柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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静かにその人は目を伏せる。
思いの外長い睫毛が、震える。

それは決して涙を流さず
それは決して慟哭をあげず

それは決して、人に荷を預けない。


それでもその人は精一杯生きて
そうして、全てを受け止めようと
そう心砕いていると思うのだ。

波紋を作る、小さな小さな欠片たち。
それがどうか優しいものでありますように。

この人を、傷つけ悲しませないように。


力ない指先のまま、ただ祈った。





それは美しく透き通って



 久しぶりに帰ってきた自宅のドアを開けると、一瞬絶句する。
 いや、無言の中の絶句はおかしい。ならば、息を飲んだと言うべきか。
 そんなことを考えながら、足元に適当に脱ぎ散らかされた靴を見る。確かに自分のものではない、男性用の靴が一足、我が物顔で鎮座している。
 瞬きをしても消えないそれは、決して疲れからくる幻覚では無かった。
 そう認識したなら、浮かんだのは小さな笑みだった。
 「成歩堂さん?いつ来たの?」
 靴を脱ぎながら室内に声を掛けるが、返事は無かった。確かにドアを開けてから今この瞬間まで物音もしない。
 もしかしたらまた寝ているのだろうかと、少しだけ肩を竦めながら足を進める。
 リビング兼自室の広い部屋には、奥にベッドとクローゼット、その対面に音楽機器と楽器が置かれている。
 手前に目を向ける事もなく、真っ直ぐに初めからベッドを見遣る。当然のように闖入者はそこで背中を丸めて眠っている。
 まるで初めから家主が来る事を知っているかのように、顔を見せないよう背中を向けたまま。
 思った通りの姿で思った通りの人がそこに居る事に満足しながら、肩にかけた荷物を床に置いてキッチンでコーヒーを煎れる。
 彼も飲むだろうと二杯分煎れて背中を見ると、いつの間に起きたのか、ベッドにだらけたまま彼が身体ごと転がってこちらを見ていた。
 「おはよう、成歩堂さん。いつから来てたんです?」
 それに苦笑し、もう一度彼に声を掛ける。
 頭を掻いて眠そうな眼差しのまま、彼はぼんやりと瞬きをしたあとに身体を起こした。猫のような仕草だと胸中苦笑しながら、ベッドに近づいた。
 「確か………お昼くらい、かな」
 欠伸を噛み殺して呟いた言葉に、今現在の時間を考える。今日はバンドの方の広報活動で、普段よりは早めに帰れた。とはいえ、夜に足をかけた夕方程度で、外は既に暗いけれど。
 「ならあまり寝れてないかな。まだ寝るなら、コーヒーは止めた方が……」
 「いや、起きるよ。貰えるかな」
 きっと疲れているだろうと、差し出しかけたコーヒーを引っ込めようとすると、その手首に指先が触れる。ひんやりと冷たいのは。彼が冷え性だからだろうか。
 いつもは寝汚い程よく眠るくせに珍しいと、そんな揶揄を込めて目を瞬かせてコーヒーを渡す。
 熱いカップを眉を顰めて飲みながら、彼は溜め息のように吐息を落としてベッドの下に座った自分の隣に足を降ろし、ズルズルと降りてきた。
 隣に座る人の顔をよく見ると、随分疲労が色濃い。クマも濃くなっているし、また無茶な事をしているのだろうと、予想ではなく確信で思った。
 飲み込むコーヒーは苦く、胃が痛くなりそうだ。物理的ではなく心理的な要因でそうなる事を誤摩化すように考え、そっとコーヒーを眺めている伏せがちの瞳を覗き込む。
 揺らめくように、優しい大きな瞳が暗色のコーヒーを眺めている。同じ色に染まる事もないくせに、彼が背負っている過去はこのコーヒー同様に黒く染まっている。
 その原因を知っているけれど、その蟠りごと、今ここに彼がいるのは現実だ。
 未だシュミレーション裁判は準備段階で、巻き込まれるように指名されてからも現実感は薄い。
 彼は相変わらず、いつも喰えない顔をしてふらりとやって来ては資料と討論を繰り返し、やはりふらりと勝手にいなくなる。そのくせこの人は、何年も現役から退いていながら、舌を巻く程に強かに論説をしてみせるのだ。
 彼の親友の影響が強いのか、直感から辿々しく肉付けされていく弁舌に、骨という中核を作り肉を付ける作業が格段にレベルアップしている。
 それは、少しだけ尊敬出来る場所だ。………検事という立場としても、それ以外でも、彼を尊敬するなど口に出すわけにはいかないけれど。
 「で、今日はどうしたわけ?また寝にきたのかな」
 以前廊下で眠り込んでいた時以来、どうせホテル兼倉庫のような場所だからと鍵を与えた。以来、気兼ねなく来ては、勝手に寝て勝手に出て行っているらしい。
 今日もその類いかと思い苦笑を浮かべてみれば、帰ってきたのはいつもの悪びれない謝罪ではなく、沈黙だった。
 じっと、彼の眼差しはコーヒーを見つめている。澱んで底など見える筈のないその暗い湖面を、ぼんやりと見つめている。
 その目が、また揺らめいて見える。寝起きのせいかと思ったが、あるいは違うのだろうか。
 不敵に笑い、のらりくらりと躱しては肝心な事は全て自身一人で抱えてどこかへ行ってしまう彼は、飄々としていてどこか寂しいものだ。
 そんなことを考えて、不意に伸ばした指先がその頬を撫でてしまった。
 案の定驚いたように目を開いた彼は、コーヒーではなく自分を見つめ、怪訝そうに眉を顰める。ついで、まだ触れたままの指先を牽制するように睨んだ。
 そういえば先日何故か誘われるように抱き締めたのも、こんな顔をしていた時だった。すっかり警戒をされたのか、先程までの気が抜けるようにぼんやりしていた顔が消えて、笑みのポーカーフェイスが浮かぶ。
 「どうしたのかなって、僕が聞くべきかな?」
 そんな可愛げのない事を呟く声は、とっくに寝起きのそれから解き放たれて隙がない。
 理由のない行動に説明などある筈もなく、時折訪れる野良猫に会えるのが楽しいような、そんな心地で彼の靴を見る意味も、まだ答えが出ない。
 それでもいま確かにここにいるのだから、気になった事くらいは手を伸ばす権利はあるだろう。それすらないというなら、彼とてここに来る筈もない。
 そう思い、頬に触れていた指先を滑らせ、首に回す。ぴくりと眉が動き、彼の緊張が伝わった。
 嫌なら振りほどけばいいのに、きっと彼は今、それを拒めない。それを何となく解っていながら仕掛けるのだから、あまり自分も褒められたものではないと苦笑が浮かんだ。
 「それはやっぱりボクの台詞、かな。あんたって、結構悲しがるよね、色んな事」
 「…………?」
 不可解なことを言うと言わんばかりに、また彼の眉の顰め方が悪化して、自分の上司並みに眉間に皺が刻まれた。それを面白がるように眺め、もっとよく見えるようにとそっと近づく。
 あまり表情を変えなくなった最近の彼の、それは珍しい仕草だ。それくらい、なにか他の事に心奪われているという事なのだろうけれど。
 「そういや喉痛めたり肌のケアがなってなかったり、意外とあんた、肺タイプなのかな」
 「……………牙琉検事、まったく話が見えないよ。あと、ちょっと距離近くないかな」
 不意に顔を逸らし、まるで遠くを見つめるように意識をも逸らせた彼が呟く。確かに彼の言う事はもっともで、もしも今そこに居るのが女性なら、確実に口吻けるタイミングの距離だ。
 けれどそれを無視して、その至近距離のまま言葉を続ける。
 「今日の撮影で、漢方が趣味って人と一緒だったんだよね。で、漢方って五臓って言うので体質タイプを分けたりもするんだってさ。詳しいのは知らないけどね」
 「……それとこの状況、関係あるのかな」
 「あるかもね。原因としては、さ」
 あくまでも冷ややかな音色を紡ぐ唇は、それでもはっきりとした拒絶は紡がない。
 逸らされたままの視線はいつの間にか平素の表情に戻り、刻まれた皺は綺麗に消えた。相変わらず意識の切り替えが上手いと内心舌を巻いた。
 なかなか彼は揺さぶりにかからない。それはきっと彼自身の戦術のひとつであったからこそ、どうすれば回避出来るかもまた、よく知っているせいだろう。
 手強い相手だ。だからわざわざ相手するような、そんな義理もないのに関わる事もない。
 ないのに、どうしても気になるのだから仕方がない。気になった事は徹底的に調べて解明しなくては、禍根を遺す。………もっとも、プライベートにまでそれを行なえば、逆に禍根を招くけれど。
 解っていて、それでも言葉は止まらなかった。
 「肺タイプってね、喜怒哀楽が激しい分、悲しみを一番感じやすいらしいよ。体力が落ちていると、考え過ぎて泣き出したりね。……心当たり、ない?」
 「…………………」
 「それとも、意識がない時くらいしか泣けない、かな」
 首に回した指先を、眦に滑らせる。
 別に目も赤くない。涙の跡もない。確信も当然、ない。
 それでもまるで知っているかのように言い切った。それは彼がよく使うはったりで、だからこそ見抜かれる可能性も高かった。
 「なんのことかな」
 無言で受け流していた彼が、呟く。真っ直ぐにこちらを睨むように見据えて。
 見抜かれるかと思ったそれは、存外あっさりと彼を誘き寄せたらしい。上出来な結果に思わず会心の笑みが浮かべば、それだけで事実を看破したのか、彼は忌々しそうに顔を顰めて逸らした。
 それはどこかバツの悪そうな顔で、悪さがバレた子供のように感じた。何故かそれがひどく微笑ましい。
 「………別にね、説教する気もないし、する立場でもないけどさ」
 「なら、黙っていてくれるかな」
 「でもさ、だからこそ、あんたはここに来るんだろ」
 眠るために、休むために。色々な事に疲れて心が麻痺しそうな時、あまりに心砕く人だからこそ、周囲の人にそれを晒せない。
 溜め込んで溜め込んで、そうしてそれを全部、一人で抱えてどうにかしようとすれば、当然いつかはパンクする。
 だから、ここに来るのだろう。
 決して慣れあわないだろうと彼は安心しているから。自分の心境ひとつで憂えたり同じように悲しんだり辛い目にあったり。そんなことに振り回されずに淡々とただそこに居るという、それだけの存在だから。
 他人だけれど、それよりは近い距離で。
 それでも決して彼の悲しみに染まらないから、彼はそれに冒される時に、やって来るのだろう。
 「なら、遠慮もいらないし、無駄なプライドも必要ないんじゃないかな。別にあんたが大泣きしたって、あんたのためにボクは泣かないよ」
 彼の眦を撫でるようにくすぐる。痙攣するように目の周りが引き攣って、それを耐えるように彼の唇が結ばれる。
 悲しい時は寂しいだろう。寂しければ、ぬくもりが欲しいだろう。
 そうして、それらを渇望するくせに、彼はそれを親しい人たちに晒せない。晒す事で己の憂いに染める事をこそ、恐れるから。
 それでも、自分ならいいだろう。彼の悲しみに染まる理由などないのだと、そういい切った。
 それは確かな事実で、ほんの少しだけ、嘘だけれど。
 「………君は、結構狡いよね」
 「心外だね」
 彼の可愛げのない言葉に苦笑した瞳は、思いの外柔らかかった。
 ぽたぽたと眦を触れる指を避けるように床に向かって落ちる涙は、無表情な顔からただ落ちる。
 だらしのない男の目から落ちる涙など綺麗な筈もないのに、それはひどく美しく澄んでいた。悲しみが純化させるのか。………濁らせる事もなく。
 不可解な現象だと思い、それをよく見ようと近づけば、間近な瞳とぶつかった。
 それはあまりに近過ぎて、焦点も合わない距離。
 「……………それに、あくどい、かな」
 不意に零れた言葉とともに、彼が笑んだのが解った。
 輪郭の滲んだ距離で、瞳を見つめていながら、それでもそれが解った。
 ………触れる唇が、確かにその笑みを食んでいたから。
 もう一度彼は、きっと同じような言葉を口にした。それを飲み込み、互いに滲むコーヒーの香りを味わった。


 どうして、とか
 なんで、とか
 聞こうと思えば多くの疑問が浮かぶ。

 それでも問う事で悲しみを深まらせるなら
 それならば、なにも問わない。

 だから、悲しみなど出し切ってしまえばいい
 たったそれだけのことでいつものあなたに戻るなら
 ほんの少し痛む胸など、悲しみにもあたらない。

 ただ、笑んで。

 いつものように、飄々と、遥か彼方に佇む人よ。





 以前薬膳酒の本を読んで、物の見事に私は肺タイプだった(笑)
 ええそうですね、よく悲しがりますね。
 でもだからってそれ全部を誰かに打ち明けている筈もなく。
 むしろどうにか向上した後じゃなきゃ言う気にもなれん。言って相手も同じ負担抱えたら嫌だしな。
 そして悲しがるのと同じ程に、我が家は家系的にポジティブ。前向きっていいこと♪
 それでもパンクしそうな時は、なにかにぎゅーっと抱きついて誤摩化します。
 最近は龍笛がそれを和らげてくれるのでとても有り難いですがね。
 成歩堂もそんな感じかなーと思うのですよ。
 優しい人は悲しい事をよく知っていて、それを感じるから、優しくなれるのかな、と。
 そういや、ところどころ赤いひらひらなアイツが見え隠れしていますが、響ナルでは姿表しませんよ。
 今回も本当は出すつもりだったけど、あっさりカットされたから!(笑)

10.2.6