なんて陳腐で在り来たりな歌だろうか。
それでもあなたのおかげで謳うことを思い出したこの喉は、絶えることなくその歌を奏でる。
低く低く地を這う自分の声。
…………あなたに触れることで浄化された清らかなる歌声。
あなたに出会って歌が生まれた。
祈りを混ぜて謳いましょう。
願いを折り込み謳いましょう。
望みを染みらせ謳いましょう。
――――――あなたのためだけに謳いましょう。
愛しさの意味さえ忘れたこの魂に、あなたのぬくもりを分け与えて下さい………………
『神は死んだ』
暗闇のなくなった世界にゆっくりと朝日が顔を見せ始める。
………もう、この世界は消える。存在する必要がなくなったから。
知っていて……それでも名残惜しくて手放せない自分を少年は無感情に眺めていた。
いつだって手放して構わないと思っていた世界。誰も存在しない、孤独なる静謐の……………
物音さえ疎まれる、この魂の渇望する音楽さえ奏でることを許されない獄舎で…それでも色褪せないものが存在するのか。
…………問われたならば否と答える自分を知っている。
それでも無くせない。祈りを知っている……から………………………
この日に焼けることのなかった指先がなにを愛しんでいるか。願っているか…知っている。
謳うことを思い出した唇は賛美歌を乞うように昇り始めた朝日に音を求める。
微かに開かれた唇が………厭うように謳っていた鎮魂歌。もう、謳わなくてもいいのだろうか…………?
この朝日のように美しく厳かな、誰もが心震わせる歌を謳っても…いいのだろうか――――――――………?
許しを与えてくれる者はない。………決めるのは己なのだとなによりも廉潔なる眼差しが一瞬脳裏を掠める。
息を詰まらせるように、少年は唇を噛みしめた。
淡い唇の色が噛み締めた自身の歯に侵されてどこか陰鬱に彩られる。噛み切るまであと僅かな時………声が降り掛かった。
昇る曙光よりもなお神々しいその声音。………誰も逆らうことのできない絶対なる音。
耳を澄ませる必要もなく無遠慮に人の肌を滑り旋律は形となって脳にまで溶け渡った…………………
「こんな場所でなにをしている……デッド?」
子供の幼さの残った声が晒す微かな疑問。何故にそれが紡がれたかを少年はよくわかっている。
日が……昇っていくのだ。
闇の中しか存在することのできない自分が朝日を浴びてなお存在している。それは確かにこの世界に組み込まれたプログラムを知っている子供からは奇異の対象かもしれない。
それでも…何故にその瞳はそんなにも柔らかいのか…………………
いつだって記憶の奥底、思い出される子供は艶やかなまでに鋭い眼差しで。
空恐ろしいまでに澄み切った瞳は見たこともない青空のように際やかで……―――――――――
自分の眩んだ瞳を斬り付ける。言葉でも態度でもなく、その至純を溶かした瞳だけで前を見ろと突き付けてくるのだ。
噛み締めた唇はいつの間にか解かれる。彼を前にした時に起こる自身の変化を少年はよく知っていた。
クツクツと沸くように。………心身と湧くように。
身の奥のどこか深過ぎて自分でも見当のつかない場所でなにかが起こる。
ざわめくように肌が揺れる。それを飲み込むように少年は微かに唇を動かし変わらない小さく低い音を紡いだ。………………闇夜の中、奏でることのなかった歌声は、いまもまだ朽ちたままに………………………
「そういう爆くんこそ…こんな場所へ何故………………?」
どこまでも清々しい空気に溶けることのない忌わしい声音。耳を塞ぎたくなるほど…自分の声が嫌いだった。
…………それでも囁かなくてはいけない相手がいることは何故か。
どこか自嘲を滲ませたその音に子供は軽く息を落とし少年の傍まで歩み寄った。
………子供が近付く度、身の奥で鳴っていた筈の鼓動が耳に聞こえるようになる。その変化がどこか熱くて…少年は瞼を落とす。
まるで太陽光線に灼かれる者のように厳かなその気配に平伏す。
幼さの残ったままの世界の覇者。ひとところに留まることのない自由の羽根と意志と……どんな柵さえも抱え込みそれでも弛むことなく前を見据えることのできる鮮やか過ぎる魂で………………。
閉じられた瞼に気づき、子供は囁きかけた言葉を飲み込み…仕方なさそうに違う音を紡ぐ。
「俺は久し振りに歌を聴きにきた。………なにか歌ってみろ」
やわらかいその旋律。耳を突き刺すことなく包み込んでくれるやわらかな……………
それでも蟠る喉を溶かしはしない。
………囁けない。歌えない。――――――――歌いたいのに…………………
厭うように顔を顰め、少年は閉じたままの瞼を子供とは違うどこかへと晒した。……逃げた少年の気配を感じ、子供は明らかな溜め息を落とす。
それを受け……少年の唇が微かな……どこか掠れた物悲しい音を紡いだ。
「針の塔は消えました。………僕がここにいる理由も、ないんですよ…………?」
歌うことはもう出来ない。
切ない渇仰を秘め、少年は流さない涙を日に溶かし…落とした声に水泡を隠す。
晒すことなど出来ない、消えゆく自分の浅ましいまでの執着。
歌うこと奏でること。………何故にこの魂はこれほどまでに根深くそれを求めるのか。
半身にのみ許されたその自由を―――――――――
もうこの世界には正しき価値は存在しない。否、もとより存在などしていなかったのかもしれないけれど……………
破壊されたそれはいまだ構築しきれずに蠢いている。
そうすることもできない自分を残したまま………………
不意に浮かんだ言葉が…ひどく重く少年の身に枷をはめる。
…………ひどく傲慢で……けれど同じほどに甘美な誘惑の言葉が。
「爆くん………『神は死んだ』という言葉は御存じですか………?」
囁く声音の内、潜む渇仰に気づくだろうか。……気づいたとしてもそれを自分に悟らせてくれるほど子供は甘くはないけれど。
少年の唐突なその言葉に子供は眉を顰める。
どこか今日の少年は危うい。………まるで滅亡を待っている神殿のように崩壊を願ってその身を供物のように差し出している。
それを打破してやりたいなど、教える気はないけれど。それでも答えることくらいはできるから…子供はゆっくりと息を吸い込むと音を紡ぐ。
脳の奥底埋没しかけた記憶にあるその言葉を思い出し、噛み含めるように正しい答えを導き出す。
「………ニーチェの言葉だろう。いままでの価値体系の喪失を示す言葉だ」
どこか物悲しい言葉だと……不貞腐れて読み聞かせてくれた人に噛み付いたことを思い出し、小さな苦笑を零しながら子供は呟く。
静かな笑みが少年から零れた。遥か遠くを見つめていた瞼の底の瞳が、昇りゆく太陽を求めるように開かれる。
どこまでも深く底知れない藍色を顰めた漆黒は曙の洗礼を受けて淡く色づきその深さを際立たせた。
瞬く瞳の先、光がこぼれるように頬を伝う。
………流すことを忘れた涙。なんとはなしに、少年の願う先を垣間見た気がして子供は顔を顰めて眇めた瞳を地に落とす。
その反応を知ってなお、少年の声は紡がれる。
やわらかく…それでも逸らすことなくその魂を絡めとる神秘の色を溶かしながら…………
「価値基準を失った現実世界に…どうしたなら立ち向かえるというんですか………?」
間違ったその価値基準にこそ、自分は生まれることを許された。
………それは崩壊し、新たなるなにかが生まれていくのだろう。
その先に自分がいるなど…断言出来る筈がない。
いままでのナイナイのGCたちはどれほど幸福だったのだろうか…………?
呪いという名の甘美な毒に包まれてその生を全う出来た。疑うこともなく、ただ畏怖して平伏すだけで。
消える恐怖もなく………立ち向かう勇気すらたずさえる必要はなかった。
遠くを見つめた視線の先、太陽は顔を出す。あと少ししたなら完全にその姿は視界に収まり……自分は消えるだろう。
そうしたならまた……月夜を眺めることができるのだろうか……………?
わからない。………それでもそう…信じたい。
祈るように閉じかけた瞳の落ちる瞬間、視界の端に小さな指先が踊る。
………背中に溶ける微かなぬくもり。
背後から抱き締められていることに一瞬……気づくことが出来なかった。
微かな震えを帯びた指先は眇めた視界の先、確かに存在して………消えゆくはずの自分をつなぎ止める。
小さなその幼い声音は震えさえ帯びない。
帯びることを己に禁じ、弛まぬことを己に課した子供の歌声。
「…………また見つければいい。誰ももう強制などしない。お前が信じたいものを、信じればいいんだろ?」
歴代のGCたちはこの声を知らない。
針の塔に盲目を誓い、不確かな己の存在を知らないのと同じように。
それはどれほど幸福で……哀れだったのだろう。
この音に耳を澄まし、ゆっくりと身の内に沈めたなら沸き起こる旋律。
……………絶えたと疑うことのなかった己の音楽が…静かに流れ始める。
朝日が生まれる。………声が生まれる。
歌が……変わることなく紡がれる美しき旋律が生まれる。
たった一人の子供に捧げる為に、長き眠りにおちいっていた歌は目を覚ました。
朝日が生まれても……まだ自分は生きられる。
………また闇夜を覗くことはできる。空に輝く太陽を……きっと見つめることができる。
黒い髪が色を失い、黄金へと変わっていってもそのぬくもりは消えはしないから。
静かな笑みを落とし少年はゆっくりと息を吸うように眠る。
愛しい歌と……たったひとつのぬくもりを携えて……………………………
壊れてしまった世界。……崩れた価値。
それでもあなたは存在しているから。
あなたが導いた未来なら…それが崩壊の兆しでも認められた。
その先に必ず荘厳なる景色が存在していることを信じられるから。
だから歌わせて。
………………あなたのためだけに。
『神は死んだ』 ―――――だからあなたが神になって。
たったひとつ揺るがず信じられる、あなたが僕の…………………………