心の所存をどう決めますか?

あなたはあなた。
私は私。

その方法が確かにある筈です。

例えば嬉しい時に。
例えが怒れる時に。
例えば悲しい時に。

確かに私たちはその方法を無意識に使い
己の平穏を保つのです。

…………考えて下さい。

相手のその方法を。
そして
自身のその方法を。

そうしたなら、少しはその心は安からになるでしょう。





償いを思うことなく、未来を



 ぼんやりと、雲を見ていた。ポッカリと浮かぶのではなく、のっぺりと張り付くように淡く薄く空に広がる雲を。
 野原に寝転がった行儀の悪い格好のまま、ただぼんやりと見上げた空は清々しかった。
 こうしていると大抵は生真面目な弟子が駆け寄ってきては何かと小言を言われるのが当たり前だったが、今はそれもない。
 彼はもう自分の下での修行を終わらせ、世界を見てこいと放り出してから、それなりの時間が経った。
 だから、もう……慣れてもいいはずだ。
 自分を慕うものの声がないことに。あるいは、自分が子供を確かに育て、見送ることが出来たということに。
 「………何か…慣れねぇんだよなぁ」
 身体に吹きかける微風のような幽かさで囁く声は、呟くと言うよりは取り零した心音。
 同時に、カサリと音が響き何かの気配が肌に伝わる。じんわりと広がるその気配が誰のものかは空に捧げた視線のままでも十分に気付けた。
 それでも堪え性がない子供のようにまるで盗み見るような仕草で、その姿を捉える。
 まだ幼い輪郭が視界に入り、確かに一瞬、目が合った。
 「……………」
 逸らされる前に視線を逸らし、空を見上げる。ぼんやりと、何事もなかったかのように。
 多分、それだけで気付かれてしまう。そう解っていても、軽口をたたく気が失せてしまったのだ。あんまりにも、彼の視線は変わりなくて。
 …………傷つくことを潔く受け止めてしまうその気性が、変わりなく存在し過ぎていて。
 与えてしまうだろう言葉を、どうしても飲み込みたくなってしまったのだ。それは少し、浅ましささえ含まれていたけれど。
 さわさわと風が過っていく、高い空へと還っていこうとする、清浄なる風。いっそそれと同じく還る方が、幸多いことと解っていながらも断固として戻りきた、命。
 見上げた空の薄っぺらな雲は滔々と流れ、青空をまだらへと染めていく。見上げながら、近く歩み寄った気配が軽く息を吐いた。
 「…………――――――――」
 それが何もかも見透かしているようで、顔を顰めそうになる。もっとも、顔を覆うものもなく、彼よりも下方にいる自分は、その表情全てが見られてしまうのだから、無表情を保つことしか出来ないけれど。
 暫し、静寂が流れた。そよぎかける風だけが音を持って自分たちに関わってくる唯一の中、互いに空を見上げる。
 一人は寝転がったまま。
 一人は歩み寄り立ち尽くしたまま。
 互いが纏う言葉とはならぬ意志の片鱗を拾いながら、空を見上げる。言いたいだろう言葉は同じなのだろうと、思いながら。
 空へと舞い上がる風を見つめたまま、幼い声が言葉を綴る。
 未だあどけなさが残る、子供の声。………世界を駆け巡る清風となった、一人の男の、声。
 「……また、何を考え始めた?」
 「どっちから情報がいったんだよ」
 はあと大袈裟な溜め息を吐き、起き上がった男は眉を顰めて問いかける。
 この子供に自分の情報がいくとしても、その出所は限られている。最近はまだ少女に会ってはいないのだから、そうとすれば、近況報告と修行の一環を兼ねて遠距離移動を行っている弟子の少年のどちらかだろう。
 そう問いかけてみれば小さく子供は笑い、どちらもだと答える。
 そんな姿を見ながらちくりと走るのは、痛み。
 ………仕草がまたどこか老成したと、感じる。
 こんな幼い容貌のまま、子供はあまりに駆けるようにして生きるから、その腕を引いてしまう。急ぎ過ぎる必要はないのだと、もっとゆっくりと周りを見ろと、説いてしまう。
 そうしたなら、いつも子供はどこか遠くを見つめる瞳で小さく笑う。それは子供でも大人でもない、彼独特の視線で。
 そして、いうのだ。………知っているからこそ駆けているのだ、と。
 その言葉はあまりに難解で、自分には理解しかねるものだった。先を見据えることが出来るその身で、それでも子供は愚かしいと解るほどの性急さで駆けていく。
 それがどれだけ己自身を縛り、駆ける足に重しを増やすことか、解っているはずなのに。
 ぼんやりと、空を見る振りをして子供を見上げる。………少しだけ伸びた髪が柔らかく風に舞い空に溶けていた。
 「お前の様子がおかしいと、心配していたぞ。弟子に不安がられてどうする」
 叱咤するような………嗜めるような、不思議な物言いのまま子供は言った。笑みを、その唇に引いたまま。
 「…………どうした?」
 見上げた視線には眉を顰め、不安……と言うよりは痛ましむような、大きな瞳。
 その深い色の先に映るのは己一人。無表情のほうけた顔には、一筋の軌跡。
 それがなんであるか気付き、慌てて顔を擦ろうとする指先は、細い子供の指先に捉えられた。
 「俺は、そんなに痛々しいか?」
 苦笑して、子供は足を折り視線を同じ高さと変える。柔らかそうな髪が揺れ、ふんわりと、輪郭を覆った。
 「違う………多分」
 答えて、顔を顰める。それでもやはり、子供の生き方は自分にとって痛いものであることに、変わりはないから。
 けれど彼を見て零れたこの涙は、多分、違うのだ。彼の痛ましさを哀れんだのではない。
 「違う、か。…………じゃあなにが痛い」
 やんわりと響いた風の声。いま囁いたのが子供か風か。その区別もつかないほど、静かな音。
 見つめた先には、子供。そして………空。
 周りには誰もおらず、他の音もしない。一切の、静寂。それが当たり前だったにもかかわらず、自分はなにを恐れているのだろうか。
 答えを見つけたようでいながら、霧散した言葉。
 まるでそれは認めたくないと言うような、我が儘。閉ざしたままの瞳では見えるはずもないと言うように、子供の指先が瞳を覆う。瞼は邪魔だろうと微かな音が、聞こえた。
 見開いた瞳に映るのは、子供の作った仄かにやわらかい、闇。
 「ここは随分、静かになったな」
 響くのは、風のように捕らえ所のない透明な音。
 「…………寂しく、なった」
 数人の弟子が出入りし、まだ幼いせいもあり五月蝿いほどだった場所が、その修行も終わり、静寂を取り戻した。
 それこそが当たり前の姿だった筈だが、もう慣れてしまったその短い一時が……ここをひどく寂しい景色に思わせる。
 手のひらに何かが触れる気配。………おそらくは、見開いたのだろう睫毛の動き。
 それを噛み締めるように目を閉ざし、ゆっくりと呟く。
 「お前が、育てた子供たちの証だろう」
 のびのびと己の性情を曲げぬままに育った、子供たち。だからこそ、巣立ったならこれほどまでに、寂しい。
 仕方のないことと解っていても去来するものは、仕方のない感情だ。
 やんわりと言う子供の言葉に戦慄きそうな唇を噛み締めて、耐える。そうしてゆっくりと閉ざした瞼の裏で思えば、鮮やかなほどの美しき記憶たち。
 「それでも…………」
 呟いたのは、おそらく、無意識。
 ………記憶の根底で今もなくなることのない悲しい棘が、ちくりとまた、胸を刺す。
 「過去は過去だ。変わることなどない。それでもお前は、未来を作ったのだろう」
 閉ざされたまま朽ち果てず、生きたいのだと叫ぶ手を取り、望むままに命の芽吹きを支えた。それを恥じる必要はなく、まして、断罪を望む意味などないのだ。
 「手段じゃない。……願いだ」
 償うための道具に甘んじたものなどいないのだと、厳かな声が呟く。閉ざされたままの幼い指先の闇は、優しい暖かさを思わせるほど、柔らかい。
 項垂れるように力なく俯いた面から、離れた方がいいかと退けるように指先を動かせば、包まれる。自分よりも幾分大きく年輪を重ねた指先に。
 一瞬息を飲み、苦笑する。
 怯えるように微かに震える指先は、縋るように己の顔を隠す幼い指を求めている。
 仕方ないと緩やかに息を落とし、子供は空を見上げた。
 …………鮮やかな青空には、まだらの白い雲。
 見つめながら、思う。
 どれほど鮮やかな夢に彩られた未来にも、必ず過去は混じるのだ。それでもそれは決して悪習ではなく、美しく映えるために過去は過去として受け止めなければならない。
 切り捨てるのではなく受け入れて、抱きしめたいと……自分は思うのだ。どれほど悲しく、どれほど辛い記憶でも。それがあったからこそ、いまの自分があるのだと誇れるように。
 そうあることを憂えてくれる人を知っているから、誇れる自分がいると、もしいま目の前で項垂れる男に言ったならどんな顔をするだろうか。
 小さな悪戯心をくすぐられながら、それでもいまはただ、寄り添っていよう。

 ……………せめて震えるその指先が解かれるその時までは。

 








 久しぶりの激爆です。どっちかというと激&爆。

 激は色々な人にとっての、ちょうど「分岐点」だったのだと思います。
 彼に出会って、そうして変わっていった人が多いから。
 まあ激自身にそんなつもりはなく、そうあろうとしているわけでなくても、不思議とそうした人が引き寄せられるタイプなのだろうと思います。稀にいますからね、そういう人。
 だからそういう人にとっての割り切れない過去も、償うために誰かの役に立ちたいと思うのではなく…大切な記憶の一つとして思い出せるものに換えられたらいいな、と思います。
 過ちは消えないし、落ち込んでばかりであったとしても。
 それでも、最後は笑えるように。

04.10.20