柴田亜美作品 逆転裁判 NARUTO 突発。 (1作品限り) オリジナル (シスターシリーズ) オリジナル enter |
無意味に恐いもの。 燃え尽きたあとの灰(前) 目の前をバッタが過った。じっとそれを見つめる。ふと、足を持ち上げて、下ろす。 そして地面に作り上げられた、自身の足跡を見つめる。逃げるだろうと思っていたバッタは潰れ、そこに横たわっている。 つい今さっきまでは、精力的に飛び跳ねていた筈の黄緑色の哀れな末路を、ただ無感動に見下ろす。 子供はほんの少し視線を泳がせた後、何事もなかったかのように駆け出した。 足を踏み入れたのは草原だった。まばらに土も覗く、自分達の身を寄せる箱の、すぐ傍にある遊び場だ。 手に持っていた図鑑は重く、子供の身体には不釣り合いな程大きかった。けれどそれを鬱陶しく思う事もなく子供は駆ける。 空は薄い雲に覆われていたが、風は澄んでおり雨の気配はなかった。風は少し涼しいくらいで、駆ける子供には心地よい。 それに機嫌良く口の端を笑みに染め、子供は辺りを見回し、目的地であった木の根元に駆け込んだ。 辺りに人の気配はない。首を巡らせてそれを確認し、子供は手にしていた図鑑を、ポケットから取り出した紐で背中にくくりつけた。 そうして、もう一度辺りを見回した後、小さな手足を精一杯伸ばして活用し、その身体には大きい木を登り始める。 木は、さして登りづらいものではなかった。子供の背よりも少し高い位置にロープがかかっており、それは地面に一番近い太い枝へと結び付けられていたからだ。 もしかしたら、ブランコのような形にされる筈だったのかもしれないそのロープは、けれど忘れ去られたのか、興味が逸れてしまったのか、ただ一本だけ中途半端な位置で揺れていた。 それはとても子供にとって好都合だった。にんまりと笑い、その笑みが誰にも覗かれていない事をこそ、子供は喜んだ。 伸ばした腕がロープの終わりに辿り着き、子供の四肢を合わせたよりもなお、太いだろう枝へと触れる。 両手をあてがい、鉄棒で遊ぶかのような身軽さで身体を寄せると、次の瞬間には子供の身体は枝の上に乗せられていた。 手慣れた様子に、子供がそこで時間を過ごす事の多さを伺わせるが、それは他の人間は誰も知らない事だった。 新しい本を手に入れると、子供はここに駆け込んだ。他の誰にも邪魔をされず、じっくりと本を読める。それが保証される場所は、ここしかなかった。 自分が連れてこられた箱の中にも、確かに自分用のスペースはある。同様に、誰もが居座っていい場所も、食事をする場所も。 その箱から見える範囲の自然の宝庫もまた、自由といえる。あるいは箱が作り上げた中庭といわれる場所も、それに加えられるだろう。 けれどそのどれも、自分にとっては自由ではない。いつ大人がそれを奪うか解らない。 ここに運び込まれ、生活するように言われた。ここが何という名かも、どういった場所かも知っている。 知識は足りなくても、大人達の言葉を理解出来ないわけではない。むしろいつか与えるべき報復のため、その言葉一つさえ忘れず活用出来るように、考えるという行為は常日頃……それこそ、あの悪夢のような月日の中で繰り返し行ってきた。 だからこそ、与えられた言葉とその意味を考え、その答えを導く事は難しくなかった。自分でも知っている言葉で説明しようと、大分噛み砕いて話した大人の笑みを思い出す。 明るい部屋で、窓から風がそよいでいた。食べ物をくれたその大人達は、哀れむような目を……濡れた目をして自分の頭を撫でようとした。 もっともそれを拒んで椅子から飛び跳ね、部屋を出ようとしたのは紛れもなく自分だったが。 それを見て、驚くよりもやはりその大人達は悲しんでいた。 捨て犬でも見るような同情をたたえた、濡れた目。唾棄しそうな自分の心情に反応したかのように、唾液と一緒に食べたばかりの食べ物が競り上がり、床に撒き散らされたのも記憶に新しい。 付け入る隙を与える事を恐れて、その合間すら睨み、距離をとる事を止めない自分を見る、見下ろした目。 思い出しながら腹が痛む気がした。意味のない痛みに顔を顰め、子供は腹で結ばれている紐を解いた。少しだけ危ない手つきで大きな図鑑を木と腕で支え、身体を反転させる。 木の幹と向かい合う形で図鑑を枝の上に広げ、食い入るように子供はそれを読み始めた。 色とりどりの花や植物の写真、図解、説明とともに分布図も別のページに載せられている。まだ子供の年齢では理解する事の出来ない文字の多い、それは大人向けの図鑑だった。 けれどそれは、ずっと子供が欲しかった図鑑だった。 読む事の出来ない文字は飛ばし、理解出来る文字だけは拾って、暗号のような言葉を想像と推理でなんとか補完しながら見つめる。 美しい花弁、力強くしなやかな茎。風を孕んで空を飛びそうな葉。まるで夢物語の中にでも迷い込んだ心地だった。 それは決して自分が手に入れる事の出来ない、未来のようだった。 薄暗く狭い物置の中、放置されたボロ雑巾のような状態では、到底手にする事の出来ないものだった。 擦り切れ煤けた、古い本ではない。新品の、自分の図鑑だ。隠しておかなければ捨てられる、そんなものでさえない。この幸運をどう表現すればいいのか、未だ子供には解らない。 あの、見知らぬ男と母親だった筈の女の元から引き離されて、連れてこられた、やはり見知らぬ大人達のたむろす箱は、自分には理解不能の思想とともに、自分を救うのだと言っていた。 いつかは逃げ出すつもりだった牢獄からの突然の解放は、自分には疑心しか与えはしなかった。 けれど逃げ出さないのは、少なくともここは食べ物を奪われる事はない、それだけは解ったから。それ故に敢えて逃げ出さなかっただけだった。 力を蓄えた後は、さっさと逃げ出そう。いつ、ここの大人達も豹変するか解らない。あの男や女が変わってしまったように。 幼かろうと、自分はきちんと知っている。自分と同じ形をした生き物は、大小関係なく、狂うのだ。それがいつかは解らない。けれど必ず…………狂うのだ。 だからそれがまた自分に害成す前に、逃げなくてはいけない。 それまでの、仮初めの安寧のみ舐めとろう。枯れる花の最後の蜜を吸い取るような、そんな微細な時間ではあるかもしれないが。 図鑑に載せられる写真を幸せそうに見つめるその顔と、去来する意志の差は計り知れない。それでもそれは、さして自分の住う箱の中では珍しいものでもないと、子供は不思議に思う事もなく、またページを一枚先に進めていった。 半年もすると段々と解ってくる事がある。 ここはとりあえず危険が少ない場所だ、という事。少なくともあの、自分がいずれ排除しようと決めていた生き物が現れる事もない、という事。 それは若干の張り合いのなさを伴う、空虚な虚脱感を知らしめはしたが、それも日々の生活の中で薄れ消えていった。ただ忘れがたいのはあの日々、自身の肉体と記憶、…………あるいは無意識という意識に刻まれたものだった。 図書館から借りた本を手に、共有スペースで本を読んでいる時、時折それが襲ってくる。 名前を呼ばれ振り返った瞬間の、一瞬の空白。 その後は大抵意識を失っていて覚えてはいない。月に一度、多ければ数度。それでもなくなりはしない、まるで癖のようなもの。 何故にそれが起こるか解らない。解らないから、防ぎようもない。ましてそれがあの日々の残した傷跡だと、大人達が言う通りであるというのならば、尚更自分は目を向けたくはなかった。 忌々しいだけだ。自分という個の剥奪だけを想起させる、あの空間の記憶。携える価値もない。その事で思い煩う事すら厭わしい。 それらを忘れるためのように、仲間が増えていく。この箱の中は、さして多くの生き物はいない。自分と大差ない大きさの生き物が10名もいない。シスター達は日によって違うが、常に3名は必ずいた。 ただそれだけの空間だった。神父もいるが、通いだから常にいるわけではない。ボランティアや信者も入れ替わり立ち替わり現れるが、やはり常ではなく、毎日でもない。 だから日々はひどく単調で、呪わしい程平穏だった。 だからこそ、他者に近付く事が出来たのかもしれない。元々集団の中に紛れる事は慣れていたからか、戸惑いはさして大きくはなく、すぐに子供は馴染み、仲間達の世話を焼くようにもなった。 もっとも、それは一般に思われる程のものではなく、隅に固まる人間の傍にタイミング良く近付いたり、不要な事までしゃべってしまう者や、逆に話す事が出来ずに押し黙る者にうまく話を誘導したりおさめたりと、そのようなちょっとしたものだった。 そしてそのちょっとしたものは、実際に行動の世話を焼く以上に、子供たちにとって重要でもあった。 同様の立場を、形こそ違えど味わったからこその推察や熟慮は大人達にとっても参考になった。 それらが子供の年齢から獲得するには早すぎるものだとは解っていても、未だ不馴れな大人達にとっては、有り難い味方でもあった。 …………それ故に、子供が発作のように痙攣や呼吸困難を起こしたり、あるいは衝動的な破壊衝動にみまわれ暴れる時、途方に暮れる事はしばしばあったのだが。 それらへの対処は出来る。子供以上に、そうしたアプローチは大人の方が熟練だ。が、その原因というべき、真なる核に触れる事はどうしても出来なかった。 あまりにも彼は成熟しており、他者を観察し区分出来たため、自身の事を誰かに理解してもらおうと、救ってもらおうとその手を差し出す事がなかった。 あるいは、彼は既に諦めていたのかもしれない。この、自身と同種の生き物は、大小の区別に関係なく、他の生き物ために何もする事は出来ないと。いずれは皆狂い、他者に仇なすと。 そしてそれは自身もまた、例外なく加えられているのだと。 滑稽なほどはっきりとそう感じ、また事実、理解もしていたのかもしれない。 だからこそ彼は時折、自分を見つめ問いかけるように話す生き物を、眉を顰めて見返す。 「言葉は伝えなければ伝わりませんよ?」 そもそも言葉など、本当の意味はないというのに。 言葉などなくとも伝わるものはある。 それは害為す衝動だ。 腕の動き、身体の震え、頬の紅潮、目の動き、瞳の伸縮。数を上げれば切りがない。音など不要な、明確な意思の表示。そして行動。 それは必ず、生き物全てに備えられている機能だ。 それを少しでも回避するためには、確かに言葉は必要かもしれない。けれど結局はそれを先送りにするためだけのものだ。特効薬でもなんでもない。 だから無意味だ、と。 子供は、しゃがんで自分と同じ目線で話すその生き物に、顔を顰めたまま、まるで当たり前の理に疑問を挟む子供に告げるような声で、言った。 会話文は出来るだけ削除で。子供の視線と後々の述懐風にまとめてみました。 まだ誰も信じる事のない、人間というもの自体への不審と諦観の色濃い(むしろそれしかない)頃の話です。 自分を傷つけ殺めるだけだと解っている生き物を信じる事も好む事も、とても難しい。 …………不可能に近いくらい、難しい、そういう頃の話。 06.9.13 |
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