた。それが意味する事は解る。
 言葉がでなかった。………慰めなど、気休めにもならない。
 生きろと……囁く事が正しいかなんて知らない。
 ………………だからこれはただの自分のエゴ。
 解っている。……けれど囁かずにはいられない。
 「その布は……俺のだ」
 「……………?」
 幼子の言葉の意味を掴みかね、子供は問い掛けようとその視線を幼子に向けようとした。
 それを拒むように幼子の腕に力がこもる。
 …………小さな声が、躊躇いながらも強い音で紡がれた。
 「傷が治るまでは貸してやる。いつか、必ず返せ。それまで……預かっていろ」
 それはどこか願うような響き。
 子供の瞳から……また熱が落ちる。
 光がゆっくりとこの身に染み込む。
 生き残った意味が解らなかった。
 生きなくてはいけない理由が解らなかった。
 ………けれどこんなにも幼い子供が……それを与えようと囁く。
 煌めく朝日が子供を包む。………闇夜を消すように。
 子供の内に巣食うものを溶かすぬくもりに、涙が触れる。
 それを抱き締めて……幼子は小さく笑った。
 赤く光る子供の瞳。何も映さない、頑なで意固地で……純乎な瞳。
 どこか……あのシスターに似ている。これに優しさが混じれば自分を抱き締めるぬくもりと同じだ。
 硬質な赤は……ぬくもりに溶け、涙に混じり……やわらかくあたたかく換わるだろう。
 それを見る事はないのだろうけれど……それでもなにかは残したかった。
 一晩中歩き通したのだろう子供が泣きつかれて崩れるのを抱き締めて、幼子はその額に巻き付けた純白の布を撫でた。
 他の何も残す事は出来ないけれど……それでも構わない。
 自分とシスターの思いを抱き締めて眠れと囁いて、幼子は子供に背を向けた。
 ……………樹木に抱き締められる子供を見つめ、幼子はシスターの待つ小屋へと歩を進めた……………