ほっそりとした弧が空に浮かぶ
濃紺の空に、鮮やかな金の刺繍
金平糖よりも甘く、小さな彩りを添える
月があって星があって
太陽があってこの世界がある
何が欠けても成り立たない
それはきっと、この世界の紡ぐ
一番初めの、奇跡
月の笑み
退屈そうに揺れていた足が、不意に伸びた。
それを目で追ってみれば、その足の持ち主は伸びをして大きな欠伸を晒している。相変わらず開けっぴろげで幼いと、小さく子供は笑った。
「なあ〜爆ー…暇じゃねぇか?」
「初めからいっただろう」
構って欲しいと子犬のように声に滲ませていう青年に、子供はあっさりと言葉を返す。
彼が尋ねて来た時点で既に言っていた事だと、今更の言葉に躊躇いもなく子供は返す。素っ気ないととられるほど、淡白に。
「いってたけどよ〜……ちぇー」
拗ねたような顔で見下ろす青年が、取りつく島もない子供の言葉につまらなそうに唇を尖らせる。
それと同時にばさりと羽が揺れ、室内で邪魔にならない程度の動きで、青年の体躯が移動する。くるりと反転した身体は子供の頭上に移動し、器用に逆さになった体勢のままその手元を覗き込んでいた。
重力を無視した動きだと、また子供の唇に笑みが浮かぶ。
それに気づいたのか、少しだけ弾んだ声が青年から発せられた。相手をしてもらえると思ったのか、見上げた視線の先では無邪気な笑みが広がっていた。
「貴様は相変わらず落ち着きがないな」
「お前は落ち着き過ぎだろ。いつまで本読んでんだよ」
しかも難しい本だと、漢字が加わっているだけでそういう彼の価値基準は時折苦笑を誘う。
彼の国は、本当に知るべき哲学や知識を生活の中で体感的に学んでしまう。そのせいか、彼の国にはあまり本などがない。
口伝で語り継がれゆく知識の尊さを思えば、それがないが故に書物を通して搾取しているのは、若干滑稽かもしれない。
もっとも、そんな穿ったものの見方など出来ない彼は、純粋に自分には解らない難しいものをすらすらと読んで凄いという賞賛を目に浮かべている。
同時に、自分には解らないからそろそろ終わりにして構ってくれないか、なんて言う子供じみた意識も滲んでしまうのが微笑ましかった。
くすりとそれに笑みを落とし、ほんの少しの意地悪を溶かしてページを手繰った。
「………そんなだからデッドに、コンサートに邪魔だから来るなと言われるんだろう」
ツェルブワールドを巡る大規模なそのコンサートに、けれど彼は付き添いを断られてしまっている。
彼は感性は豊かでもアーティストとしての天賦があるわけでもない。大きな羽は雑多な器材に溢れる会場では邪魔にもなるだろう。その上、主役であるデッドは彼の相手など普段に輪を掛けて出来ないであろうし、しないだろう。
解っていた結果だとはいえ、恐らくそんなことを考えもせずに後を追ってこのファスタまで来たのだろう彼を考えると、若干の同情は湧いた。
とはいえ、事実が変わるわけでもない。それ故の子供の的確な指摘に、青年は返す言葉もなく唇を戦慄かせて子供を見遣る。
彼としては睨んでいるつもりかもしれないが、如何せん感情表現の豊かな彼の性情が、泣き出すのを必死に堪えている子供の表情に変えてしまった。
………解りやすいヤツだと思う。心の底から、本当に。
自分の家に突然やって来たのも、恐らくはデッドに追い返されて途方に暮れたせいだろう。彼が来た頃は既に夕日が沈みかけていた。
鳥目の彼は、夜の自由が利かない。慣れた自国ならばまだしも、こんな辺境では大怪我をする可能性の方が高い。
まだ視界が効く時刻だというのに、ふらつき覚束無い飛び方でやって来た事を思い出し、よく無傷で辿り着けたものだと感心してしまうほどだった。
そんなことを思い出していれば、青年はいじけた子供のように身体を丸め、広げていた羽も最小限に畳まれてしまう。それに伴うようにして宙に浮いていたその身体は緩やかに下降し、子供の座るソファーに舞い降りて来た。
そうして、そんな態度から滲み出る思いと同じ音が、小さく子供の耳に落とされる。
「でもよぉ……聞きたかったんだ」
「デッドの曲か。俺も最近聞いていないな」
ぽつりと呟く言葉に返すように、今度尋ねるかと気軽な調子で言えば、パッと彼は顔色を明るく変えた。
想い人の元に他人が寄り添う事を厭わないのは、彼が健全な魂を持っているからか、彼自身も自分に懐いているが故か、いまいち判断が難しい。
ちらりと視線を送れば、満面の笑みで迎えられる。それにどうしても苦笑してしまい、少しは相手をしてやるかと、手にしていた本に栞を挟んで閉じた。
「あれ、今の……」
同時に、彼が不思議そうな声をあげる。視線は自分ではなく、閉ざされた本に向けられていた。
彼が気に留めるものがあったかと首を傾げ、もう一度本を手に取り、栞をはさんだページを開いた。
それを覗き込むように青年の影が落ちる。丸まっていれば自分より若干小さい彼だが、その体躯を伸ばせばそれなりに長身だ。あっさりと腕の中の本は彼の視界に映された事だろう。
「これは近年の天体の推移の本だが……まさか興味があるのか?」
「興味っつーか、これ、この月が笑っているやつ、前にデッドと見たんだ」
楽しげに弾んだ声で言う青年が指差したのは、金星と木星が三日月の上空に並び、それによって笑顔のように夜空を彩る写真だった。
若干縦に間延びした間の抜けた笑顔だが、どちらも明るい星で、おそらく郊外からなら肉眼であってもよく見えた事だろう。それが彼らが見たと言うならば、あの静寂の国の孤独な夜空だ。
さぞかし鮮やかに映えた事だろうと想像すれば、自然と笑みが零れてしまう。
それが解ったわけでもないのだろうけれど、青年は嬉しそうに笑い、その写真を眺めていた。その笑みと写真の夜空に浮かぶ笑顔が重なり、吹き出しそうになる。
「この月がお前なんだってさ」
「…………月?」
「で、こっちが俺ら」
えっへんと、きちんと覚えていた事を威張るように青年が胸を反らした。その額を軽く叩き、足りない説明の補足を求めるように睨む。
そんな子供の行動の意味は伝わらず、首を傾げた青年は叩かれた額を抑えながら唇を尖らせた。
「なんだよ、仕方ねぇだろ。デッドにカイの事言うと怖ぇから、あいつがいないって言えなかったんだよ」
「違うっ!………誰が下僕がいない事に不満を漏らすか」
青年の純粋な物言いに、逆に子供が声を荒げてしまう。………お互いに解っている事とはいえ、それを他人に指摘されるのはどうしても慣れる事が出来なかった。
そうした機微もよく解らないのだろう、青年は首を傾げて不思議そうに見遣るばかりだ。
「だから、何故俺が月になるんだ」
彼らが自身を並んだ星に喩えるならばまだ解る。けれどそこに自分が突然加えられる事はよく解らない。
それこそが求めた説明だと、若干の幼さを滲ませた目元で睨めば、合点がいったのか青年が頷いた。
「ああ、それか。だって、星が月を眺めてんだろ?」
にこにこと断定の口調で言い切られ、子供は青年が指差す写真をもう一度見た。
………そう見ようと思えば見えなくもない………のかも知れない。とてもあやふやな気持ちでそれを片付け、続きを求めるように青年を見る。
「で、月があると、空に消えそうな星が、笑顔になるだろ?だから、お前なんだってさ」
自分たちに笑い合える未来をくれた、たった一人の子供だから。
寄り添いながらも質の違う輝きで夜空を照らす。加わるだけで希望を添える。そんなあの月は子供に相応しいと、嬉しそうに眺めていた人を思い、青年も同じ喜色に染まってそれを告げる。
「それなら、それはカイたちにでもくれてやれ」
あまりに無邪気に告げる青年の言葉に、子供は微苦笑を零して返した。それは決して不愉快を表してはおらず、さりとて納得してもいないようで青年は目を瞬かせる。
おかしな事はいっていない。感じた事を感じたままに告げただけだ。それを否定や拒否で返す相手ではないと、そんなことだけは青年は肌で知っている。
難しい言葉も知識も知らなくとも、人と関わり生きていくために必要な根源的な才を、彼はきちんと携えている。
それを愛でるように目を細め、子供は本を閉じた。
「星がお前たちで、それを支え希望を咲かせたのだというなら、月はGC全員だろう」
「………お前でも間違ってねぇじゃんか」
何が悪いんだと頬を膨らませる青年のその頬を遠慮なく摘み、横に引っ張りながら不敵に子供が笑う。
「イっテーーーっ!!!」
「馬鹿者。覇王をそこいらの若輩者と同じにするな」
涙目の青年の叫びの合間、間近でも聞き取りづらい不遜な声が響く。突然の暴力はやはり唐突に終わり、子供の言葉とともに頬への攻撃は途絶えた。………もっとも、指が離れた事さえよく解らないほどじんじんと痛んではいたけれど。
頬を抑えてその痛みを緩和しようとしている青年が恨みがましく子供を見遣れば、そこにはどこか穏やかに笑む人がいて。
目を瞬かせて子供に魅入られれば、その唇が小さく開かれた。響くのは、夜空の音色とどこか似た、涼やかなまろみある声音。
「お前たちが月や星ならば、俺は太陽くらいにならなくては割が合わん」
それはどこまでも不遜で居丈高な言葉。その癖、響くのは優しく慈しみ深いやわらかさ。
それに知らず青年の胸が痛む。…………今は子供の手により混乱を治められ、仮初めの平和に浸るこの世界。
誰よりも奮闘する子供の助けとなれるよう、子供の輝きに引き出されるようにして最後のGCたちはその能力を高めていった。
この子供がいたからこそ、だ。それは確かに命の源たる光源のようだ。
それを重荷とするような子供では、ないけれど。枷と思う人では、ないけれど。
自身に無茶を強いる人ではあるから、青年は無意識にその腕をとり、情けない声で子供に告げる。
「太陽より、この星になれよ」
突飛な言葉に子供は微かに眉を寄せて困惑を知らせる。
それを捕まえるように、また指先の力が強くなる。何を言えばいいのかなんて、解らない。月でも星でも太陽でも、なんだって本当はいいのだ。
ただ、与えるばかりではなく、搾取されるばかりではなく。子供を思いその力となる事を喜びとする仲間がいる事を、伝えたかった。
「星や月って、ツェルブワールドが好きで、だから一緒に回ってたり、一杯照らそうとしたり、頑張ってんだろ。なら、お前がこの星だよ」
遠くで一人背負わないで。…………それがどれほど寂しいか、青年は知っている。
だからこそ誰もがその荷を共に背負いたいと腕を伸ばすのだ。それに甘えても悪い事など、何一つない。
だから、一緒に同じ歩みをするものに。
与えるばかりではなく、分かち合えるように。
………それはあるいはやはり少し間違った喩えなのかも、知れないけれど。それでも願うように青年は腕を掴む指先の力を強めた。
微かな痛みを腕に覚え、それでも子供は笑い。
「バカ鳥のくせに、生意気だな」
小さく小さく、そう、応えて。
躊躇いながらも鮮やかに、笑む。
それはやはり守りたいと願うこの世界と同じだった。
命を育み支え守り慈しむ、この大気に包まれた惑星と
同質の、微笑み。
久しぶりにハヤテ書いた気が。気、ではなく、確実に久しぶり(笑)
おかげさまで子供っぷりが悪化しているような気がします。我が家のハヤテ、外見年齢爆より年上で、実年齢爆より年下だから(笑)
月と金星木製でスマイルマークになるのは実際にあります。でも滅多にない事らしいので、08年の暮れにあった事を考えると、暫くはなさそうですね。残念。
もう一つ三日月の下に金星が来て月が泣いているみたいな現象もある筈なのですが………如何せん検索方法が解らず、断念しました。持っている本漁れば資料ありそうだけどね………。
この小説は恵ちゃんに捧げますよ。遅くなってすまんかったけど、誕生日おめでとー!
09.8.22