そいつはいつも笑っていた。

初めて出会った時からその笑みは崩れない。
浮かべる微笑はどこか達観していて………限り無く遠い場所にいるのだと囁かれているようだった。

……正直、苛つく。

そんな風に突き放して逃げて離れて……そのくせ寂しそうに笑うのだ。
まるで回りの者が離れていったかのように切なく……囁くのだ。
小さなその音が誰かの耳に触れることはないだろうけれど……それでも自分の琴線には容易く引っ掛かった。
些細な……それでも無視し難い引力でそれは存在を主張する。

気づけ…と。
…………自分を見ろと。

それでも近付いたならその笑みは遠ざかり、淡く翳る。
まるでそれは水面に映る燈のように…………………

 

植えられた種

 

 その背を見つけ、子供は小さく息を吐く。
 なにもかも……この世界を包み込んだ混乱と騒動は終った。……それは同時にこの背の主にかかった呪いも消えたことを意味する。
 止められた時と偽りの姿が壊れる。そしてまた……彼は生きるのだ。ただの人として。
 空に消えた針の塔を見つめながら零した彼の泣きそうな笑みが……胸に引っ掛かる。
 ………まるで呪いを乞うように切なそうに愛しそうに見上げたその視線。
 瞬間湧いた感情がいまだ子供の中で燻り続けている。
 何故にそんなものを望むのか。……あの姿となったことを恨んでいるわけではないと…彼自身が言っていた。
 まっすぐと向けられた、強い感情。自分達には飄々とした笑みしか見せたことのない彼は……同じ時を生きた親友の前では怒りを露に出来た。
 ………悔しかった。拙い自分の指先は、大きな青年の抱えるなにかを知ることは出来ない。触れることさえ、出来なかった。
 彼の…眼差しの意味さえ判らないのだから。
 ただこの身は気づいてしまう。青年の中にある虚を。
 眇められた優しい笑みの中にある、切ないなにかの存在を…………
 だから、探していた。あの日いつの間にか消えていたこの青年を。
 なんでもいいから声を掛け、彼の中の棘を消したかった。……自分の中にある棘を消したかった。
 ……棘と形容出来るのかさえ判らないなにかだったけれど…………………
 自分の中に不可解なものがあるまま、自分の成したいことを成すことは出来ない。それを子供は知っている。
 それこそが命取りとなることもあるだろうことも……………
 その危険性も、回りの諌める声も振り切って、自分は決めた。ただ一人小さく笑いその場から消えた青年以外は悔しそうに眉を潜めてもこの背を押してくれたのだ。
 ………ただ青年だけは、自分の決定から逃げた。
 まるでそうするであろうことを予測していたと囁くように憂いた瞳を眇めて……消えた。
 自分の視線から逃げるような彼ではないのに、この背をまっ先に押してくれると思っていたのに。
 なんてことはないように軽々と……それでも自信を分け与えるように力強く。彼はいつもこの背を押してくれたから。
 笑うことさえ難しいと囁くその瞳を消したかった。
 ………笑わなくたっていいのだ。無理をした笑みほど滑稽なものはない。
 それを知らしめてやりたかった。泣きたければ泣けばいい、怒りたければ怒ればいい。
 そんな当たり前のことさえ忘れたとその目は囁いていたけれど………
 だから探したのだ。自分の我が侭だったけれど。
 ………そして見つけた。
 隠れていたわけでもない青年はあっさりと見つかった。すらりとした青年の後ろ姿。………もう二度と変わることのない……けれど確実に変化していく肢体。
 本当は……彼が呪いのことなど気にも掛けていなかったことを知っている。
 そんなことにこだわる質ではない。それでも……彼はその呪いになにかを求めていた。
 それが……きっと自分は気になっているのだ。それこそがあの時…旅に出ると囁いた自分の言葉に彼が憂いた理由だろうから………
 ゆっくりと息を飲み、もうすでに自分の存在に気づいているだろう青年に子供は声を掛けた。
 ………掠れていない声に小さく安堵する。
 「………こんなところにいたのか、激」
 声に青年はかなりの時間を掛けて反応した。……緩慢な様子で声の聞こえた方向に顔を向ける様は、まるでその声から逃げたいようだった。
 それに微かな不満を示すように子供の眉が寄る。いつもだったら気づいていたと言うように軽い笑みを浮かべ、いたずらっ子のように楽しげに振り返るのに。
 それに気づいているのかいないのか、青年はいつもと変わらない笑みで応えた。
 「よお、爆。どうかしたか……?」
 声はいつもと変わらない。それでも子供には微かな違和感を感じさせる。
 ………言葉では言い表せない、それでもどこか…違うのだ。
 それは微妙なニュアンスの変化。微かな怯えが見隠れする。
 自分の声に反応した…それはきっと内に潜むなにかの片鱗。
 卓越した知識を誇る、仙人と言われ続けた青年。
 その彼が気づかない。……けれど確実に落としている。些細な、本当にちっぽけな欠片だけだけれど………
 けれど彼は自分に対して……一度として笑み以外の顔を見せはしなかった。
 楽しげに…切なそうに細められた青年の瞳。……青年の、笑み。
 ―――――――変わらない………均一な笑顔。
 そう、彼はまるでその笑みを変えない。変える必要さえないと囁くように。
 他の感情を…厭うべき激しさを内包する感情全てを自分には晒さない。
 …………瞬間湧いた怒りを、子供は押さえることが出来なかった…………
 険しい視線が青年を射抜く。声が自然鋭くなる。……責めたいのではなく……泣きたかった自分が判らない。
 「なにを考えている………?」
 声に震えは含まれなかった。ただ…固く握りしめられた腕の震えは消せなかった。
 ………逸らすことさえ許さない視線の前に……それでも青年の笑みは変わらない。惑うように震える子供の腕に対する微かな困惑だけが、取りこぼされた水滴のように落ちただけ。
 それを見つめ、険しかった子供の視線がゆるむ。体中に入っていた力が急速に抜けた。
 ……………なにも、この青年は気づいていないのだ。本人すら気づけない微妙な…隠したがっているなにかに、ただ子供は気づいてしまった。
 子供にわかった事実はそれだけだったけれど………それで十分だった。
 なにも青年自身はわかっていない。………自分の感情に取り残されている。そして先走ったその思いだけは青年の手綱から離れ、時折零れてしまうのだ。まるで子供に知ってほしいと囁くように緩やかに。……それでも確実な変化として示される。
 ポーカーフェイスの得意な青年の…それは本人すら知らない本当。…………隠すことも歪めることも出来ない………深層の言葉。
 ゆっくりと……子供は目を閉じる。自分の視線が人を追い詰めるほどの凶器になることを子供は知っている。
 普段なら……待っている。この瞳を閉じて、相手が近付けるまで待てる余裕を子供は持っているから。
 けれど、いまはそうしたくない。幼い我が侭が頭をもたげる。
 知りたい……のだ。
 もうすぐ自分は青年の前から消えるから。………長い間会うことが出来なくなるから。
 自分の中に灯っている種が、育ちゆくものなのか、否か。それとも……そんな種さえ存在しないのか………
 確かめたい。……それは世界を自分の手で探ることに似た強い感情。自分のたった一つの我が侭であり…願いに酷似した………………
 それがなにを指し示すか、まだ互いに気づかない振りをしているのだけれど………
 ……小さく笑い、子供はゆっくりと戸惑う瞳に声を掛ける。
 「馬鹿なことを言ったな。……お前自身それに自覚はないようだ」
 惑う青年にそれは胃の奥に染み込むほどに深い旋律だった。
 子供の言葉に青年は眉を潜める。けれどその口元は変わらず笑みを象り、頑なまでの遠さを伺わせる。
 なんだろうか………?それでも、その距離を無にできると信じて疑わない自分のこの思いは。
 人の感情ほど不確かであやふやなものは存在しないのに。それでも……打ち消すことが出来ないほどの揺るぎなさは…………!
 伏せられた子供の瞼が、ゆっくりと開かれる。
 それを見つめ……青年の思考回路が氷結する。………なにもない、まっさらな視線。
 至純の視線は青年の息を飲み込ませ、笑みを凍らせた。
 喉が干上がり……息苦しい。子供の視線の中に含まれることのない感情。まるで鏡のようにただ相手の姿を写す視線。
 戦慄く指先が空気を掴み……爪は皮膚に食らいつく。
 ……わかっている。このつまるほどの感情の原因が何故か。
 けれど認めない。自分は……その資格はなく、子供は自分の監視下から遠く離れた場所に消えるから。
 もう……関わることさえ出来ないから……………
 子供の視線から逃れるように……今度は青年の瞼が落とされた。
 ………それでも子供の視線は透過されるかのように青年の中に浸透するのだけれど…………
 それを厭うように青年は子供に背を向ける。…………青年の小さな声は震えないよう必死な子供の声だった………。
 「なんのことだ………?」
 なにかから逃げている青年の声に、子供は軽く息を吐く。時を止めていた青年は、人に深く関わることに怯えている。
 その手には何も残らないことを知っているから。………思い出さえ苦く彩る喪失感を忘れることが出来ないから……………
 それでも……その全てと自分は違う。子供は不敵な笑みを口元に灯らせ、どこかに逃げたがる青年の声の端を捉えた。
「俺は……貴様ほど碩学(せきがく)ではない。………それでも……」
 長い時を掛けて培われた彼の知識に匹敵する知を持っているなど……そんなおこがましいことはいえない。
 けれど……それでもたった一つ言い切れることはある。
 彼の背に掛けることの出来る、自分の絶対。
 「貴様に劣るほど、愚かでもない」
 囁きに青年の背が揺れる。………怯えるように。
 それは針の塔が消えた日に見せたあの視線に似た怯え。
 ……………青年の中にある消えることのない負い目。そしてそれは同時に孤立を指し示す。
 罪を犯した瞬間から、曲がることを知らない魂は罰を欲しがった。………それが手前勝手な呪いでもなんでもよかったのだ。
 ただ青年の心を守るためにある、優しく愚かな呪い。
 動き出さずに生きることのできる人間がいるわけがない。罪に向かい合うことに恐れて…一体なにが得られるというのか。
 …………仮初めの安らぎも泡沫の静寂も無意味だ。
 呪いはもう、消えた。彼に与えられたのは過去を見つめる罰。
 それを青年は知っている。そう…自覚していた。あの、全てが清算された日に………
 呪いと子供だけが…自分の中で溢れそうになる感情を封じる手段だった。
 清らかなその視線に晒されている間は、決して変わらないでいられるはずだった。
 ………呪われた姿であれば……傍にいられるだろうから……………
 二つは同時に存在しなくてはいけないのだ。……そうでなければ…………自分は均衡を崩してしまうから。
 けれど解かれた呪い。それは……子供までもが消える事実を示すことを知っていた。
 呪いは…枷だったのだ。同じ姿でさえいられないのだから、諦めればいいと…………
 空で輝けるものを地の底に貶めることはないと。
 けれど枷は消えてしまった。
 …………そして子供は消えてしまう。自分の…自分達の前から…………
 知っている。これは愚かな願い。
 子供は何も求めずにただあっただけ。……そこに意味を見い出すのは回りの勝手な我が侭だ。
 それでも子供はそれさえ知っていると…笑うから。
 手前勝手な価値さえ、揺るがない視線は構わないと囁くから。
 ………この胸の内にある苦さはなくならない。
 年端もいかない幼子に自分の纏う歪みを与える遣る瀬無さ。いっそあのまま親友の手で果てていれば……こんな物思いもなかったのか。
 愚かな思考は……それでもこの胸を締め付ける痛みを消す、有効な手段。
 そんな汚い逃げさえ見透かして、子供はそれでもその言葉を……吐くのだろうか………?
 青年の願っている、たった一つの言葉を…………
 恐れるように……乞うように。
 震えさえ隠せない青年は、それでも子供の囁きの行く末を知りたくて振り返る。
 その視線の先に広がるのは………光。
 圧倒的なほどの、揺るがない幼い笑み。
 ……………眩さに視線を眇める青年の耳に光は優しく触れる。
 「……………俺は…消えない」
 それでも怯えるのか、と。
 微かな憂愁を含む視線は青年を見つめる。
 青年の頬を彩る…消えない、作り物めいた笑み。
 その頬に伸ばされた子供の指先に、青年はゆっくりと瞼を落とした。
 頬を伝うものが子供の指先か…まったく違うものか、その区別さえつかない。
 ただ揺れる視界では子供を見れなかった。だから目を閉じた。
 目を閉じれば……その瞼の裏には鮮やかな残像。
 消えることのない曙光のごとき姿に、小さく息を吐く。
 ………ずっと凍えていた。抱き締める者も抱き締めてくれる者もなかった何百という無為な時。
 儚い時の間で生きる意味を忘れかけていた。……許すことさえ忘れたかもしれない魂に、その…日のぬくもりは穏やかに、それでも強烈な強引さで道を照らした。
 これがなくなったらもう…道が見えない。
 なにも認めずに生きる姿など、この子供に見られたくはないから。
 ………ゆっくりと青年は息を吸い込む。焼き付いた肺の中に新たな思いを注ぐように。
 変わらない笑み。…………張り付いた口元だけの、笑み。
 それでもその瞳から流れるものがあるのだ。
 ……幼い面を飾るそれに不器用に笑い、青年は恐れるようにその指先を子供に向ける。
 逃げないぬくもりを確かめるように固く抱き締め…灯った笑み。

 …………………それは壊れた時の果て、ようやく見つけた本当の微笑み。








 というわけで……激爆??
 なんかそれっぽくない気もするけど…………まあいいか。

 これは実は……授業中に『碩学』という言葉を見て意味がわからなかったせいで出来た話でした。←馬鹿。
 いえ…イメージとして激だなーと。なので激の話書こうかなーと。
 ……そうしたらなんか…逃げてばっかいる馬鹿になっちゃいましたv
 なんでこの子はこう私の神経逆なでするような行動ばかりするんだろうか……(怒)
 爆が見捨てないのが不思議です(遠い目)←オイ。