柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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同じ道を辿る事はない
それは出会ったときから決まっていた

分かれて辿るその道を
自分は見つめ、彼は振り返る
いつだって、彼は自分よりも前に居る
同じではない道は、
けれど最後に行き着く場所だけは、重なっていた

ゆったりと笑んで
怠そうに腕を伸ばし
こちらへおいでと、その道を指し示す

この道は大丈夫だからと
一度自身で傷を負い辿った道を教えてくれる
痛みは、出来る限り一人背負うから、と

なんでもないように、血にまみれて彼は笑うのだ





この道の先



 なんてことはない日だった。
 自分のデビュー戦である公判の話題も、その翌週にあった大規模なテロ事件や猟奇殺人にあっさりと飲まれてもう報道もされない、そんな平和でのんびりとした日。
 あてがわれたデスクで日々の仕事をこなす。既にノルマは達成してしまっている。もっと仕事を回してくれればいいものを、未だ新人扱いなのか、必要以上の仕事は与えられない。
 年数を重ねただけの無能なベテランよりも自分の方が余程処理が早いはずだ。そう思ってもこの微妙な空気の中でそれを口にする事は許されない気がした。
 不可解な事だ。不正を暴いた新人検事として、もてはやされないまでもそれなりの評価を収められると思っていた。にもかかわらず、自分は優遇される事はない。
 それを不満と思うつもりはないけれど、能力のある人間を正当に評価しなくては、仕事が行き詰まるばかりだろうと思う。ただでさえ犯罪は未だ増加の一途を辿り、検事の仕事は山のように積み上げられて、暇という言葉とは無縁なのだから。
 実際、自分はもう仕事が終わり、あと5分もしないで定時で帰る事が出来る。先程提出した報告書を受け取った上司もあえて次の仕事は与えてはくれなかった。
 出る杭だから打たれているのか、純粋に評価されていないだけなのか、訳が解らない。
 チャイムが鳴った。仕事は、終わりだ。まだ他の先輩検事たちは忙しげに働き回る中、一人立ちあがり鞄をとった。ねぎらいの言葉の中、帰宅する。こうもおかしな光景もそうないだろう。
 検事局を出て溜め息を吐き出した。………堅苦しい檻の中で、毎日見張られている気分だ。
 少し気分転換がしたいと、普段であればそのまま帰宅する足を少しだけ迷わせて見知らぬ道を選び、歩き始めた。
 方向感覚はそう悪くはない方だ。仮に迷った所で、タクシーでも捕まえれば問題はない。
 そう考えて気楽に動きだした足は、迷う事をこそ楽しむように、知らない道ばかりを選んで進む。見た事のない風景。店。街路樹に野良猫。
 自身のテリトリー以外に迷い込む事は、ことのほか新鮮で面白かった。その先にたたずむ、一人の影を見つけるまでは。
 「………………………」
 目を疑った。避けていたというよりは、関わる理由も、ましてや関われる環境にも居なかった。だからあの日以降、彼がどうなったかなど、風聞で聞く事くらいしかなかった。
 ほんの数日間とはいえ、ニュースに取り上げられて、かなり大規模に報道されたはずだ。おそらく法曹界に携わるものであれば、学生でさえ彼の名と顔を言い当てられる。
 その本人が、そこに居た。困ったような顔で必死に手を伸ばしている。………見る限り、木に。
 「相変わらず訳が解らないな…」
 首を捻ってその姿を見る。初対面のときと変わらない青いスーツにとんがり頭。もっともその胸には多分、もうバッチはついていないはずだ。剥奪されたのだから。
 そんな事を思っていると、彼の表情が驚きに染まり、ついで小さく何かを叫ぶように口を開いた。
 同時に、甲高いネコの声と彼の押し殺した悲鳴、過るように彼の腕を踏み台に地面に着地した小さなブチネコが見えた。そのネコは颯爽と駆けていき、すぐに見えなくなってしまったけれど。
 何となくストーリーが読み取れて呆れてしまう。自分よりもかなり年上のはずの相手は、どうやらネコを助けようとして、見事に恩を仇で返されたらしい。
 親指の付け根の辺りを舐めながら、彼はネコが走り去った方を見つめている。睨んでいるのではなく、どこかほっとしたような顔が苛立たしい。………苛立たしいと感じる事自体、おかしな事だと思う事もなかった。
 ただ湧いたその苛立ちをまぎれさせるように、歩を進める。先程までは多少浮上してきていた意識が見事に撃沈されてしまった。不機嫌もいい所だ。
 「あんたっ、こんな所でなにやってんだよ?!」
 「へ?」
 低く唸るように噛み付く口調で告げてみれば、相手は自分にいわれているのか確認するように周囲を見渡している。有り難い事に裏道にあたるこの狭い路地に、人影は自分たち以外にはない。もっとも、壁の裏にある人家の中までは解らないけれど。
 つかつかと足音も高く彼に近づく。相手は不思議そうに瞬きをして、怪我をしていない方の手で頭を掻いていた。
 まったく警戒心がない。年下の自分に突然怒鳴られているというのに、その表情には不愉快さものぼっていない。あるのは純粋なる疑問だけだ。
 苛立たしい、腹立たしい。どうしてこの男はこんなにも呑気な顔で、こんな場所でネコと格闘などしていたのだろう。自分は、彼との一戦のあと、これほど毎日を鬱屈と過ごしているというのに。
 お門違いな八つ当たりだと、冷静になれば解る事も、今は解らなかった。目の前に立ち、未だ困ったように自分を見下ろす視線に、また怒鳴る。
 「あんたニュースにだって取り上げられただろ?!なのになんだってそんな目立つ格好のまんま、なんの警戒心もなくのらくらしているんだよ!」
 そもそもその時点で腹が立ったのだと、そういわんばかりの口調で告げれば、相手は気まずそうに一度視線を逸らしてから、再び自分を見遣って、いった。
 「えっと……その前に、いいかな?」
 「なに?!」
 「……………ごめん、君、誰?」
 人違いしていないかと困惑に揺れる瞳でいわれて、たっぷり30秒は凍り付いてしまう。本気で、解っていない顔だ。茶化しているわけでも誤摩化しているわけでもない。
 そんなことがあるのだろうか。彼の人生を変える公判は、自分との対峙だったはずだ。にもかかわらず、その相手を忘れるなど…………
 思い、憤りのまま、近くの壁を叩き付けた。裁判中に異議を飛ばすように、叫ぶ。
 「牙琉響也だよ!本気で解ってないだろ、あんた!」
 「へぇ?…………………、ああ、あの坊やか!」
 首を傾げて一瞬悩んだあと、少し時間を掛けて彼はようやく思い当たったのかそう告げた。あり得ない、少なくとも自分の常識の中では。
 こんなにも自分はこの男の存在に縛られている毎日だというのに、何故同じ立場にあり、より過酷なはずの彼の方がこうも無頓着なのか。唸るように彼を睨めば、困ったように眉を垂らして視線を逸らされた。
 「えっと、ごめん。僕、あの裁判で考える事や覚えなきゃいけない事、探さなきゃいけない事が山のようにあって。相手検事の事まで気にしてなかったや」
 「………………………………………………」
 なお悪い、と叫べたら楽だっただろうか。けれどそれではあまりにもみっともなさ過ぎる。ただでさえ一人喚いて格好が悪いと自分でも思うというのに。
 「で?どうかした?というか、手、痛くないのかな?」
 思い切り叩き付けていたけどといわれて、指差された先の自分の手を見る。………確かに若干赤くなっていた。その上ズキズキと今更痛覚が戻ってきた。その鈍い痛みに顔を顰める。が、それでも相手を見て皮肉に笑い、痛まない指先で彼を指差した。
 「あんたの怪我ほどじゃないよ。なにネコにまで負けているのさ」
 今は自分の腕の痛みと相手の傷とを考えた方がいいだろう。火照りそうな思考を冷静にしようと努めることに必死になっている現状自体、少々滑稽だったけれど。
 相手はそんな事には気づかないのか、気にかけていないのか、ヘラリと笑ってネコが駆けていった方向を見遣った。
 「うん?ああ、あのネコ?見ていたんだ。良かったよ、木から降りれなくてずっと鳴いていたんだよね」
 手も届かないし取り合えず静止していれば踏み台くらいにはなるかと思って、と彼が笑った。………初めから怪我くらいは覚悟していたらしい事は、その安堵した顔で解った。
 野良猫の与える傷がどれほど痛いかくらい、解るだろうに。
 それでもこの男は、あっさりと手を伸ばしたのだろうか。別に気に掛けなくともどうにかなるだろう、自然の中の一コマだろうに。目を瞑らずに、足を止めて、小さな鳴き声に耳を傾けた。
 それに沸き起こるこの感情は、なんだろうか。言い様のない焦燥のような、そんな足場の不安定さ。
 それを躱すように、彼の言葉を流した。
 「………ネコならそれくらいなんとか出来るだろ」
 「まだコネコだったよ。経験がなければ解らないかも知れないだろ?」
 背けた顔で告げた声は少しだけ子供じみていた。それに彼はゆったりと応える。なんだろうか、この居心地の悪さと、………同等ほどの居心地の良さの矛盾は。
 今すぐ怒鳴って逃げ出したい衝動ともっと彼の言葉を聞こうとする意識のせめぎ合いに顔を顰めれば、苦笑の気配がした。
 「ま、どっちでもいいけどね。僕はそうしたかったからしただけだし。じゃあね」
 「って、待てよ!」
 あっさりと踵を返したその背中に、顔を逸らしていた無礼も忘れて叫ぶ。
 あまりにも慌てた声だったからか、彼はキョトンとした顔で振り返った。肩越しのその表情にホッと息を吐いて、止まった背中に急いで追いつき、腕をとった。
 傷ついた親指の付け根からまだ出血していて、傷口が盛り上がり、少しの衝撃で血が溢れ出るだろうことが見て取れる。
 薄く張っただけの血の膜に痛みが走ったのか、微かに相手の顔が歪んだ。それは決して自分を厭う意味の表情ではないはずなのに、何故か胸が痛む。
 ………本来ならば、そんな表情こそが、自分には向けられるはずだ。解っているのに、自身を傷つけたネコにすら笑んだ彼が自分を厭う事が、ひどく恐ろしい事に思えた。
 それは身勝手な意識だ。自分は彼に突っかかるような物言いしかしていないし、マイナス要素しか与えていない。厭われる事こそあれ、歓迎されるはずがない。
 解っている。自分だって、卑劣な真似をして裁判に勝とうとした輩に好かれたくなどない。それなのに、この違和感が自分を揺さぶる。
 自分の思い描いていた人間像と、彼が、重ならない。それは裁判が終わる頃から………彼の罪が暴かれた頃から、何とはなしに気づいていた、差異。
 「………………?坊や?」
 腕を掴んだまま凍り付いた相手にかける声は、なにも孕まない音。嫌悪もないかわりに、好意もない。ただの純粋なる問いかけの音。
 それが更に胸を抉る気がして、その音に色を付けたくて、なにも考えないまま、声を綴る。
 「傷、痛いんだろ?……仕方ないから、絆創膏くらい買ってきてやるよ」
 「へ?いやいや、なにも君がそんな真似………」
 「いいからっ」
 驚いたように告げる彼の音を途中で遮って、その腕を強く掴む。俯いて、彼の傷を見つめた。
 赤く彩られた傷は、痛々しい。それなのに自分はそんな痛ましい指先に縋るみたいで、不様だ。まったくクールじゃない。
 その指先を辿るように彼の視線が向けられる。首を傾げるようにしたあと、仕方なさそうに彼は笑った。
 「うーん、でも、さ?」
 いうべきかを迷うような間の後、俯いたままの頭に指先が触れる。微かに力を込めて、離れる事を示唆するように。
 それが、ひどく胸に痛んだ。言葉はどこか優しくすらあるのに、その腕は拒むのだ。
 「流石にね、目立つと思うよ。僕と君が一緒にいたらさ」
 だから大丈夫だと、彼が笑う。………彼の発言に現実を思い出し、身勝手にも硬直した肌を知ったのだろう、押しのけようとしていた指先を宥めるように添えて、苦笑の響きの音が降る。
 情けない自分の反応をからかうでも嘲笑うでもなく、彼は静かに、ただ子供をあやすような仕草で自分の頭を叩いて、そっと声をかけた。
 「じゃあね?」
 もう引き止めないようにと綴る音に、それでも必死に腕を掴んだ。離したら、きっともう終わりなのだ。自分が貶め法曹界から追放した、この男との縁が。
 そんなもの断ち切る方がいいだろうに、それが消える事が何故か怖かった。
 多分……予感していたからだ。否、本当ならば解っていたのかも知れない。予感などという、曖昧なものではなくて。
 自分が断罪したこの男が、あまりにも清廉としているから。たかがネコのために負う傷すら、厭わないから。自身を貶めた相手にすら、こんなにも静かに優しいから。
 なにを持って彼を糾弾するのか、その矛盾がほんの微かに、見えたからだ。
 ……………だから、怖くて。だから、手放せない。
 もしもそれが事実なら、罪を犯したのは彼ではなく自分だ。奪われるべきではない人間のバッジを奪った。その可能性への恐怖は底知れない。
 震えそうな指先を隠して、彼の腕を掴む力を強くする。
 本来なら痛みは自分ではなく彼が感じるべきものだ。自分はその痛み故に与えられる感情を甘んじるべきだ。
 けれど、未だ自分は覚悟が足らず、彼の痛みを見ずに自分の痛みを彼に転嫁してしまう。こんな風に、物理的な拘束でもって、それを押し付ける。
 噛み締めた唇から音は漏れない。不様な言葉を吐くのは嫌いだ。いつでもクールに、熱くなる事なく対処する。そう、生きてきたのに。
 冷静に、優位に、決して膝を折る事なく、全てを見渡して真実の先に立つように。それなのに、真逆の彼に、打ち砕かれる。
 …………自分が全てを打ち砕いたはずの、彼に。
 言葉も綴れずにただ掴むばかりの指先。彼に痛みしか与えていない、この腕。裁かれるべき人間であるなら、それに痛みを自分が感じる必要はないはずなのに、痛む胸。
 警鐘。………次いで、明滅。
 浮かびかけた事実と真実。それに目を見開いた瞬間、声が響いた。
 「じゃあ、さ。お願いしてもいいかな」
 そっと、彼の指先が触れる。形になりかけた思考が霧散する。それに弾かれるように彼を見遣った。………思った以上に至近距離の相手の顔はどこか優しくて、遣り切れなくなる。
 「僕、この先の公園にいるから、絆創膏、いいかな?」
 そこなら人目も少ないから、と。彼は笑った。それがあまりにも穏やかで、寂しい。
 彼が彼としている事を許されない、そんな風に人目を忍ぶような状態にしたのは、自分だ。なのにそんな自分を彼は労ろうとしている。
 なんておかしな話だろうか。詰られ誹られるのではなく、守られるような感覚。
 そんな風に笑う立場に彼が居る筈がない。たった数日でも、自分は見た。あのニュースの内容。普通であれば心を折られ生きる気力だって無くなりかねない。もしも、それが真実ではなく、彼が冤罪だったとしたならば。
 だから、あるいはこうして笑んで生きている事こそが、彼が犯した罪の証拠なのかも知れない。あまりにも矛盾に満ちた考えが胸中に浮かび、沈んだ。
 あり得ない。なにもかもが。訳が解らない。彼を見ていると渦巻くように情報が拡散する。その癖、情報過多にすらなる。
 ポンと、彼の指先が自分の頭を叩いた。それに気づいて彼を見遣る。………よくよく見ると若干彼の立ち位置が違う。声を掛けられた際、既に歩き始めていたのだろうか。
 おそらく惚けた顔で彼を見ていたのだろう、苦笑の浮かんだ彼の眼差しが、柔らかかった。
 「あんたは………なんで笑っているわけ?」
 悔しくて、つい、そんな憎まれ口を叩く。けれど、それは純粋な疑問を内包した問いかけだった。
 それが伝わったのか、目を瞬かせた彼は首を傾げて悩むように視線を逸らした。数秒の後、また彼は首を傾げて、自分を見遣る。
 泣く事すらないのだろうか。そんなものすら、超越してしまっているのだろうか。自分が同じ立場だったなら、暫くは外を出歩けないし、感情を出すにしても、憤りや悲しみだけだろう。
 それなのに、彼は何故………
 見上げた彼の顔は、多分、笑っていた。調度夕日が逆光になって、その顔には濃い影が落ちて、良くは見えなかったけれど。
 多分、笑っていた。その唇が、開かれる。
 「泣き方、解らないからね。笑っている方が楽なんだよ」
 静かに彼は笑って、自分を見た。それはどれだけの、感情なのだろうか。泣く事すら解らなくなるほどの意識など、自分は持ち合わせていない。
 それでも、笑い、他を思おうと努力するのか。非難され排除された、そんな立場にいるくせに……この男は。
 解らない。解る事が怖い。彼に関わる事は底なしの沼に足を踏み入れるようなものだ。その癖、彼に声をかけ、引き止め、関わったのは紛れもなく自分だ。
 矛盾だ。……幾度同じ事を思ったのだろうか。きっとひどく情けない顔をしていたのだろう。彼は目を瞬かせて、ついで…寂しそうに目を細め、そっと自分に手を伸ばす。
 「ありがとう、大丈夫だよ」
 頬を撫でた指先。その指先に湿りはない。彼が礼を言うような事は、なにもしていない。
 睨みつけた先で彼は微笑んだ。今までとは違う、どこか儚い小さな笑み。
 「訳が解らないね、あんたはっ」
 なんでそんなにもチグハグな顔をするのか、解らない。その上、そんな顔をさせたのが自分だと思うと、やり切れない。
 彼がもっと卑劣な人間なら良かった。こんな風に笑う人でなくて、ネコなんて無視するような人で、自分なんて歯牙にもかけない、そんな人なら。きっとこんなにも胸は軋まない。こんなにも、ほんの一週間程度前の事を、恐れない。
 警鐘。明滅。浮沈。及び、事実の輪郭の発露。そして、霧散。
 まとまるはずの考えすら上手く結ばない。情報があるようで、なかった。ただ歴然と突きつけられるのは、目の前の人の性情。
 縋るように、彼の腕をとった。自分を撫でる腕を。
 それを引いて、自分の肩に彼を押し付ける。まるで抱き締めるようだ、なんて。思ったのはもっとずっと後の事だった。
 この時は心理的には、自分が彼に縋っているようなものだった。
 「泣きたいなら、泣いとけばいいだろ?!なに格好つけているのさ、そんなに面子を保ちたいわけ?!」
 出てきたのは、小さな声だった。自分の肩に顔を押し付けられている彼が発せる程度の、掠れた小さな声。
 叫んだつもりの割には、情けない。ボーカリストとしての発声すら出来ていない。悔しくて唇を噛み締める。力を込めて相手の肩を更に抱き込めば、ふと、吐息を吐き出すような、そんなぬくもりが肩に当たった。
 吹き出したような音はしない。ならば、笑われたわけではないだろう。それは、どちらかというと溜め息に近い気が、した。
 そうして、背中に当たるぬくもり。あやすように叩かれたそれに、息が詰まる。
 「案外直球だね。でも、大丈夫なんだよ、本当にさ」
 彼は笑い、そんな事を告げた。嘘だと異議を唱えるより早く、彼の腕は自分の背中を包む。
 「まだ、やるべき事が僕にはある。へこたれている暇も、泣いている暇も、ないんだよ」
 だから笑うのだと、彼は言った。おそらく、肩に埋められたその顔は不敵に笑んでいるのだろう。
 「……………そんな、の………」
 小さく、声を漏らす。彼の言葉が正しかろうと事実であろうと、それが物寂しく孤立するしかない道だという現実に変わりはない。
 それすら受け止めて、選ぶというのか。この、不正を働いたとされている、自分が告発した男は。
 「ほら、それより早く、絆創膏。買ってくれるんだろ?」
 身体を起こし、彼は自分の顔を覗き込む。どこか楽しげな、子供のような笑み。青いスーツに特徴的な眉。それに、見間違えようもないほどに尖った髪型。
 何一つ彼は変わっていないけれど、それ故に、彼はこの先も人の視線に晒されるだろう。自分が今、検事局という小さな檻の中に押し込められているのと同じように。
 思い、彼から腕を離し、自分の鞄を引き寄せる。
 「解っているよ。それより、ちょっと離れてくれる?」
 「懐いてきたのは君のくせに。素直じゃないなー」
 あのコネコと同じだね、と。彼は笑ってからかい、一歩後ろに下がった。夕日が色濃くなって、彼の頬を彩っている。
 眉を顰めて不愉快を示しながら、彩色鮮やかな夕日に感謝した。多分、いま自分の顔は赤くなっているのだろうから。
 「そんな目立つ格好じゃ、公園にいたって注目の的だよ。ほら、これでもかぶんなよ」
 鞄の中から見つけ出したのは黒い帽子。ついでにサングラスまで差し出したが、そちらは成歩堂に固辞された。確かに想像するだけでも、似合わないけれど。
 その上、明らかに青いスーツにニット帽はあっていない。それくらいは鏡を見なくても解り、かぶるべきかどうかを悩んでいるらしい成歩堂の首元に、仕方がなさそうに指を伸ばす。
 「そのままかぶったら余計に不審者だよ。上着脱いで、ネクタイも外して。ちょっと着崩れれば、ほら。………ってあんた、童顔だったん……」
 「余計なお世話だよ!」
 ざっと学生風に装わせてどんどんルーズにされていく服装に嫌な予感はしていたのだろう。彼はつい零れた自分の言葉に即噛み付いてきた。
 実際、きちんとスーツを着ず、髪をセットもしないのでは雰囲気はまるで変わる。その変化に感心していると居心地悪そうに彼が顔を逸らす。
 「ていうか、寒いし、これじゃあ」
 「公園までジョギングでもすれば?この程度で寒がるなんて年の証拠だよ」
 「もともと寒がりなんだよ、悪かったねっ」
 彼の上着を片手に持ったまま告げてみればそんな風に言い返す。随分表情の幅の大きい人だ。
 「ま、見かけは学生だからそう人目も気にしないで済むさ。大人しく待ってなよ」
 そう言いおいて、背中を向ける。盛大に彼が顔を顰めた事は、視界の端に写ったから解っていたけれど。ついでだからと肩越しに投げて渡したヘッドフォンを、彼は目を瞬かせて受け取った。本当に、こんな風にしていたら年齢差をあまり感じない。もっとも、外面的な面でのみ、だが。
 待っている間の時間潰しだと告げて笑い、似合いもしない青い上着を片手に、歩く。少しだけ足早に。
 絆創膏と、あれば消毒液も用意しようか。寒がっているだろうから、肉まんくらい買っていってやってもいいかもしれない。
 ちらりと背後を盗み見るように振り返って、もう彼がそこにはいない事を知り、少しだけ落胆する。
 風が吹いて、腕の中で上着がばさりと音を立てた。不意に、指先を握り締めて、掴んだ腕の熱さを思い出す。
 同じ生地をいま持っているはずなのに、やはり違う。そう思いながら、逆光の夕日の中で笑んでいたその面影を思い出す。
 泣く事が出来ないのは、現状のせいか。
 ………涙を見せてもいい対象が、いないという意味か。
 さりげなく誤摩化されてしまった問答を、脳内で反芻する。
 どうせなら、この腕に。……………そう、思いかけて、首を振った。
 少しだけ冷たい風が、また、吹き付ける。腕の中の上着は、やはり冷たかった。



 「…………考えてみると、よく、あなたは僕の話なんて聞いたよね」
 不意に思い出した始まりの日に、響也が隣に座る人にいった。突然の言葉に相手は少しだけ首を傾げて悩んだ後、話し始める。
 「んー?ああ、君、優しかったからねぇ。まあいいかなって思っただけだよ」
 言いたい事は言わせてもらっていたし、と成歩堂は唇に笑みを乗せていう。
 確かに聞きようによらなくとも随分な物言いが多かったのは否めないと、美化されていない記憶を思い出して響也は苦笑する。
 「優しい……ね。自分としては突っかかっただけに思えるんだけど?」
 人の肩に寄りかかったまま資料を読み耽る相手は、今もまだ動く気配がない。それでも会話を途切れさせる気はないのか、成歩堂は微かに首を巡らせた。振り返ってみれば、響也と目が合い、楽しそうにその目を細めて笑う。
 「だって君、僕が弁護士の格好のまんまだった事、怒っただろ?」
 「あんな目立つ格好でいれば怒るよ、さすがに」
 「僕が嫌な目に合わないようにって、思ってくれたんだろ?優しいと思うよ、そういうのは」
 楽しげにいわれて、目を瞬かせる。見遣った先の瞳は決して茶化しているわけでも躱しているわけでもなくて、事実を述べているだけの真っ直ぐさ。
 それを理解して、苦笑が漏れる。
 相変わらず、彼の世界は優しく甘く、あたたかい。些細なものすら愛しめるから、彼は折れる事なく進む術を知っているのだろう。
 肩に乗せられた頬は、あの日もあった。ただ、それは自分が強請って掴んだだけで、彼の意志ではなかったけれど。
 それが今は腕を伸ばさなくとも与えられる不思議さ。
 あの日から歩み始めた道は、自分と彼とを別々の方向に進ませた。それはおかしなことではなく、初めから決定していたこと。
 それでも彼は、望めばきちんと振り返ってくれた。時折、こちらを驚かすように腕を差し出してもくれる。
 多分それらは、あの始まりの日から、続いていること。
 「……相変わらずだよね、成歩堂さん」
 「君もだと思うよ、響也くん」
 そっと告げた言葉には、揶揄するでもなく真っ直ぐな音が返る。
 それに目を細めて笑い、するりと肩をずらして、彼の身体を支える事を放棄する。
 「ぅ…ん?」
 少しだけ驚いて声をあげた彼の身体を、床にぶつかる事がないように片腕で支える。目を瞬かせて自分を仰ぎ見る顔に微笑みかければ、怪訝そうに片眉が上げられた。
 その額に軽く口づけて、膝に誘導する。資料を持ったまま眉を顰めて見上げる人に、悪戯を込めて笑いかけた。
 「………資料、読めないんだけど?」
 「根を詰め過ぎだと思うんだけど?今からせめて1時間は休憩しようよ」
 すぐに熱中して周りを忘れてしまうのは悪い癖だと、困ったように笑んで成歩堂の瞳を覆うように手を翳す。
 微かに引き結ばれた唇は、けれど数瞬の逡巡の後に軽い溜め息を吐き出して、陥落を言い渡す。
 「まったく、本当に君も相変わらずだよ」
 「お互い様、という事で、休んでもらえるみたいだね」
 くすくすと楽しげに笑っていう響也の言葉に、仕方なさそうに目を瞑る。自分よりも余程多忙なはずの相手に気遣われるようではまだまだだと独りごちて、成歩堂は欠伸を噛み殺した。
 「……ちゃんと起こしてくれるならね」
 「承知しました、眠り姫」
 「……………………普通に、起こしてくれよ」
 返された返答に眉を顰めて成歩堂は告げながら、不貞腐れるように顔を響也の腹部に押し付ける。
 時折こんな風な物言いで自分をからかうようになった抜け目ない若手検事を、それでも気に入っているのは事実だ。
 さらさらと髪を梳かれて、眠気を誘われる。考えてみればここ数日あまり寝ていない事を思い出す。急激に眠気が襲い来て、成歩堂は目蓋を落とし、意識も沈めた。
 そういえば、返事をちゃんともらっていなかった。
 そんなことを最後に思いながら、眠りに落ちる。健やかな寝息を耳にしながら、ネコのように丸まって眠る人の髪を響也は飽きもせずに梳いていた。
 相変わらず訳の解らない、掴みどころのない人。矛盾だらけのくせに、その実、全てにロジックが成り立っている不可解な人。
 自分を捕らえて離さない存在に、敬意を込めて、囁いた。
 「僕が起こさなくても、きっと勝手に起きちゃうんだろうけどね。成歩堂さんが眠り姫だったら、王子も形無しかな」
 自身のその意志だけで、やるべき事があるのだと立ち上がってしまう。目覚めのキスも必要なく、その身一つで成せると笑うだろう。
 その背を、支えられれば、いい。一人傷つく事を良しとするその歩みを、分ちあえればいい。
 出来る事なら口吻けで目覚めてほしいけれど、と。
 ほんの微かな不埒な思いを考えながら、優しくその髪を梳いた。

 眠れ眠れ、今は深く。

 成すべき事の多さに溺れる前に



 眠れ眠れ。………自分の、傍らで。





 そんなわけでいつかは書くだろうと誰もが予測していたような気もしなくもない、響ナルですよ。
 若干口調を17歳響也さん寄りにしています。敬語響也さんでも良かったのですがね。
 まあいずれどっちかで統一されるでしょう。多分。

 とりあえず、出会い編……というか、始まり編。
 そしてなんでミツナルじゃ不可能なくらい甘いんですか、ラストの二人。解らない………(汗)

08.4.9