真っ暗な夜の闇
いつだって飲み込まれそうで、怯えていた
部族の誰もがそれに飲まれ
自分の元には誰も残らない

寂しいよ寂しいよ寂しいよ

誰か一緒にいてよ
この暗闇の中、溶けることのない誰か
月明かりを見上げて
たたずんでくれる誰か

寂しいよ寂しいよ

どこかで同じ旋律を奏でる誰かを
見えもしない目を瞬かせながら探した

真っ暗な、夜の闇





月影に寄り添って



 「どうかしたか?」
 首を傾げて問いかければ、相手はより一層無表情に磨きをかけた。目の奥にあった僅かな動揺さえ消えてしまって、まるで夜空そのままだ。
 綺麗に澄み渡った黒は瞬きもしないで逸らされ、そのまま背中が向けられた。
 「? デッド?」
 どうしたのだろうと名を問うように呼んだ。学のない自分はたまに感情のままの言葉を差し出して、彼を怒らせる。それを自覚しているし、だからこそ、そうしたときの怒りは甘受するようにもしている。
 けれど今は解らない。何も解らない。
 顔を見にきただけだった。特に用事もなかった。だからもし彼が忙しいなら、すぐにだって帰るつもりだった。それくらい、彼だって解っているはずだ。
 それなのに彼は何もいわない。ただ自分を見つめて、揺れたその目を掻き消して、背を向けた。
 疼くように痛んだのは、胸か胃か、あるいは自分たちを象徴するこの背の羽根か。解りもしないけれど、ただ肉を抉るような痛みだけを感じた。
 「デッド?」
 震える声で彼の名を舌に乗せる。聞こえなかったのではないか、なんて……淡すぎる期待だ。
 再度名を紡ぐ自分の声に返事はない。向けられた背中は真っ暗な夜のように静かだ。
 なんでと問えば答えてくれるだろうか。ただそこにあるだけの背中は、拒否の言葉を紡ぐときよりもよほど鋭利で侵しがたい。自分に気付いてと囁いても、宵のさざ波に飲まれるように泡沫に没してしまうだろう。
 それくらい、今の自分は存在を無にされている。いるはずなのに、いないように。
 …………………その悲しさを誰よりも知っているはずの彼が、自分の突き付けるのだ。
 「なあデッド………」
 畏縮するように背の羽根を窄ませて辿々しい足取りで地面を歩く。一歩近付く毎に心臓が壊れるほどに音を高めた。
 もう一歩、もう一歩。あと、ほんの少しで腕を伸ばせば触れられる距離になる。そのぎりぎりの境を本能的に感じ取って、のばそうとした指先。
 同時に、動かなくなった、足先。
 目を瞬かせて自分の足を見つめる。何も束縛するものはない。自由な、自分の足だ。自分を縛る全ては消えた。生きることを許され自由に選ぶことを許された。
 だからこそこうして歩み、求める場所に進んできたのに、今更なにが自分を縛るというのだろうか。
 目を瞬かせて、腕を伸ばす。あとほんの数cmの距離が、ひどく遠い。
 「デッド、何か……足が変なんだけど?」
 まさかと思いつつ問うように声をかければ、微かに揺れた髪先。不可解そうな顔で振り返った彼は、疑問を示す視線で自分を見つめる。
 その様に首を傾げる。彼が何らかの方法で呪縛を与えたわけではないのなら、一体何故自分の足が動かないのか。まるで地面に埋め込まれたように足は重く、意識を向けても震えるばかりで動こうとはしない。
 不思議そうに目を瞬かせて自身の足と彼を交互に見遣っていると、何か勘付いたのか、相手の瞳がすっと眇められた。
 また、それに首を傾げる。
 ………その視線はよく向けられるものだ。だからというべきか、その眼差しに含まれる感情も大体解る。感じ取ったそれには純粋な疑問だけが浮かぶ。
 どうして彼は、こんなにも不機嫌そうな顔をして…………泣き出しそうな意志を、隠すのだろうか。
 泣きたければ泣けばいいのに。それだけで心は軽くなるはずだ。瞬く瞳には純乎な疑問。それに晒された相手が、表情を変えないまま唇を蠢かした。
 「あなたが帰るべきだからですよ………」
 不意に口を開いた彼がそんなことを告げた。…………淡々とした声。それは、過去に対峙した時にだけ与えられた、鋭利な音。
 目を瞬かせて彼を見つめる。自分の状態と彼の言葉がどう繋がるのか、まるで解らなかった。
 微かな溜め息の音。普段であればそれはもっとはっきりと示されて、迷惑なら迷惑だと彼は事も無げに告げるのに、どこか今日は遠い。
 「あなたは自由になったのでしょう………?」
 逸らされない漆黒の瞳。夜の中でだけ見つめてきた、夜と同じ色の人。小さく唄うように唇が揺れる。豊かな声量は静かに鼓膜を震わせた。
 無意識に、頷いていた。彼の問いの意味など、半分も解ってはいなかったけれど。それでもどこかでわかっていた。彼が何を示してその言葉を紡いでいるのか。
 「なら……」
 揺れる、彼の服。風が自分達を包む。寂しい風だ。………悲しい風だ。対面にたたずむ人の感情を抱きしめて、凍えるように揺らめく透明の風。
 遣る瀬無くて泣きたくなった。みっともなく眉を垂らして見つめた先の人は、いつもと変わらない無表情のまま、そっとその風に音を乗せた。
 「取らざるを得なかったものではなく、選ぶべきです………」
 まるで、それは、別れの言葉だ。
 …………………どちらかが消えるその時に聞くのだろうと予感していた言葉は、世界が救われたことで有耶無耶になり、奪われない未来に先を歩む勇気を持てるようになったのに。
 必死に、首を振った。言葉など解らない。言葉を尽くしても伝わらない。何を言いたいのかなんて、解るわけがない。
 ただ彼が自分を遠ざけようとしている、それだけが、解ることだ。
 聞き分けのない子供のような仕草に彼は一瞬だけ目を眇め、小さく息を吐き出す。それを網膜に映しながらも、自分にはまるで違う姿に見えた。
 どうしてそんなにも、変わらないのだろう。
 自分は自由を得て、姿こそ変わらないまでも在り方が変わった。こうして日の射す時間に彼のもとに訪れる自由さえある。自分の意志で全てを決められるのは恐ろしいことだけれど、同じほどに嬉しいことだ。
 それなのに、彼は変わらず陰を背負って夜の香りを纏ったまま、この太陽の下にたたずんでいる。
 どうしてと、問う声が出ない。それでも必死に見つめた視線はその疑問を彼に突き付けた。揺れたのは、彼の瞳。声をかけたあのときと同じ、幽かな動揺のさざ波。
 息をすることさえ惜しんで彼を見つめていれば、仕方がなさそうにそっと吐息が漏れる。そしてそれに乗るように紡がれた音は、ひどく綺麗な旋律だった。
 ……………壊れる一瞬前の、硝子の煌めきにすら似た、旋律。
 「僕は………変わらず影のままです…………」
 消えなかったというそれだけで、別個の肉体を持っているわけではない。束縛も不自由も変わらずある。それは、自分という意志が本来ならば存在しないにも関わらずこの世にあり続けるが故の不具合。
 存在するだけでも満足するべきなのだろう。いつ消えるか解らない恐怖など、生まれ落ちた瞬間から持ち続けているのだから。
 だからこそ、手放すことには慣れていた。多分きっと、それはお互いに共通していた意識。
 告げた言葉の孕む意味を知った相手が、泣きそうな顔でこちらを見遣る。いつもは月明かりで淡く見える羽根の色が、日差しを浴びて微かに輝きを増しているように思えた。
 早く、その一歩を後ずさり消えればいい。そう思い見つめていれば、戦慄く唇を辿々しく開きながら、鳥は覚束無い鳴き声を奏でた。
 「太陽が、きれいだったんだ」
 「……………?」
 告げた言葉は自身でも解らない。歪めた顔は何かに追いすがる子供のようだ。
 教えたいことは沢山あるのに、何をいえばいいのか解らない。ただ、悲しい。泣きそうな彼がそれを教えてくれないことも、それをすくいとれない自分も、穏やかになった優しい世界も、何もかもが。
 彼がいない、そんな世界を突き付けるなら、悲しいだけだ。
 「一緒に見るのはお前がいいって………来たんだ」
 選ぶのが自分の自由なら、ここにいることこそがその答えだ。
 相手の意志の先の複雑さに差し出すべき解答が解らない鳥は、ただ思うがままの歌でもってそれを彩る。
 「…………バカですね…」
 その言葉の意味を知りもしないくせに、真摯に告げる幼子のような相手に、淡い笑みを浮かべてそっと囁く。

 どちらが愚かなのかなど、解りはしないけれど。
 きっと、どちらもがなのだろうと、遠い意識で思いながら。

 

 ほんの数cmの壁を溶かすように、一歩、進んだ。








 久しぶりのハヤデですよ。というか、基本的に年に一回な気がしなくもない。
 とりあえず、デッドのその後の位置がどうなったかがとても有耶無耶で気になる。姿だけなのか、意志もなのか。どっちにしろ、一つの身体に二つの意志が存在するのは不和を生じるのだろうな。
 出来ることなら幸せに。寂しかった時間の分、安らぎがあればいいと思うよ。

 そんなわけでハッピーバースデー。毎年のことながら小説を送らせていただきますよ。

07.8.5