夕闇も越え、辺りは薄暗くなりはじめた。
ようやくエイトンについた爆は、そのまま近くの宿屋に入った。
まだガイドブックを見ていないのでこの国がどんなところか判らなかったが、とにかくとても疲れてしまった。
普段ならばそんなことはないのに突然そうなるなど、やはり仲間と別れたことに影響されたのかと情けなさに軽い舌打ちをする。……だが今はとにかく早くベッドに横になりたい。
ともすれば落ちてくる瞼をどうにか開きながら爆は宿帳に名前を書き込んだ。特に咎められもせず、余計な手間も掛からなかったことに安堵し、爆はそのまま指定された部屋に向かった。
質素な安宿だが、トラブルキッズとして指名手配されている身としては都合がいい。へたにいい宿だと完備がしっかりしているため自分が賞金首であることがはじき出されてしまう。
ギシギシと音をたてる階段をのぼりながら微睡む頭のなかで爆はつらつらとそんなことを考えていた。そして考えがうまくまとまらないので風呂は朝にでも入り、今日はすぐに寝てしまおうとあくびをかみ殺しながら爆は手の中にある鍵で部屋のドアをあけた。
……立て付けの悪い音がした。
本当に質素な部屋だった。簡易のベッドと小さな机があるだけだ。
肩に乗っているジバクくんを見遣るともうすでに大きないびきをかいて眠っていた。
安らかそうなそれを忌々し気に見つめながらも爆はジバクくん用にと借りたカゴの中に
枕を一つ押し込んで簡易のベッドを作り、その中に寝かし付けた。
喧嘩ばかりしていても、ジバクくんは爆にとって特別だ。言葉を必要としない関係が手軽なものだなどとは思っていない。いつだって無表情な自分の唐突な行動を理解し、その無茶につきあってくれた。……それがどれだけ稀少の価値を持つかよく知っている。
もっとも、だからといってその感謝と好意を全面に出すようなことは絶対にしないけれど。
本当に自分は意地っ張りだと苦笑し、夢の中で暴れているらしいジバクくんを一度撫でるとベッドに向かった。あまり質のいいベッドとは言えないが野宿に比べれば天国だ。
疲れきった身体はとても重く、上着を脱ぐのにもかなり時間を要した気がする。きちんと畳んだ上着をベッドの下に置き、ぼーっとする頭を持て余しながら爆はふとんをかぶった。
けれどいざ横になるといっこうに睡魔は襲ってこない。
暫くは微睡みながらだるい手足の力を抜いて居心地悪そうに寝ることに努めたが、無駄な足掻きだと思って爆は起き上がった。考えていたよりはずいぶん簡単に起きあがれた。ベッドに横になる前の痺れたようなだるさはなくなっている。
少し手や肩を動かしてから、暗い部屋の中で爆は上着を手探りで見つけ、音を出してジバクくんを起こさないように努めながら部屋を出た。
ドアの閉じる音を聞きながら目をあけたジバクくんは…大丈夫だろうと再び目を閉じた。
健やかな寝息が相棒の帰りはいつだろうと囁いていた…………
外はかなり冷えていた。あるいは気付かなかっただけで少しぐらいは眠ったのかも知れない。辺りの光源の少なさから爆はそう考えた。……吐いた息が微かに白くなった気がした。
特殊素材で出来た服を着ているためそこまで寒さは感じないが、露出している顔や足は寒さに反発するようにピリピリとしている。
「思ったよりも冷えるな」
数度手を開閉しながら呟く。冬でもないのにこんなに冷えるのはおかしいと訝しむ心が沸き起こったとき、ゾクリとする寒気とともに聞き違いを祈りたい声が聞こえた。
……木陰から、答えがかえってきた。
「……今日は特別さ」
「!?」
声は少年のモノだ。尊大な響きを色濃く含む、大きくもないのによく通る声。爆も尊大な雰囲気を持っているが、その声の主は質が違う。
冷たく無慈悲な、爆のような包みこむ優しさのない突き放す冷酷さを漂わせている。
爆の背筋に嫌な汗が伝い落ちた。
木陰を睨み付ければ、また声が響いた。
「僕が来たせいで、少し…影響が出たみたいだよ」
濃い闇に隠された木々の間から漆黒の靴があらわれた。
次いで闇色の服に身を包んだ少年が姿を表わす。
その姿は微かに透けていて、目の前に立つ者が実際にはそこにいないのだろうということを知らせていた。
それでも襲いくる、圧倒的な存在感に爆は目を見張った。
……爆は声をあげない。
緊張に体が固まっていくのが判る。
また、気づけなかった。……セカンの時と同じだ。気付いて当然の、すぐ真横を通ったはずの相手。
けれど気配を掴ませない。爆は心の中で舌打ちをした。
ジバクくんがいなくとも大抵の相手ならばどうにかできるが、GSは話が違う。
GSに成り立ての自分とこの男との実力の差は歴然としていた。
冷や汗を掻きながらも逃げようともせず、まっすぐと睨み付ける爆を男は嬉しそうに見つめ、クスクスと笑いながら声をかけた。
「安心しなよ。……今日は別に君と戦う気はないから」
「貴様のいうことなど信用できるかっ」
もう冷や汗さえなくし、爆は真っ向から相手を睨みつける。心には気負いも、微かな恐怖さえない。……ただ沸き起こる。初対面の最悪な光景と身体の底から沸き起こるような怒りが。
それを見つめ、男はにっこりと笑いかけた。
「ひどいな。大好きな君に嘘なんてつかないよ……?」
「…………雹、貴様頭に薔薇でも咲いたか?」
気味悪気に怪んで呟けば、高圧的だった雹の気配が畏縮した。
まるで寄る辺ない子供のようだ。
その変化に爆は戸惑う。……大体、大好きだといわれる覚えがない。炎をなぜか毛嫌いしている雹は炎から聖霊を譲り受けた自分にまでお門違い極まりない怒りをぶつけていたのだから。
けれど…………
「本当だよ?」
泣き出すのではないかと、思った。それほどに弱々しかった。自分の知る男が本当に目の前の者と同一人物か疑いたくなる程に……
声は、先ほどまでとは打って変わり小さな囁きだった。それは爆に聞かせるというよりも
自分自身に確認しているようだった。
雹の変化に爆は微かに戸惑った。予想外の行動ばかりだ。
……けれどそれは簡単に人に判るような、そんな変化ではなかった。それに気づいた爆を、雹は目を細めて見つめる。まるで、愛しい者を見つめるように……───────
そしてうっすらと微かな微笑を浮かべた。
「やっぱり、君はいいね。早く…針の塔へおいでよ」
囁く声は懇願しているようだ。戸惑いがどんどん爆の中で大きくなっていく。
これは、一体誰なのだろうか……
「ふん。行くに決まってる。だがそれは貴様のためではない。俺自身と、俺の仲間のためだ」
そんな戸惑いをなくすように爆は睨み付ける瞳の力を強くする。
雹はただそれを受け流し、笑うでもさけずむでもなくぽつりと呟く。
「知ってるさ。……何でもいいから、早くおいで」
「雹………?」
思わず爆は声をかけてしまった。
無表情に、冷たく囁いているというのに、なぜこんなにも寂し気なのだろうか………?
まるで捨てられたネコのようだ。情に飢えていながらも甘える術を忘れ去ってしまった哀れな捨てネコ。
自分はダメなのだ。こうした者を見ると放っておけなくなってしまう。
……手を、差し伸べたくなってしまう。
背中を蹴り倒してでもしゃんとしろと…立ち上がる手を与えてしまう…………
自分が甘いことは知っている。だからこそ、それがばれないように尊大さでカバーしているのだから。
だから、差し伸べてはいけない。支え続ける気のない手はときとして相手を傷つけるのだから。
だけど……
「早く、来てくれ」
この無のような少年を見捨てられない自分が…情けない。目の前で弱っている者を、
なぜ見捨てられないのか……
それが強さか弱さか判りはしない。
ただ、立ち上がれと…いいたいのだ。
不敵な顔をして、卑怯な真似を笑ってできる相手でなければ、爆は本気で憎めない。
囁いた声の真意に気付くか気付かないかは本人次第だ。
「すぐに行くといっているだろう………待って、いろ」
「………爆くん?」
自分へかけられた、言葉。
雹は目を丸くしてその言葉をきいた。
……それは待っていることを黙認する言葉。約束へと繋がる言葉……
今まで欲しくても、与えられることのなかったそれを、確かに爆はくれたのだ。
憎いであろう自分に………
睨む瞳の中に揺れる、不確かな感情。優しく、脆い……けれど雹が憧れてやまないもの。
「本当に君は………」
お人好しだと心のなかで雹は呟く。
まっすぐと自分を写す澄んだ瞳。すべてを知った上で、それでも逸らされることのないそれ。雹は、ただ自分を見てくれるその瞳が好きだった。
一点の曇りもない瞳に写っているときだけ、確かに自分を認められた……認めてもらいたいと思えた。
情けない程単純で利己的だ。
それでも……ずっと、ずっと待っていたのだ。針の塔でたった一人。
GSとなったものたちは長い時間の間に針の塔から離れていった。
寂しいも悲しいもなかった。……自分一人しか針の塔には長いこといなかったから。
気が狂う程泣いても、包んでくれる手はなかった。
雹にはここ以外の居場所などなかったから。だから、ただ独り待っていた。
自分を見てくれる人を……。
この身を焼く程に、たった一人を………
それは決して恋でも、まして友愛ですらない。もっと醜悪でみじめで、切ない程の渇仰(カツゴウ)だ。
しかもその相手は情けなくも自らの憧憬を形にしたような子供だった。
……自身の汚穢(オワイ)を見せつけられるようでやりきれない。
それでも募るモノはあるのだ。雹は思慕に穢れはないのだと祈るように心に呟く。
俯いた面(カオ)からこぼれ落ちた雫はたったひと粒。……けれどその重さを互いが知っていた。
全てを包み隠して雹は別れを告げる。
「……もう、時間だ。戻らないと」
囁くようにいった言葉は、微かに掠れていた。爆はただ真直ぐに相手を見つめていた。
言葉を一つとして逃さないために……
「…………」
「……………爆くん……」
なにかを思い悩んだような沈黙のあと、雹は静かな声で呼び掛けた。
俯いていた顔がようやくまっすぐに爆を見つめた。
ひたむきなその瞳に一瞬爆は引き込まれた。
拒絶されることを恐れている、寂しげなネコの目……。
だからこんな不覚をとったのだと、自分自身に言い訳をしながら………
緩く抱き締めてきた腕は質量がなく、肉体を持っていないことを窺わせた。
瞬間跳ねてしまった身体は静かに緩く包む匂いさえない身体の中におさまった。
スローモーションのようにゆっくりと淡い雹の顔が近付く。十分に逃げることのできる時間をかけて……
啄むように恐る恐る触れてきた唇は抵抗がないことを知ると数度触れるだけの接吻をくり返した。
恐ろしい力を秘めた両腕は微かに震えて爆を包んでいる。
閉じてしまった目からは雹の様子を窺うことはできないが、戸惑った気配は十分伝わった。
実際こうした真似を許すとは思わなかった。同情に身体を張る程奇特ではない。
……ただ、安心させてやりたくなった。自分は逃げないと、証を見せたかった。
相手が男だという気味の悪さは不思議と湧かなかった。……むしろ儀式じみていると感じた。
唇から離れ、瞼を恭しく口吻ける雹に敵愾心はない。
悲しい程の孤独と、泣きそうな切なさだけが漂っている。
……爆はただそれを静かに受け止めた。
微かな温もりを残し、触れていた唇が消えた。
爆がゆっくりと瞳を開ければ、そこには誰もいなかった。
まるですべてが幻であったとでもいうように……
けれど覚えている。怯えるように触れてきた手の、まるで頼り無い気配を。
肉体を針の塔に置いてくるなどという不可能極まりない真似をしてまで会いに来た意味に、気付いている。
急いで、やらなくてはいけないのかも知れない。仲間の為だけでなく、温める手を欲しがっている幼子の為にも。……最も、今はまだ敵である雹の為になど、決して口にも、心の表面にも出しはしないが。
ただずっと深層の、誰も触れはしない奥底でだけ覚えておこう。……今日のこのことは。
そう心に呟くと、一陣の風が思い出したように爆に降り注いだ。
……それは肌に心地よい涼しい風だった。
あれ程に寒かった空気は柔らかな暖かさを持っていて、気候にまで影響を与えるモノが、自分達の前に立ちはだかっているのだと爆は強く手を握りしめた。
さざ波の音を聞きながら、しばし空を見上げた。
まんまるい月は、……けれど厚い雲に閉ざされ、その大部分を隠していた。
顔を覆うその仮面に甘んじている姿は、たった今この場にいた男に似ていると微かに思い、爆は静かにその場から離れた………────────。