本当に微かに鼻先を掠める香り。
それはまるで蜘蛛の糸のように目に見えないくせに……この身を絡めとる。
………細くしなやかなその煙りは甘くこの身を包んで溶かし込む。
目を細めてその先に広がるなにかを見つめようとして……不意に晴れる甘い罠。

不機嫌そうに顔を顰めて、それでもちゃんと見つめていてくれる瞳。
呆れたように紡がれる幼い声。

甘く甘い……………それは溶けない罠。

―――――――この身を捕らえた魂の紡ぐ見えない糸は切れることはない。

 

……ああ……………

いっそのこの身さえ焚きこめてくれればいいのに。
そうしたなら君を包む香りになって、永遠に自分の色に染めていられるのに………………





エンチャンテッド イブニング



  こじんまりとした家屋を眺め、青年は進めていた歩を不意に止めた。
 どこまでも晴れ渡った空を映した木の枝の先の景色。………それをステンドグラスのように彩る透明の糸を見つけて小さく笑う。
 存外手入れを行き届かせる子供にしては珍しい。
 玄関先に蜘蛛が巣を張る。それは実際にはたいした時間はかからない。けれど妙なところで几帳面さを出す子供の家でそんなものを見たことはなかった。
 この調子ではあるいは家に彼はいないかも知れない。脳裏を掠めた可能性を打ち消す情報もなく、無駄足かと小さく苦笑を零しながら再び青年は玄関に足を向ける。
 ほんの数歩で届くチャイム。…………震えることもなく指先は軽くそれを押した。
 微かな呼び鈴の音が谺して、ほんの僅かな気配しか零すことなく室内にいる人が近付くことが判る。
 ………無意識ながら気配を消すことを覚えたらしい子供にどこか寂しそうに笑って青年は開かれるドアを見つめた。
 誰かと尋ねる言葉もないのは当たり前。互いに気配を読むことくらいはできるから。
 まるで睦言でも囁くような仕草にドアを開けながら子供は眉を顰めて予想通りに青年の顔を迎えた。
 「…………突然なんだ、激」
 「ちょっと近くにきたんでな」
 たいして驚いた気配もなく子供はいうとドアから手を離して中に入るように視線で促す。青年の答えを予想していたらしい子供ははぐらかすような言葉を噛み付くことなく受け入れた。
 それを受けて笑みを深めながら青年は遠慮なく室内に入っていまだ小さなままの背に目を向けた。
 ………ここに来る理由。あるようでないそれを考えながら………………………
 たいして長くはない廊下の突き当たり、子供の私室に青年は招かれる。待っているように示され、青年はどこか不器用に笑みを落として一瞬躊躇っていた。
 それでも子供の視線がいらだちを込めると小さく息を落として開けられたままのドアに一応の断りをいれてから入り込む。
 ………その背を確認し、子供はそのまま逆側に曲がると仕方なさそうに客用のカップ類を探し始めた………………

 微かな足音とともにドアが閉じられた。……目を向ければ子供が盆を持ったまま入り口の近くに立っている。
  小さなテーブルにそれを置き、コポコポとやわらかな音をたてながらカップになにかが注がれている。
 微かな香りは残念ながら別の香りに満ちたこの室内で嗅ぎ分けることが出来ない。
 その小さな背を眺めながら、子供が読んでいたのだろう本を置かれた小さな机に掌を置いた。………一瞬だけ重力に揺れた平面に従うように、微かな灰が落ちる。
 視界の端にそれを確認した青年は意外そうな響きを溶かした音を紡いだ。
  「……これ、お前が選んだのか?」
 愛らしい絵柄ののせられた、幼子の掌ほどもない小さな陶器の皿。踊るように泳ぐ赤い金魚が印象的な白いそれに少しだけ質の違う白が降り注ぐように落ちる。
 ……………濃厚に微かに。不思議を醸す音色のような香りを含ませながら…………………
 その皿の縁、微かな吐息を吹き掛けただけでも崩れてしまいそうな細い肢体。先を彩る微かな赤はゆっくりとそれを舐めて灰に変換させていく。
 花が咲き枯れる瞬間を濃縮したようなその仕草に苦笑を含む笑みを溶かし、青年は飲み込んだ息の奥に交じるその香を味わう。
 微かな気配を背後で感じながら、子供はポットを傾けたまま小さく息を吸う。
 肺の中に彩られた酸素が入り込み、肉体を弛緩させるような安らぎを思い出させる。自分の柄ではないことは知っているけれど……存外その感覚を好んでつい使っていた。
 微かな驚きをこめた青年の声に一体なにを指し示しているのかを的確に読み取ったらしく、振り返ることもなく言葉を継いだ。
 ……手の中のポットから落ちる琥珀の液体に自分の瞳を映しながら……………………………
 「いや…元はピンクがよこした奴だ。アリババたちと旅行にいった土産らしい」
 ゴイの辺境にあったといっていたからあるいはアリババ自身の家にでも元GCの少女たちで押し掛けたのか………あまり時間のなかった自分は詳しいことはまだ聞いていなかったことを不意に思い出す。
 初めは苦手なものを寄越されたと困ったのだ。正直………嗅覚が妙に鋭いのか人工的なにおいは大抵苦手だった。
 それでも好意で渡されたものを無下にも出来ず、使わないまましまい込むことも出来なくて…………試すだけは試そうと灯した火。
 ……………揺らめく煙りが……糸のように室内で紡がれる。
 肌を滑るような濃密な空気。鼻をつくと思っていたそれはけれど静かに肺に染み渡り溶け込んでいく。
 意外過ぎて声もでない。嫌だろうと思っていたそれは随分としっくり自分に馴染んだから。
 そんな印象に一瞬浮かんだ面影に苦笑を零したのはそう遠くない過去のことだけれど………………
 手にいれた経緯を思い出せば自然ついて廻るその記憶に微かに顔が赤くなった気がする。ましてその張本人がこの背の後ろ確かに存在しているのだから………… その感覚を溶かし込むように子供はいれたばかりの紅茶を飲み込んだ。
  喉を通り過ぎた液体は思ったより熱くて、一瞬眉を潜める。微かに強張った肩に気づいたのか、青年が近寄る気配がした。
 ………なんとなく悔しい気がして、子供は振り返らないままもう一口紅茶を含み、喉の奥で蟠っていた痛みを嚥下する。
 その幼い頬しか晒さない子供の意固地さに苦笑し、青年は子供の肩ごしに自分の分のカップを手に取り口に含む。舌の上で転がした液体は香る湯気以上に熱い気がする。……きっと軽い火傷くらいはしたのだろうけれど、子供は憮然としたままそれを認めようとしない。
 ………………小さく笑ったその気配に子供は気づき、睨むように青年を見上げる。
  人を喰ったような捕らえ所のなさは相変わらずで………睨み付けた視線さえも飄々と躱され包み込まれてしまう。
 刻まれた眉間の皺の深さをからかうように指先で触れれば…厭うように子供の顔が振られ指先を解かれる。
 ――――――――予想通りの子供の反応に含み笑いが落ちる。
 なにも知らない子供。それでも未知を秘め、闇の中さえ切り裂く灼熱の光を携えて歩む背を知っている。
 いつだって…先に進む背を押したのは自分だったから……………。
 そう………支えるのでは押すのだ。いってこいとその背を見送ることしか自分には出来ない。
 細い糸を囁いて………その身を絡め捕らえて貪ることは願えない。
 …………………否。願っている。
 身を切るほどに望んでも、唇からこぼれる音は偽善と欺瞞と…そして狂おしいほどの虚勢の自制心だけで。
 凝り固まったそれを溶かす術など誰も持っていない。
 自分はもとより……この子供さえ携えてはいけない。

 ……………それでもいまこの身を占める思いはなんなのか。

 身に焚きつめられた香の薫り。
 脳を溶かすように甘く濃厚で……肌を滑り落ちるほどに軽くやわらかい。
 苦しげに歪んだ眉はまるで鏡にでもなったかのようにお互い同じで。
 顔を顰めて指を伸ばすのはいつだって子供から。
 …………癒すことを知らせるのは……いつだって………………………………
 頬を指先が滑る。香の煙りのように微かな感触に怯えるように瞼を落とし深く息を吸い込めば胃の奥にまで広がる甘い薫り。
 身を痺れさせるようにそれは深く心さえも侵しゆく。
 懺悔をする咎人のように閉じられた瞼の先、手探りで引き寄せた幼い肢体に口吻ければ頬を包んでいた指先が微かに震えた。
 それを溶けた熱の先に気づいて、青年はぎこちなく唇を笑みで象り小さく囁く。
 「…………香の名前くらい…知って焚けよ………?」
 鼻先を掠める身を痺れさせるような薫り。
 四肢を甘く蝕む官能的なそれ。
 ………細い煙りは緩やかに室内を満たす。
 捕らえた獲物は……一体どちらか。
 ――――――あるいはどちらをもか……………………
 頬を滑る震えた声音に、子供の瞼が落とされたことさえ知りはしないけれど。

 触れることを乞う蜘蛛は、己の糸に捕われた蝶を逃がすようにその手をほどく。

 

 しっかりと捕らえられた指先が…それを許しはしなかったけれど………………………………

 








というわけで久し振りに激爆ですv
相変わらずどこか明るさのない話だな………。一応ね、初めの予定ではちょっとノリの軽い普通な激(?)だったんですよ!
どこでどうかわったんでしょうか…………

エンチャンテッド イブニングは実は香の名前です。
私はまだ手に入れていませんが。なんでも「古典的なエロティックな香り。魔法にかかった夜という意味」ということです。
いや単にね………頂いたんです、香を。そして私は作中の爆と同じ反応だったんですね……。香水もコロンもついでにいうなら化粧のにおいさえ苦手です(UU;)
でもやはり頂き物!しかもこれまた受け皿が私好みなんですよ………! そのままになんぞ出来る筈もなく焚いてみたらびっくり。
アロマ関係の売り場に一分いると具合悪くなりますが、こうして家で楽しむ分には綺麗なんですね。知らなかった……………
でその感動をと思いいきつけのアジアン系雑貨店で探したのです。カイに似合いそうなやつを。
そして適当に名前でよさそうと思ったものを選んで説明読んで………カイ使うことできませんと一瞬で悟りました。
当然ながらそうしたら出てくるのは師匠です。私の書く人の中で普通に手出ししているのは激だけ〜v
……………一番消極的なのも激だけどね(何故だ)

そんなわけで唐突に送りつけてしまいます。 香をくださったちこちゃんへ♪