一人で生きることは存外楽なこと。
誰も傍にいなければ相手を傷つけて落ち込むことも悲しむこともない。
…………涙を見ることもない。

そう笑っていった青年に、聞いていた子供は少しだけ困ったような笑みと溜め息を贈る。
椅子の背もたれに顎を埋めていた青年の額を爪先で軽く弾けば問うような視線が注がれる。
わかっていない青年に苦笑も零せず、子供は窓の外を流れる雲に視線を向けたまま、微かな声を落とす。

………………代わりに、笑うことも少ないのだと子供は窘めるように囁いた。

笑うことの増えた子供。周りにはいつだって誰かがいた。
真直ぐに清らかに生育された魂。毒素に触れてもそれはけして穢れはしない。
愛しくて…手折ることなどできる筈のない華。
だからこそ囁いた言葉に返る返事など本当は望んでいなかったのかもしれない。

いつもどこか寂しげに笑う青年。
どんな風に生きてきたかなんて知る筈はない。
その身に背負う痛みを垣間見ても、全てをわかれる筈はないのだから。
………一人でいる方が楽なのだと囁くような言葉に反感も持てはしないけれど。
寂しげな瞬きを残し、青年が囁く。
まるで寄る辺なき猫が鳴くような、か細く小さな声。
戯けた笑みの奥に懇願を秘めて……その不器用さを手放せない自分を知っている。
大人のくせに子供のような青年。どこか自分の傍にいることにさえためらいを持つ、自身の卑小を疑わない彼。
それでも伸ばされたなら、その腕を支えたい。

 

傍にいて欲しいと願うなら、傍にいたいと思ったのは本当だったから……………

 

灯ったものは……

 

 時計の針の音が妙に大きく響く気がする。
 テーブルの上に朝食を並べた子供は少し眉をあげて時計を仰ぎ見た。時計の針はちょうど7時を指していた。
 ………きちんと起きているなら同居人はあくびを噛み殺しながら階段を降りる足音が聞こえるはずの時間だ。
 耳を澄ませても響くのは時計の音。一定音のそれは飽きることなく響くことをやめない。
 いっこうに足音はせず、また頭上の青年の部屋からは物音さえなかった。
 小さく息を吐き、子供は呆れたように天井を仰ぎ見る。見透かせるわけもない頭上の人を睨むような視線は苦笑に彩られた。
 「…………まったく……」
 息を漏らすように囁かれた声はどこか仕方なさそうな感に染められていた。
 青年は時折こうして朝寝坊をする。……もっとも寝坊ではなく丸一日起きてなにかしていることもあるようだけれど。
 武道家として高名でもある彼は、けれどしっかり文学も極めている為か時折思い出したようにその向学心が目を覚ますらしい。
 ………そうするともう他のものが目に入らなくなる。ただ一心不乱に自分ではまだ読むこともできない書物をいくつも積み重ねて読みふけったりもしていた。
 珍しいものを見つけた翌日は確実に朝食に顔を出したことがない青年に幾度怒鳴ったかわからない。
 わからないが………なによりも問題が他にあった。
 …………………………子供が声をかけても気づくかどうかさえ怪しいという、単純極まりない問題が………。
 軽く息を吐き、子供は自分の作った食事を眺める。小さく腹の音がなり、空腹を訴える自分に苦笑した。
 鼻をくすぐる煮物の香りもこれでは無意味だ。冷めてしまったら折角作った料理とて味は落ちる。
 しかたなく気づくかどうか賭けのような気持ちで子供は青年の書斎に足を向ける。自室よりも階段に近いその部屋から確認していくのがもう慣れた行為となっていることがなんだかおかしくて子供は含み笑いを零した。
 そうしたなら肩に座っている聖霊が問いかけるように鳴き声をあげる。
 それに気づき子供は聖霊に顔を向けるとどこか懐かしそうに呟いた。
 「……朝起こす相手などお前ぐらいしかいなかったからな。妙なものだ」
 手を伸ばせばあるぬくもりはこの聖霊以外はなかった。
 声をかける相手も、笑いかける相手も。……寂しいなどとは思わないけれど、どこか空虚な物思いに蝕まれるときもある。
 それをなくしたいと囁くように伸ばされた青年の腕。
 ………あるいは青年の内にある寂寞こそを溶かしたいと願って受けたのか。
 互いが互いのぬくもりとなりたいと祈ったなら、これほど愉快なこともない。
 仄かに灯った笑みに目を奪われるように聖霊が子供の頬に腕を伸ばす。小さな指先は労るように支えるように子供に触れるけれど。
 これだけでは足りないことを悟ったように緩やかに解かれてしまった。
 それを厭うように寄せられた頬のぬくもりに聖霊は嬉しそうに背を預けるのだった。

 軽くドアをノックしても何の気配もない。
 物音どころか人がいるかどうかも怪しい雰囲気に微かに顔を潜めるが、それくらいのことは珍しくはないと思い返して子供はドアに手をかける。
 「激?飯の仕度が…………」
 声をかけながら回したドアノブを軽く引き寄せたなら…………異様に重い感覚が腕を伝ってきた。
 それに伴ってなだれるような物音が子供の前に落ちてきた。
 …………一瞬沈黙が流れる。その間も室内では人の動く気配はなかった。
 足下に蔓延る本や巻き物を視界に収め、微かな目眩を感じつつも子供は改めて室内に視線を向けた。
 それほど大きくはない書斎。……広いはずの室内はところ狭しと並べられた本棚と山積みになった本のせいで異様な狭さに感じた。
 その先……遠くはないはずの人影は本に埋もれていて遥か彼方に座っているような気が子供にはした。………いっそこのまま気づかなかったことにして階下に戻ってやろうかと本気で考えてしまうほどの外界への無頓着ぶりに吐く息もない。
 本を踏まないように室内に入ることは不可能と思い、子供は躊躇いながらも遠慮なく青年の本を踏み付けて廊下よりも狭くなった室内に踏み込んだ。
 近くの本の上になにか見つけたの、聖霊がいつの間にか子供の肩から降りて勝手気ままに遊び始めている。それを横目に子供は転ばないように気をつけながらも早足で横顔のまま動かない青年の真横まで歩み寄る。
 真剣な青年の面差し。他の一切の介入を拒むが故に研ぎすまされる彼の感覚。
 ………これを達人のみが踏み込むことのできる無の領域とでもいうのだろうか………?
 それは子供にとってはただの不作法者の仕草にしか写らなかったけれど。
 読みいっている青年に子供は声をかけてみる。いつもより幾分大きめの声は間近で聞いていたなら気づかない筈がない声量だった。
 「おい激!聞いているのか?」
 微動だにしない青年に疑惑の視線など向ける意味もない。
 本気で気づいていない青年は子供が現実世界に戻さなければいつまで経ってもこのままだ。
 いまだ針の塔の凍った時間の流れから解き放たれきっていない青年は、まるで自分の持ち得る時間を放棄したかのように静寂を保ってしまう。……何者の介入も許さないほどに頑なに。
 頑固なその魂の深みを揺さぶるように、子供は青年の耳元に唇をやると、鼓膜さえ破ることを厭わないように大声を張り上げた。
 「いい加減にしろっ!さっさと戻ってこい!!!」
 恐ろしい勢いで鼓膜を震わせたその声に驚いたように青年の身体が跳ねた。
 茫然自失の態から免れえない青年の風体を睨む子供は口を噤んだまま青年の弁解を待つように仁王立ちでたたずんでいた。
 なにが起こったのか計りかねた青年はゆっくりと辺りを見回し………視界の中に子供が加わると一気に顔色を青ざめさせた。
 明らかに怒った顔。………無表情な視線の中、それでも怒りは滅多に見せない子供はあからさまにその顔色を怒色に染めあげていた。
 窓から差し込む陽射しを感じて、青年は子供の怒りの原因が身にしみてわかってしまいヒクリと不器用な笑みを口元に象った。
 「え……っと…………、わ、悪い…………………」
 またやってしまった失態に声が自然萎むように小さくなる。
 いつもいつも真夜中には一度切り上げようと思いはするのだ。それでも自分の根底から突き上げるなにかに追われて浸り込んでしまう。
 そうしたなら必ず子供の不機嫌な顔に引き戻される結果を招くと知っているにも関わらず……………
 青ざめたまま動けない青年を睨む子供は、言い訳もできない青年に小さく息を吐いて背を向けた。
 慌てた青年の気配を背に感じ、それを制すように声をかける。
 …………その肩に階下に戻ることを予感した聖霊が駆け寄ってきていた。
 「……さっさと来い。飯が冷める」
 怒りを解いたわけではないとその声は呟いているけれど、それでもちゃんと追ってこいと示してくれるから……青年はほっと息を吐くと立ち上がって小さなその背を追い掛けた。
 階下のダイニングに向かうまでのほんの僅かな距離、どうやって子供の機嫌を直そうかと考えあぐねている青年に声が振りかかった。
 どこかぶっきらぼうな、けれど拗ねるように悔しそうな声が………………
 「いい加減……安心出来んのか?」
 「…………へ………?」
 子供の言葉の意味を取り損ね、青年は不思議そうな顔で間の抜けた声を返してしまう。
 階段の途中、僅かに下の段にいる子供の顔は覗くことができない。いまだ幼いふくらみを保つその頬しか晒さないまま、子供は言葉を続けた。
 滔々と流れる、やわらかな音で………………
 「人が呼びに来るのを待つように没頭し続ける。俺はちゃんとお前の傍にいるだろう?」
 一体なにが不満だと囁く声に大きく青年は目を見開いた。
 ずっと……ずっと胸の奥突き上げるように自分を追うなにか。
 それがなんなのかわからなくて時折恐れるように知の極地に逃げ込んでしまう自分。
 時間さえ凍らせるそれを必ず溶かしてくれる腕があるのか……試していたのだろうか………?
 自分でもわかりかねていたその答えに、青年の視界が霞むように濡れた。振り返った子供は仕方なさそうに青年の指に自分の指を絡めると、促すように階下へと歩んでいく。
 なにも言わない子供。………答えることなど望んでいない潔癖な子供。
 ただ青年の内にある寂寞と孤独を溶かす為に伸ばされた腕のあたたかさに酔うように青年は瞼を落とす。
 たとえ盲たとしても………この指は消えない。

 それを確かめるように強く握りしめたなら応えるように子供の指先は青年を包んでくれた……………








 というわけで激&爆の同居話でしたー!
 カイとの差が笑えます(笑)どっちも一回は書いているんですけどね。………そのどっちもが同居中の話とは見えない物だったのであらためてみました。

 激を書くとなんだか情景が妙に鋭くなります。
 なんというか、硬質化するとでもいうのでしょうか。
 妙ですね。カイ書いているときはひたすらやわらかな情景が浮かぶのに、激書いていると寂しいというか痛い感じがするのです。
 やはりこれはキャラに対するイメージの問題なのでしょうか……………
 いやでも痛いのは書いていると悲しくなるんですけど…………