柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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森に行きたいと言っていた。
遠くに行く事の出来ない彼女にとって
きっと森はとても大切な場所なのだ。

 せめて短い間の夢でもいい。
 彼女の部屋に森を贈りたかった。
 あの無機質で生活感の薄い寂しい部屋に

 森の香りを…………



森で出来た窓   4



 廊下を過ぎ去り、和也はまた外に出た。日差しはまだ明るい。昼食は先程食べ終えたし、今日は特に予定もない。このまま夜までは自由に動く事が出来る。
 頭の中でこれからの行動の予定を組み立て、それにかかる時間をざっと計算する。
 門限に間に合わないとなれば、シスター達に声をかけなくてはいけない。出来ればそれは避けたい事だった。
 駆けるように自室に向かい、必要な物品を探しながらそんな事を考える自分に、小さく息を落とした。
 別に秘密にする必要はないと、解っている。
 それでもどうしても自分は素直にはなれない。少女に関わる事で自分の感情を真っ直ぐ晒す事は躊躇われるのだ。
 大人は好意をすぐに恋情だと囃し立てる。違うのだと否定しても、それを正す言葉を持たない身には何の意味もなく、憶測が正道を通ってしまう。
 抱く思いを勝手に名付けられ決めつけられ、そうして秘めて育てる筈だった何かさえ、それは打ち壊し種を抉り出す。まるで掘削機のようだ。
 無明の目には、それは映らない。温かかった思いさえ凍らせる事があると、気づきもしない愚鈍さと無神経さだ。
 だから無用な詮索も不粋な言葉も、欲しくはなかった。
 ようやく自分は少女のために何かが出来るかもしれないのだから。
 大きな布の袋を幾枚か詰めた鞄に、作業用の器具を一通り入れた袋を押し込む。靴は長距離用の履き慣れたものに替え、自室のドアを開けると、階段を下った。
 階段を下りたなら、出入口はすぐだ。院内には子供達はいないのだろう、清閑としていた。そこに自分の足音だけが響く。耳を澄ませたなら、あるいはあの少女の寝息でも聞こえるだろうか。
 ふと思い……頭を振った。そんな事、あるわけはない。
 出入口を出たならそんな考えさえ刺し貫くような陽光が、一身に降り注いだ。驚く程の、光だ。
 目を細めて慣れない視界の中、光調整が行われるのを待つ。暑さのせいか景色が少し霞んで見えた。
 これでは遊んでいる子供たちも、精々川遊びか木陰で避暑するしかないだろう。それならそれで都合がいいと、和也は足を踏み出した。
 不意に空を見上げる。眇めた視界はその明るさ故にではなく、何か厳かなものを見遣るように険しく眉が寄せられた。
 青い空は高く、求めるにはあまりに壮大だ。それでもそれはたった一つ欲しいものに、とてもよく似ている。
 一度詰めた息を吐き出し、目蓋を落としてその暖かさに身を委ねる。
 こうして日差しを一身に受ける事の出来る贅沢を意識する事など、きっとほとんどの人間が知らない事だ。そう思ったなら、険しさを刻んでいた眉が緩やかに力をなくし、柔らかな弧を描いた。
 知らない事は恥ではないのだ。知ろうと努力し続ける事が、生きる上では不可欠なのだから。
 一歩を踏み出す勇気を見せてくれた少女に、同じように勇気を示す事を、躊躇う事はない。自分に出来る事が何かを、自分は知っているのだ。
 空は遠く高い。けれどいつだって変わらずそこにあり、消える事はない。
 どれほど否定の言葉が積まれたとしても、それは揺るぎない事実だ。だから、それによく似た思いの先は、きっと優しく美しい未来を紡いでくれると信じてみよう。
 振り返った院には、自分が浴びるものと同じ陽光が降り注ぎ、蜃気楼のように揺らめいて見えた。

 夕方、門限には十分余裕を残して、和也は院に帰ってきた。
 思っていた以上に順調に必要な材料を集める事が出来たのだ。もっともそれでも今からそれらを用いて作るにしても、実際に使えるのは明日の朝になってしまったのだけれど。
 ちらりと空にかかる太陽の位置を見ながら、少し溜め息を吐く。
 一瞬で行きたい場所に行く事が出来たなら、どれほどいいだろうか。そうであれば今頃にはもう、出来上がったものを少女の部屋に添えに行く事が出来るというのに。
 埒の開かない夢想を思いかけ、和也は打ち消した。だからこそ、この手足で出来る限りの事を人は行うのだと、年に似合わぬ老成さで思いながら。
 太陽から目を逸らし、荷物を抱え直すと和也はドアに手をかける。
 出来れば誰にも会わずに自室に行きたいが、それも叶わないだろう。少人数とはいえ、同じ屋根の下に暮らすものがいるのだ。
 そしてそれは一般の家庭というものの、何倍もの数だ。誰にも会わないという事は不可能に近い。
 せめて出会う相手が詮索好きでない事だけを祈って、廊下を歩くと幾人かのシスターに会うだけで自室に辿り着く事が出来た。
 どうやらまだ子供達は帰ってきていないらしい。考えてみれば門限の長くなった夏休みの間は、確かに大抵の子供はこんな時間に帰ってはこない。
 あと1時間もすれば、ゾロゾロと連れ立って帰ってくるだろう。大荷物を抱えたままなんとか自室のドアをあけ、タイミングが良かったと安心したように抱えていた荷物を自室の床に置いた。
 ドアを閉めて外と隔絶されると、長く息を吐き出す。肩の荷が下りた気分だ。
 途中階段や廊下で、両手では抱えきれない程の荷物を持って帰ってきた和也を見て、シスターたちは不思議そうに小首を傾げていた。
 それでも袋から覗く中の大量の葉っぱに、特に声をかけるわけではなかったのは、普段から自分がそれらに慣れ親しんでいる事を熟知しているからだろう。
 そうでなければ、こんなにも大量に葉っぱを摘み取った事を咎められても仕方のない事だと、自分自身思っている。
 ホオの木の林はさして院から遠くはない。もっとも自分にとってであり、一般的な尺度で考えたなら、十分遠い範囲かもしれないが。それでも歩いてでさえ1時間を超える程度だ。健脚であれば苦ではなかった。
 それでも休憩なしに赴いてから採集を開始し、その足でそのまま帰ってくる事は、和也にとっても負担は大きかった。
 実際部屋に入ってから座り込んでしまい、暫く怠さで動けない程だ。夏という季節柄、どうしても日光によって奪われる体力が多く、想定する以上に身体が疲労を訴えていた。
 少し休んだ後、シャワーでも浴びておかなくてはいけない。体中が砂埃や木屑にまみれている。そろそろ子供たちが帰院してきて騒がしくなるし、近くの川でもいいかもしれない。
 そうして身体を休めて浄めて、不純物を取り除いたなら、作りたい。
 空を、森を、風を、日差しを。そうした他者に恩恵を与える事を拒まない優しいものたちと同じものを。
 「…………早く、作らねぇと…」
 このちっぽけでがさつな指先で、それでも示せる精一杯の、ものを。
 たった一人の小さな天使のために、示せるものの少なさに打ち拉がれそうになる。どうしてもっとと思っても詮無き事と、少女は微笑むかもしれない。
 気にかける事の出来る事をこそ祝すべきなのだと、自分よりも小さなその面で、遠い空を背に微笑むのかも、しれない。
 遠大な少女の内側は他者を許し受け入れる。自分が作り捧げたいものと、同じだ。
 …………自分が生きる中、寄り添わなければ狂いそうだったもの達と少女は、同じ気配がする。
 認める事は困難な事だ。少女は一人の人間で、自分よりも幼い命に過ぎない。それでもそのあり方は雄大で、自分の卑小さを突き付けられるようで、苦しくなる。
 自分こそがそうありたかった。求め続けたのはおそらくは、同化だろう。どこまでも静かに全てを受け入れ、どんな強風からも大雨からも自分の傍にある命を守り慈しめる命。………己一人の事を考える事なく、他者を許し認められるもの、に。
 自分はなりたかった。認められずに生まれ、拒まれ続けたからこそ、自分と同じ命を作らぬように生きたかった。
 この身に流れるあれらの命と同じ蛮虐な行為に、走りたくはなかったのだ。
 思い出した過去の情景に、くらりと脳の奥底が痺れとともに眩む。瞬間的な吐き気を飲み下し、不自然な嚥下音が響いた。
 小刻みに震える指先が不愉快だ。恐れではなく怯えでもなく………ただ怒りだけが全身を支配する、この感覚。
 あまりにも自分の本質は罪深く、生きたいと思うその生き方から遠く離れていると痛感させられる。
 それでも、そうありたいと願い続けるものに苦もなくあれる少女へ、嫉妬や怨嗟があるかと問われたなら……否と答えるだろう。
 未だ自分の中には、あの命は同じでありながらも……別個の存在に思えてならないのだから。
 人という範囲に定められない。それは少女の中の深みを捉える事の出来ない、自分の拙い愚かさが最大要因だと解ってはいた。それこそが自分の目を覆い、少女の背に羽を見出してしまう。
 だから、天使と思いながら………人なのだと斬りつけてしまう。どこかに消えてなくならないでと、我が侭な腕がその羽をもぎ続ける。
 自由を、与えたいのに。
 ………あの魂が心憂える事なく在れるような、そんな自由を得るための手助けをこそ、したい筈なのに。
 微かに残る吐き気を追い払う筈の四肢は、努力を忘れたようにだらりと垂れ下がった。疲労の溜まった身体は動かず、過去と現在が混濁した思考は、支離滅裂なまま明滅を繰り返す。
 己の過ちくらいは、知り尽くしているのだ。それを知ってなお繰り返すこの愚かさが、傷を深める事とて知っている。
 それでも我が侭が消えず、この腕は傷を抉り続ける。
 優しい存在になれない自分は、だからこそ、少女の中の何かに目を奪われる。誤りを繰り返し続けている筈の少女の中のそれは、けれど純然としていて穢れを孕まない。
 たった一言を言葉に出来ない不具合が、互いの中の虚無を隠せない。そしてそれはおそらくは、この先も続くのだ。
 それでもその一言は、この世の何よりも、…………重い。
 疲れに促されるままに落とされた目蓋がしっとりと濡れても、雫は落ちず嗚咽は洩れない。
 微かな呼気が洩れる頃、少年の纏っていた憂愁は空気よりも重く、床を這う。それを払うように吹きかけた窓の先の澄んだ風は、赤味を帯びた夕日の色で優しく少年の肩を包み込んでいた。
 傍にいたい、なんて。

 …………なんて贅沢で傲慢な、夢見事だろうか。



 窓から微かな日が差し込んでいた。窓を開けて空気の入れ替えをして時計を見ると、まだ5時前だ。
 明かりは太陽の余光なのか、まだ太陽自体は窓からの覗きはしなかった。窓から首を巡らせると空は相変わらず晴天で、薄い青を鮮やかに吹きかけていた。
 昨夜あのまま、夕食時まで寝入ってしまった。結局ばたばたして、なんとか時間が作れたのは夜だった。
 こんな時は同室者がいないことに感謝したい。もっともそれを言い出したら、この大量のホオの葉を持ち込んだ時点で思った事だが。
 まだ朝も早く、早朝の空気は澄んでいて微かに冷たい。夏であってもこの時間帯は過ごしやすいと、頬を過る風に目を眇める。
 着替えをしながら時間を確認する。そろそろ朝の巡回をシスター達が行う筈だ。それが終わったら起床時間になる。もっとも夏休みの間は、朝食の時間までは自由だから惰眠を貪るものが多いけれど。
 出来れば自分がこれを持ってきたと知られない方がいいと、思う。気付かれてうまく言葉をつぐ自信がないのだ。
 それならば彼女が寝ている間に、全てを終わらせておくのが一番スムーズだ。あとは巡回のシスターに告げておき、うまく話を合わせてもらえば、自分の事は表には出ないだろう。
 昨日いたあのシスターが日当直であると、昨夕寝過ごした自分を起こしにきた時に教えてもらえた事は幸いだった。彼女であれば、話がしやすい。
 少しだけれど、あのシスターは少女に似ていた。物の見方や雰囲気ではなく、シスター自身の心構えが似ているのかも、しれない。他者を決めつけるのではなく、知ろうとするあの姿勢が。
 自分の身体で持ち運ぶには少々不便な葉っぱの集大成を手にし、和也は慎重に自室のドアを開けた。
 しんとした廊下に人は見当たらない。階下から順に見回りが行われる筈だから、今はまだ下にシスター達はいるのだろう。
 音を立てないように廊下を歩き、階段を下った。階下について廊下を見回すと、丁度少女の奥の部屋のドアが開かれた。物置の部屋から現れたのは、想像通り件のシスターだった。
 ほっと息を吐き出して、驚いたように目を丸くしているシスターに近寄った。持っているものが持っているものであるだけに、かなり歩く事は不便だった。
 葉っぱに隠されがちな持ち主の顔に目を瞬かせながら、シスターは相変わらず静かな声音のまま首を傾げて声をかけた。
 「和也?おはようございます。………それは一体………?」
 「おはようございます。あの、少し話、が、あるんです、が……」
 疑問を孕んで問いかけるには穏やかな声に、ほっとしながら和也は言葉を探す。
 言う事は、簡単なのだ。説明は容易く出来る。今までも大人相手に論争くらいはやってのけてきたのだ。ただ、たった一つ、自分は苦手な事がある。
 感情という、そうしたはっきりとはしない分野を言葉に出来ない。
 そして今回のこの行為には、多くの感情が絡んでおり、それがどういったものか、明確には表現出来ないという後ろめたさが和也にはあった。
 恥じるような真似をしているが故のものではなく、説明するための確かな言葉を持たないが故の、負い目。
 僅かに伏せた睫は悔しげに影を落とすが、歪みかけた唇は、それでもなんとか音を紡ごうと開閉した。暫しの沈黙が落ちるが、微かな息づかいが焦っているのだろう和也の心裏を表していた。
 「………和也、その葉は一体なんですか?」
 ゆったりとシスターが問いかける。おそらく言葉と出来ない和也の焦りが解ったのだろう、決して問いつめるような強さを見せず、静かな風のように音を響かせる。
 早朝の清涼とした空気の中、それはやんわりと鼓膜を震わせた。
 「これ……は、ホオの葉、で………」
 「昨日沢山採ってきていたようですね。止め枝もついているし……それは壁掛け……いえ、カーテン、ですか?」
 撫でるように、皺の寄り始めたシスターの指先が、ホオの葉に触れた。
 一枚一枚を丁寧に竹串で縫い合わせてある。それを二枚の布に作り上げ、その先、調度和也の首元辺りに、筒の通り道が出来ていた。
 そこには白樺の枝が通されており、このまま何かに引っ掛けたなら、立派にカーテンの役割を果たす事が出来るだろう。
 新鮮な葉は柔らかな緑の香りがする。朝露に濡れた、森の薫りだ。
 嬉しげに目を細めて問いかけたシスターの声に、知らず頷き、和也は答えた。
 「………は…い、あいつの部屋に、置いていいか……を、聞きたくて…………」
 アレルゲンとなるものが付着しないとように注意もしたし、防虫処理もした。元々そう長く使えるものではないので、もって数日というところだろうけれど、その間に少女の体調を悪化させる要因とならないように配慮はなされている。
 ぼそぼそと小さくその事を告げ、今彼女が眠っている間にこれを置いていきたいのだと、それだけを真摯に告げた。………まるで罰を受ける直前の幼子のような痛々しさで。
 ただひたすら、問いかける事なくただ頷いてくれればと、それだけを願う指先は供物を捧げるように幽かに冷たく震えていた。
 それを見つめながら、シスターはやんわりとその幼い手のひらに己のそれを重ねた。
 自分達の感じる朝の空気と同じように冷たくなっているのは、緊張故か。ただ誰かのために何かをしたいと祈り、そうして起こした行動が受け入れられるか否かを思う時、人はどうしたって緊張を強いられるのだろう。
 己と相手は、別個の生き物であると、そう確かに意識したその瞬間から。
 「それは私が決めることではないでしょう………?」
 唇で柔らかな弧を描きながら、シスターは言い聞かせるように呟いた。
 少年の行っている事は尊い事だ。陰徳を積むその行いは祝されるべきであろう。
 それでも少年はそれに、少なからず恐れを抱いている。そしてそれはおそらく、この院にいるもの全てに共通している怯えだ。
 多かれ少なかれ、この院にいる子供たちは傷を負っている。それらは様々な理由で回避することが出来なかったものだが、多感な幼少期に受けるにはあまりに過酷なものだ。
 それ故に、その心は過敏だ。傷付く事に脅え、虚勢も張る。己を守るために他者も傷つける。そして、何よりも一番に痛ましいのは、己の価値を知る事の出来ない現実だ。
 喜ばれる事が解らないのだ。己が何かを成したなら与えられるのは罰であった過去が、より良き行いでさえも、処罰を想定させてしまう。
 そうして歩むべき一歩を恐れてしまう。関わり合い影響し合い、そうして成長するその当たり前の筈のステージまでが、彼らにはあまりに高い壁が待ち受けている。
 本来であれば花開く筈の美しい花々が、陰った空の下、蕾を固まらせ萎れてしまうように。
 踏み出せない一歩の中で掠れた声を潜ませ俯き、与えられる筈の笑顔を知らずに逃げ出してしまう。
 ………そんな必要など、ある筈もないというのに。
 しっかりと和也の手を掴み、シスターはその手を軽やかに引き寄せた。一歩を、導くように。
 突然の行為に驚いたように和也は目を見開き、硬直していた筈の足で廊下を一歩、進んだ。
 あとほんの数歩で少女の部屋のドアの前に辿り着く。躊躇うように後退しかけた足を押し止めるように、シスターはもう一度手を引き、微笑んだ唇を開いた。
 「和也、与えられるべきは与える者へ、です。そのカーテンを受け取る相手は私ではないのですから、私が許可は与えられませんよ………?」
 そしてそれを受け取るべき相手は、あとほんの数歩を歩むだけで辿り着くドアの先にいるのだ。
 それは決して難しい事ではない。この時間であれば、少女はもう目を覚ましているだろう。そして巡回のシスターが顔を見せるとベッドから身体を起こし、身支度を始める。
 長く眠る事が出来ない少女は、睡眠と覚醒を巡回毎に繰り返し、時折は部屋からふらりと消え、階段で転寝している事さえある。
 そうした面のある少女は、世間知らずとは少し意味は違うけれど、多少の非常識は受け入れられる範囲内なのだ。
 だから、背を押してしまう。
 今は朝が早いとか、そんな当たり前の言い訳で揉み消すのではなく、この二人の紡ぐ細く頼りない糸を寄り添わせたいと、願ってしまう。
 手を引き、もう一歩、少年の歩みを進ませる。
 目前のドアの前、少年が息を飲む気配が伝わる。あと、たった一歩だ。そしてそのドアに指先が触れたなら入室を乞い、その手に持つ鮮やかな緑のカーテンを見せればいい。
 たったそれだけで、いいのだ。
 「さあ和也。手渡してあげて下さいね」
 「………………」
 「………あの子は、きっと喜びますよ」
 拒まれる事を恐れるのは、ここに住うものには仕方のないことだろう。初めから諦めている相手ではなく、焦がれて腕を伸ばす相手であれば当然だ。
 そしてそれ故にその小刻みに震えるカーテンの裾が痛ましい。
 その背に触れ、微かに力を込めて押す瞬間、遣る瀬無く歪んだ眉を隠すように睫毛を落としたシスターは、静かに厳かに、ただ目の前の少年だけに伝わるように、音を紡いだ。
 まるで地に回帰する事をこそ願うかのように、切なさを秘めて。
 「自分のものを持たない子だから………心を込められたものが、どんなものよりもあの子をここに引き止めてくれると、そう私は思います」
 「シス……ター…………?」
 押された背中に驚いたのではなく、その言葉に愕然とし、和也は振り返った。
 問いかけを含んだ呼び声に答えはなく、ただシスターの年の陰りを見せ始めた背中が悠然と翻るだけだったけれど。
 その背を見つめ、息を潜める。
 少女が掻き消える幻想を見るものは、自分一人ではないのだという、その事実がただ心に重くのしかる。
 そんな事はありはしないと新鮮な空気を吸い込み、深呼吸をした。それでも憂いを孕んだ眉は解かれはしなかったけれど。
 ………それでも、今は一歩を踏み出してみよう。
 眇めた視線の先には古ぼけたドアが一つあるだけだ。それを開いたなら、きっと何かが動き始めるだろう。
 凝り固まり歪み続け、噛み合なくなってしまったの歯車は、一度分解し組み立て直さなければどうする事も出来ないのだ。
 不具合は残るかもしれない。部品が壊れ、作り替えなければいけないかもしれない。
 それでも抉じれてしまった道の先には、答えが必ずある筈だ。待ち構えたそれが正しいものか間違ったものか、それは歩まなければ解らず、選択し続けなければ辿り着けない。
 だから、一歩、を。
 迷宮の奥深くに生まれ落ちてしまった自分達の、嘆くだけの歩みではなく、光明を見出すがための、勇気の一歩を。



 古ぼけたちっぽけなドアを開くその瞬間から、歩み始めた。

 刻まれ始めた時計の音が、いつか止まるその瞬間まで
 この足の歩みを止めない事だけを誓いながら

 開かれたドアの先にいる小さな影を眇めた視界の中に、おさめた。








 というわけで、これにてこの話は完結です。
 本当なら少女が受け取った時の姿を書くべきかとも思ったのですが、それは少女視点でないとまるで伝わらないので。
 和也視点は楽しいんですよねー、書くの。盲目的で人間臭くて。普段他の人間には平然と対応出来るのに、自分の中に受け入れた対象には滅茶苦茶弱いのもね(笑)
 その辺のギャップは魔女との話で比較を。
 あー、また彼女も書きたいな。

 今回、後半の方の和也の話し方が、まるで少女と同じように辿々しい部分に注目していただければ。とか。個人的に思います。
 そして少女も普通に話せるんだよね、そういえば。とかも思ってくれれば幸い。
 何となく、少女の中の和也の位置が解るような有耶無耶なような感じかもしれないですね。はっきりは書かんよ。感情が言葉に当て嵌ってしまったら世の中味気なさ過ぎる。
 まあそれでも伝えたければ、言葉を尽くさなくちゃいけないのでしょうけれど。

05.10.16