柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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泣いているように、見えた。
泣きたかったのは自分でも
泣けなかった理由はきっとそれ。

彼は悲しみを何かに被せなければ立てない人なのかも、しれない。
激しい感情の本流の先、それはとても繊細で脆い。
深い悲しみを知るが故に、彼はきっと心優しい人なのだ。

自分以上に青ざめた顔で
川から自分を引き上げた彼の腕に触れながら
寂しい思いに包まれ、思った。





散り逝く花の彩る空は(後)



 掴まれた腕は、痛くない程度の強さだった。
 何かを自分から願う事は不得手だった。それでも自然に落ちた言葉は、多分、熱の後遺症のようなものだ。
 彼がそれを受け入れるとも思っていなかったけれど、彼は優しいから、ここ数日ベッドから起き上がる事も出来なかった自分を気遣ってくれたのだろう。
 空には綺麗な月が昇っていた。時折それは雲に隠され、また現れる。まだ花火は見えなかったし、遠いこの地点には、その音も響きはしなかった。
 ふと気付けば、町とは違う方向に歩いている事にようやく気付く。
 彼に腕を引かれているせいで不安はないが、もしここでその手を離されたなら、自分は院まで帰る事は出来ないだろう。
 それは、方向が解らないとか、夜になって様子の変わった周囲に迷うという事ではなく、純粋に体調の問題で、だ。
 彼は自分よりも身体も大きく、当然、足も早い。時間も迫っていたし、彼は急いでいるのだろう。
 それを自分も咎める気はないが、もつれそうな足を急いで動かす分、普段以上に体力の消耗は早かった。それは当然、ここ数日の高熱が尾を引いている事でもあるのだけれど。
 微かに息を切らせながら、それでも彼の背中を追いかける。自分の腕を引き歩いてくれる人は、記憶になかった。
 ………否。ある。たった一つだけ、自分の内側に残っている映像が、それだ。
 覚えていたいのは、今こうして自分を導いてくれる背中だというのに、自分の中に残るのは暗闇だけで。ポッカリと、穴の開いたような空虚感が消えない。
 何かに追い立てられているような、そんな焦燥感さえ伴うそれは、穿たれた穴を塞ぐものを探し求めている。
 けれどそれが容易に手に入るものではないと、幼い自分でも知っていた。それがなんであるかを解らない癖に、得難いものなのだと、それだけは知っていた。
 そう考えたなら、ちくりと胸が痛んだ。それはいつもの喘息発作の予兆とは違い、じんわりと広がり微かなぬくもりを教える。不可解な感覚だ。
 彼は無言で歩いていた。自分は必死でそれに追いすがり、彼に掴まれた腕が引き剥がされないように足を動かす。
 今が夜で良かったと心底思った。もしもあの暑い日差しに焼かれた日中であったなら、こんな風に動く事は出来ない。日差しにねじ伏せられ、今頃は倒れているだろう。
 きちんと、自分の身体を知っているのだ。だからこそ、決して回りに悲しみをしみ込ませないように生きている。
 …………あの幼い日に別れた母の面影のように、あんな悲しみに染まった影を、また自分という存在が作り上げないように。
 息があがる。彼の足は留まる事を知らず、微かな勾配の坂を迷いもせずに進んでいた。
 呼吸が難しく、微かな喘鳴が喉を襲った。それはひどく息苦しそうで、周囲の人にそれを晒さないように、いつもはハンカチで押し隠していたその音に気付いたのか、突然彼は足を止めた。
 僅かな間があった。どうしたのかと彼を見上げるよりも、必死に酸素を肺に取り込む。身体が脱力感に包まれそうになるのを、せめて支えるために。
 そうして息を継いでいれば、不意にぎこちない仕草で彼は振り返り、ひどく複雑な目の色を晒した。
 それは、傷ついた子供のようだ。叱られた幼子のような、怒りに満ちた大人のような、荒れ狂う咆哮をあげる獣のような、色。
 その色を確かめたくて、じっと見上げる。真っ直ぐに映されたその双眸は、瞬きすらせずに逸らされ、また小さな彼の背中が映る。
 どうしたのだろうと目を瞬かせていれば、また彼は歩き始めた。休憩をするわけではなかったらしい。
 けれど周りの景色が流れる速度が変わった。まだ、少しだけ歩調は早い。けれどそれは自分にとってであり、彼にとっては普通か、あるいは少し遅めくらいなのかもしれない。
 彼はいつも太陽の下、元気に走り回り森の中に回帰する風のような、人だから。
 じっとその背中を見つめる。小さな背中だ。自分よりは大きいけれど、シスター達とさえ比べられない。当然といえば当然だろう。彼は自分より数歳年上なだけの、ただの小学生なのだから。
 「…………………」
 ふと思い、問いかけようとした言葉は、けれど霧散した。きっと、今問いかける事は彼を傷つけるだろう。彼はどこか潔癖で、自分の不用意な言葉に悲しみ、傷つくから。
 もうどこをどう歩いたかなど、自分には解らない。自分の行動範囲は狭く、今ここがどこに位置するかどころか、既に院の方向さえ解らないのだから。
 だったらもうその事実だけでもいいと、思った。
 手を掴んでくれる人がいる。迷わないように倒れないように、自分を支えようとしてくれている。
 彼は幾度も自分を傷つけ、悲しみと苦しみと混乱を与えはしたけれど、それでもそれ以上の幸を与えてくれた。
 あの小手毬に泣いた日、彼は自分が欲しかったものを確かにくれたのだ。
 彼は知らず、自分に色々なものをくれた。その度に彼はどこか辛そうな顔をしていたけれど、その意味が何となく今、解り始めた。
 ………人というものはなんて不器用で面倒で、けれど愛しい生き方をするのだろうか。
 何かを必死に与えたくて。けれどその方法が解らなくて、傷つけては傷つく。
 きっと彼のあの顔は、今の自分のものと似た思いから醸されているのだろう。それはどこか傲慢なものの見方だが、さりとて卑下するにはあまりに煌めいている。あまりにも、尊すぎる。
 方法を知らない事は愚かでも、思い馳せる事は祝されるべきだ。他のどんな人がそれを嘲笑い誹ったとしても、自分はそれを素晴らしい事なのだと微笑もう。
 遠くで微かに爆発音が聞こえる。物語の中では空を揺るがす程の轟音というけれど、自分の耳に届くそれは、ひどく小さく微かだった。
 ぼんやりとそんな事を思いながら、僅かに整い始めた息を飲み込んで、目の前の背中を見つめる。
 ゆっくりと目を閉ざし、思い描く。
 彼の顔。彼の腕。彼の、その背中を。

 そうして暗闇の中、翻ったのは……………栗色のソバージュ。

 何もかもを否定したいどす黒さが身を占めて、それを拒絶するかのように目眩が襲った。喉が焼けるように引き攣って、鈍く響く咳が数度、口から吐き出される。
 息苦しさに滲んだ涙が視界を曇らせ、自分の咳の音が、耳へ届く筈の彼の声を遮断した。
 遠くで彼の声が聞こえる。焦った、音。必死に繋ぎ止めようと、握りしめられる指先が痛かった。
 もしも。………もしもあの日、院へと連れられたあの日、ただの一度でもこんな風に、今以上に小さかった手を強く握りしめてくれたなら、泣けただろうか。
 仕方のない事だと、自分はいずれいなくなるから仕方がないのだと、そんな風に諦めるように別れの言葉を口ずさむのではなく…………
 霞んだ視界には、正しい映像は映りはしなかった。闇色の視界は、記憶を検索する際に訪れるあの闇によく似ていた。
 けれどそれを打ち破ろうとするように、指先がじんじんと痛みを訴える。何もないのではなく、自分が見えていないだけなのだと訴えるように、それは熱を伝え傍にいる誰かの存在を克明に知らしめた。
 その痛みは、優しい言霊だ。言葉へと換わる事の出来ない感情のように、ただ必死に願うように縋る指先。
 脱力するままに膝をつき、肩で息をしながら喉奥で蟠る咳を吐き出し、清潔な酸素を求めるように、また息を吸い込む。
 呼吸の最中、何かが口元を覆った。喉に噴霧されるようにして、慣れ親しんだ薬の味が広がった。
 何であるか悩むよりも、ずっとそれは自分に馴染んでいる。いつも携帯している吸入器だ。いつ発作を起こすか解らないからと、巾着の中に入れていたが、それを宛てがわれたのだろう。
 知らない内に取り出されていたが、きっと少年が吸入器の事をシスターから聞いて、どこに携帯しているかを知って、必要な場合は渡すよう指導されていたのかもしれない。
 幾度となく彼には、こうした事で迷惑をかけている、から。
 何度も何度も彼の前で倒れては、彼に驚きと衝撃を与えている。そして同時にそれは、シスター達からの評価として、彼に悪影響を与えているのではと危惧してしまう。
 違う、のに。決して彼が悪いわけではないのだ。彼等と同じだけ動く事の出来ない自分を、どう理解しろというのか、自分にさえ解らない。
 人は自身を尺度に物事を見るというのに、あまりにもかけ離れた位置にいる自分を知れなど、不可能極まりないようにさえ、思える。…………自分が、彼等が駆け回った時に感じる気持ちを知れないのと同じように。
 背中がさすられる。きっとその指先は震えているだろう。もっともその姿さえ、今は確認出来る程の余裕はなく、まして震えている自分の身体では、他者の震えは感知出来ないけれどそれでも。
 それでも彼は、辛く思っているだろう。小さな手で、それでも必死に背中を撫でて、吸入器が外れないように支えてくれている。
 暫くするとなんとか咳は治まった。もっとひどい発作へと発展しなかった事にほっとする。
 咳が消えた事を確認するような沈黙の後、長く吐き出された溜め息。安堵を知らしめるようなそれに、まだ力の入らない指先で答えるように、彼の服の裾を引いた。
 寄りかかる場所のない道の真ん中だ。小さな少女の身体は、自力で支えるにはその小ささでも重いのだろう、寄り掛かるように少年にもたれ掛かっている。
 「…………寝た方がいいのか?」
 微かな逡巡の間、少年は辺りを見回した。
 この辺りで、横になれそうな場所はないとはいえないが、それでも自分の持つ荷物の中に、彼女を横たわらせるだけの広さのシートはない。
 元々自分はそんなもの使用するつもりはなかったので、シスターに借りた風呂敷が一枚あるだけなのだ。
 自分達はシートなどあろうがなかろうが、気にもしないで座り込むし寝転がる事もあるが、彼女の肌は草にさえも侵されそうな気がする。………もっともその感傷は、どこか自分自身の中の痛みに基づくものなのかもしれないけれど。
 どこかに連れていこうかと、その肩を掴んで支えるように立ち上がらせようとすると、小さな音がくぐもるようにして微かに響いた。
 それは、声というにはあまりにか弱く掠れていて、少年は埒の明かない夢想に浸りそうになり、ゾッと肌を粟立たせた。
 「……座………た方、が、いい…の」
 「…………………?」
 「寝る、と、息……出来…な、い……………」
 聞き取りづらい音を、それでもなんとか判別し、少年はそれならと、自身の荷物を前に抱えて少女の小さな身体を背中に背負った。
 幾度か行った事のあるそれは、いつだって自分が原因で少女が歩けなくなった時だった。今は少し違うかもしれないけれど、結局は自分が彼女を誘い出したが故に招いた結果なのだろう。
 本当に、いつだって自分は彼女にとってマイナス要因だ。与える事は出来ず、搾取するばかり。それを幾度も後悔する癖に懲りもせずに同じ事を繰り返し、彼女を疲弊させるのだ。
 小さな身体は、同じ子供の自分にも容易く抱える事が出来る。
 それは同等の意味で、呼気すら奪えるという、事。
 思った瞬間、ザワリとまた肌がざわめいた。
 自分は知っている。殺める事の容易さ。人の身体の脆さ。だからこそ、自分は自分よりも幼い命が苦手だ。衝動的に壊しかねない脆さが恐怖を呼ぶ。
 まして彼女は、他の人間よりもずっと繊細だ。それはあの日見た天使の幻影に表されるように。
 それなのに、絶えずこの腕は彼女に向けられる。何かを与えたくて。………そうして傷ばかりを与えて、彼女は奪われた羽を見つめるように遠くどこかを、自分達など及びもしないどこかを眺めている。
 自分を見ていないと解る瞬間程の責め苦もないと、苦いものを噛み締めるように奥歯を合わせた。嫌な音が体内で響く。背中に額を埋めた少女に、それは響かないだろうかと一瞬思うが、特に彼女からの反応はなく、ほっとする。
 見て欲しかった。あの日見つけた木漏れ日の天使に。こんなにも薄汚れた自分でも、それでも精一杯生きているのだと。必死に人を傷つけずに生きる道を模索しているのだと。
 自分に与えられた傷を、人に与えることなく、生きたいと願っているのだ……と。
 それらはあまりにも、自分勝手な願いの押しつけだ。そう知ったのは大分後で、その頃から余計に彼女を見つけたなら突っかかる事が増えた。本当は誰よりも優しく接したい存在な筈なのに。
 「あ……………」
 不意に背中から声が響いた。
 どうしたのかと思えば、僅かに彼女の頭が動き横を向く。同じ方向に視線を向ければ、そこには小さく花火が見えた。
 大分急いで歩いていたおかげか、もうすぐそこに自分が見つけたポイントがある。この辺りの開けた斜面であれば、町の方向を向いているし、小さいけれど花火は見えた。
 小さな声は掠れながら、キレイ、と辿々しくいった。
 おそらく花火を見たのは初めてなのだろう。写真や絵では見たことがあっても、彼女は実物を知らないものが数多く存在していた。否、知っているものの方が、圧倒的に稀なのだ。
 だから懺悔のように、この場所を探した。
 ここ最近の自分の所行は、自分の願う生き方から掛け離れているどころか、正反対だ。傷を与えると解っている事ばかり繰り返している。
 彼女の知らない何かを与えたなら、あるいはこの間、青年に見せたように微笑んでくれるだろうかと、そんな浅ましさがなかったとはいわないけれど。
 もっとも声をかけに行くのを躊躇い続けて、結局時間もギリギリにようやく彼女の部屋へと行き、結果、また彼女の身体に負担をかけてしまった。
 プラスのものを与えようと思えば、マイナスを与えてしまう、この悪循環はどうにかならないのだろうか。
 深く吐き出しそうな溜め息を飲み込み、少年は大樹の根元にやってくる。不思議な程この開けた場所の中、その木は一本だけ大きな幹を晒し大振りの枝をそこかしこと伸ばしていた。
 その幹に寄りかかるように少女を下ろすと、多少ふらつきながらも、彼女はきちんと自分で立ち、木を抱きしめるようにして座った。…………まるで母親に縋りつく赤子のように。
 幾度かそうして深呼吸をする少女の隣で、少年はリュックからシートや水筒、弁当などを取り出す。
 元々ここに来たのは、花火を見ながら夕食を摂るためだった。すっかりそんな雰囲気もなくなっているけれど。
 「………花火…」
 リュックの中身が空になった頃、少女の声が響いた。先程よりも随分しっかりしている。
 それにほっとしながら続きを窺うように視線を向ければ、彼女の目はどこか悲しそうに空を見ていた。
 まるで悲話でも聞かされた後のような、そんな切なそうな瞬きのまま少女は言葉を続ける。
 「……キレイ、だけど………コワイ、ね……」
 「…………は?」
 不可解な表現をする少女に、訝しそうに少年は眉を顰める。それを聞いているのかいないのか、少女は相変わらず空を見つめていた。
 そうして不意に、目を閉ざす。
 その間も花火はあがり、時折止んでは漆黒の空の中、時間差でその音が微かに響いた。
 暫くそうして目を閉ざしていた少女の顔は、突然悲しげに歪み、俯いた。
 「やっぱり……ダメ」
 沈むように小さな声で呟くその悲壮さに、少年はぎくりと身体を強張らせる。
 それは決して、激情ではない。人の感情を揺さぶり狂わせる事はない。ただただ、ひたすらに自身を沈め辺り一帯から遮断し埋まる、そんな内向的な、声。
 「……………なに、が?」
 繋ぎ止めたくて声をかける。またこの命はどこかに消えていく気なのだ。遠くを見つめる時のように、ここから消える。
 意識がまるで別の場所に飛んでいってしまう。自分達が及ぶ事の出来ないどこか遠く、美しい空の彼方へ。
 恐れるように囁く声に、掠れる程に小さな音は、同じように恐れを孕んで紡がれた。震える、小さな唇とともに。
 「目、閉じる、と……思い、出せない」
 「……………………?」
 「何も、映らない、の。院に、連れて、こられた、日の、あの、お母、さんの、背中しか………浮かば、ない…の」
 覚えたいのだと、その悲痛な声はひっそりと響かせていた。
 仕方がないと割り切るのではなく、いつかどうにかなると楽観するのでもなく。自身の力でどうにかしたいのだと、清廉な命は呟いている。
 瞠目して、彼女を見つめる。遠い花火を見つめながら、彼女は小さく唇を動かして囁いている。もっとずっと流暢に話せるようになった今でさえ、彼女はこうして言葉を小さく区切り、躊躇うように話す事が多い。
 彼女の長い睫毛が揺れている。それに従うようにして瞬きをする目蓋に隠される瞳は、どこまでも深く悲しみがたたえられている。
 途切れる音の意味が何となく解る気が……した。
 それは、恐れだ。どこまでも彼女は恐れている。自分の言葉が凶器となる危険を知っているからこそ、音となる言葉を熟慮している。
 たった一言でさえも考え、正しく柔らかく、痛みとならない言葉を、その単語を探し囁いている。
 そうして内に内に沈ませて、彼女の中にはどれだけの音が蓄積されているのだろうか。
 自戒が悪いとは、いわない。己を戒めるものがなければ、人は獣と同じだろう。それでも、そこまで己を縛る必要はない筈だ。
 そんな切実なまでに人を労らなくとも、人は己の力で傷をバネに立ち上がる事が出来る。
 思いもかけない傷を与える事があっても、言葉が凶器となる事が正しくとも、それ故に己に害なすように生きる謂れはない筈だ。
 もっと気軽に、思うがままに生きたって、いい筈だ。
 歯痒い程に彼女の労りは、どこかが捻れている。歪みともいえない、それは誤りをたたえた慈愛に酷似した傷。
 「…………………………っ」
 言葉がなくて息を継ぐように口を開く。何かを叫ぼうとして、けれど音となるべき単語を携えていない少年は、悔しそうに唇を噛んだ。
 どうしてと問いかけたい。それが残酷な問いかけであっても、そういって詰ってしまいたい。
 それでも、違うのだ。自分が言いたい言葉は、それとは違うものだった。けれど何が言いたいのか、それが解らない。
 ただ何もいえない唇を呪うように噛み締めて、少年は隣に座る小さな少女の沈鬱なその顔を見つめた。
 自分よりも幼い面が彩るにはあまりに痛々しい感情に、胃が抉れるように痛み、喉奥に苦みが湧くような感覚が起こった。
 花火を見つめたまま、少女は繰り返した。それはどこか言い聞かせるような、声だ。
 「ちゃんと、覚えたいって、そう……思う、のに。でも……………」
 「覚えられる……………っ!」
 続く筈の音は、途切れた。否、断絶された。悲鳴のような、少年の音に。
 ぼんやりと、少女は花火を見つめたその目を、少年に向ける。透明の、硝子のように澄んだその目を。
 何も映してはいないと、度々感じてきた、あの瞳を。
 ざわざわと肌が粟立つ。悪寒ではない。それに近いようで、まるで違う感覚だ。解らないそれを追いやるように少年は唇を開く。
 真っ白な思考は、少女に何を告げようとしているのか、少年自身にすら教えはしなかったけれど。
 「覚えられる。お前が、覚えようとすれば、絶対に」
 「……………………」
 ぎゅっと少女の小さな手のひらを握りしめる。故意に、強く。赤くなる程に握りしめたその手のひらの感覚に痛みを覚えて、少女の眉が微かに寄り、その視線が下へと落とされる。
 それを見つめながら、少年は唇を噛み締める。今までとはまるで違う、意味で。
 「痛み、でも……何でもいい。覚えろ」
 震える声が寂しく呟く。
 …………少女の言葉の意味が、自分には解らない。記憶出来ないというその不具合も、精神機能や脳の機能的な欠陥の可能性も、自分には解らない。それでも一つ、知っている事がある。
 痛みは忘れられないのだ。
 たとえそれを忘れたいと願い、そう祈って生きても、深く抉られ流した血は消えず、癒そうとする度に疼いて存在を主張する。
 少女の残したい記憶と、自分の刻もうとする記憶は質が違う。それくらいは解っている。
 それでも自分が知っている事実は、たったそれだけで、与える事の出来る助言もまた、そんな痛ましいものだけだった。
 「痛いのは、忘れない。忘れたくたって、忘れられねぇ……から」
 だから、花火を思い出すためにこの痛みを覚えろ、と。
 矛盾とさえ思える言葉は、綴る卑しさに震えて、音とはならなかった。
 それでも握りしめた手のひらは、逃げることなくそこに佇み、痛い筈のその強い包容を拒む事なく受け入れる。
 真っ直ぐに花火を見つめる少女の瞳にたたえられた悲哀は、変わらずに浮き沈むが、それでもその唇は能面のような切なさを消し、僅かな笑みをたたえて空に捧げられていた。
 そうしてその唇が僅かに動き、呼気だけで綴る音に少年は切なく眉を寄せる。
 捧げられた至純の音は、耳に触れる音色ではなく、心に舞い落ちた花弁のようだ。
 あまりにもそれは、儚く優しく………悲しい程に、あたたかい。
 感謝を綴る唇の清らかさに、闇夜に咲く花は何を思うのか、解るわけもない。
 それでも一瞬だけの命を咲き誇らせて潔く消えるその花の光は、どこか遣る瀬無い思いを感じさせ、また少年の指先に力を籠めさせた。


 たった一瞬の、命だ。
 黄金に輝き大輪を咲かせ、そうして見つめた人々に、感慨を残して鮮やかに幕を閉ざす。
 まるでそれは……と、そう呟きかけた唇を閉ざす。


 それは決して思ってはいけない。
 花火を見つめる幼いその顔に、せめて子供の無邪気さを乗せられるくらい、少女にとって意味のある存在になれたなら。
 そうしたなら、また向き合おう。

 それまでは深く深く閉ざして、鍵をかける。
 隣で健気に命を支えている存在を壊さないために……………









 この間見た横浜の花火で私は一番金色の大輪の花火が綺麗だと思いました。闇の中で綺麗に咲いて綺麗に消えていくのが印象的で。
 花火の話書きたいなーと思いつつ、この話をうまくまとめるのにえらく時間がかかりました。まだまだ手直ししたい所だらけなんですけどね(汗) まあうん、不器用な子供たちだと思って眺めてあげて下さい。これでもまだ小学生ですよ、二人とも。

 記憶、というものは私の中で一種特異な存在です。
 私は映像として記憶を残すことが不得手で、覚えようとしない限り覚えられないのです。
 それが当たり前な私にとっては、絵を描くという事よりも文を書く事の方が得意になったのは、当然の道理かもしれませんが、文に書く事で記憶の出来なかった、自分の中の欠落した機能の補完が可能なのです。
 絵を描くことでも物を作ることでも、どうしても補えないものが文を書くことで、それはそのままイコール自分というものの存在を作り上げることでもあるわけですね。
 幼い頃の記憶を、自分から捨ててしまっておいて身勝手だとは思いますけど、それでもそうした不具合があったからこそ、物を考える気にもなったのだとすれば、マイナス要因は私にとっては栄養であったのだろうと。今はそう思えるのですよ。
 そういう自分の歩んだ軌跡が、たまにシスターや和也にリンクして、随分と子供らしくない子供にしてしまいます。
 でも実際、私が感じていたらしい世界と、私に対して与えられていた評価はかなり隔たりのあるものだったので、何よりも幼く見える子供こそが、どこまでも心底を見つめて生きていることもあるのではないかと、そんな風に考えさせられるのです。

 そんな意味もあり、かなり難産した小説でした。どうしても自分をさらけ出せない面が強いせいでフィルターが消えず、言葉が綴れなくなるのですよ。支離滅裂な部分などありましたら今と昔が混乱していた時に指が書いていたのだと思って見逃してやって下さいませ。

05.8.25