柴田亜美作品 逆転裁判 NARUTO 突発。 (1作品限り) オリジナル (シスターシリーズ) オリジナル enter |
シトシト シトシト 雨の音 雨滴 窓の外を見つめながら、少女はうっすらと唇に笑みを乗せた。柔らかく浮かんだそれは、穏やかなもの。 それを、同じ室内で本を読んでいた少年が視界におさめ、首を傾げた。 「…………なんかあったか?」 少女が見つめる先と同じように、少年も視線を窓の外に向け、今は灰色さえ鈍くなった空を見た。まだ昼時ではあるが、まるで夕方のような暗さを添えた空は、正直あまり綺麗ですらなかった。 綺麗なものが好きで、そうしたものに敏感で、愛でる事も愛しむ事も、惜しみなく捧げる少女が笑みを浮かべるには、少々窓の外の空では役不足に、少年には感じられる。 空ではない何かがあったかと首を傾げてみても、少なくとも自分が見遣った窓の景色には、雨と空といつもより湿った緑が見えるだけだった。 言葉と音の中に疑問を孕ませ、短い問いかけでそれを示す少年に少女は振り向き、小さく頤を振った。 見えているものはお互い同じものだ。そして少女は少年が声をかけた時、僅かに身を動かし、窓が覗けるようにしたのだから、少女にだけ見える部分はない。 怪訝そうな顔で窓と少女を見遣り、少年は読んでいた本に栞を放り込むと、そのまま腰を上げた。 突然のその動きに驚くでもなく少女は少年を見上げ、小さく頷くような仕草をした後、また窓の外を見つめた。 少年の突発的な行動や言葉はいつもの事で、幼い頃からそれを間近で見ている少女は、おそらく少年以上にその対処に慣れている。 勿論、その全てが理解出来るのではなく、その行動や言葉の起因となる感情がどんなものかを感じるという、そんな曖昧で頼りないものではあったけれど。 それでもそれを、少年がとても感謝している事を少女は理解していた。それはあるいは、この院に身を寄せる子供達の総意に近い感情なのかもしれない。 互いに異なる事情で身を寄せある事となった子供たちは、その基準故に、大人以上に世の疎ましい心情を知っている。 あるいは、人間という種に備えられている根源的な罪科を、肌で感じているというべきか。 だからこそ生きる意味を疎み、生かされている事を嫌い、他者の熱が傍にいる事に恐怖しか覚えないものも珍しくはなかった。 身勝手なラベル付けもエゴに満ちた解釈も、献身的であればある程、気味が悪い。………生まれてから与えられ続けたものが、あまりに違い過ぎるのだ。 世の中に満ちるものがなんであるか、子供達に問えば、おそらくは耳を塞ぐ大人が多いだろう。そんな現実だけが与えられ続けたもの。 そうした中で、少女は奇異な存在だ。 迫害されたわけではなく、傷を与えられたわけではない。 けれどここにいる。誰よりも多くの痛みを抱えながら、痛みを知らない少女。受け入れる事だけに長け、切り捨てる事を知らない。事実だけを求め、付加される身勝手なイメージに侵されない。 院にいる子供としても奇異で、人間という存在としても、奇異だった。 言葉数も少なく、僅かなジェスチャーと眼差しや視線で、意図や意志を示す事の多い、ある種厄介な人種。 それでも彼女の示すものはひどく透明で、押し付けられる感覚がない。押し付けられていないから、跳ね返す事もない。 それはおそらく呼気に近い。小さく傾げる首一つで、含まれる疑問を相手に察知させるのだから、彼女の言葉は音ではない何かなのだと、思わざるを得なかった。 同様に、彼女は言葉としないものを受け止める。言葉に出来ず、自覚も出来ない根底を見つめている。そう、子供達には感じられた。 その感覚が顕著な少年は、軽く首に手を置き、回すようにほぐしてから窓に手をかけた。椅子に座る少女は窓から視線を逸らし、少年の顔を見上げる。 僅かに顰められた眉を見上げ、少女は笑んで、窓に指先を添えると、爪先でコンコンと軽く叩いた。その音に少年は首を落とし、少女を見下ろした。 「……聞こえるでしょ?」 問いかけるというよりは、確信に近い声。笑む唇と細められる柔和な瞳が、ひどく優しく少年を見上げた。 それに一瞬だけ目を見開き、すぐに目を逸らして窓の先を睨みつける少年が、幼い頃よりも少し低くなった声を憮然としながら落とした。 「雨の、音か?」 暗い空から落ちてくる雨の勢いはそれなりにあり、絶え間なく鳴り響く音は、クラシックというには少しだけ喧しい。 聞こえる音はそれと自分達の声。あるいは、階上で遊んでいるのだろう、他の子供達の走る足音くらいだろう。 こんな天気の日はひどく室内は静かで、晴れた日なら聞こえるような部屋の外の声さえ、聞き取れない。 頷くように少女は瞼を落とし、顔を少年から窓に向けた。それはあるいは、音を堪能しようとするようにも見える仕草。 「……雨って、色々な音があるの」 まるで合奏のようと、少女は楽しそうに唇をほころばせた。嬉しそうなその顔は、とっておきの宝物を見つけた子供のようだ。 視線だけで少女を見遣っていた少年は珍しいその顔に少し目を見開き、そのまままた、視線を窓の外に向けた。 もっとも、暗い空を映す窓には互いの透明な姿が映し出されていて、朧げな表情はどちらにも伝わってしまう。 すっと手を伸ばし、窓に添える。調度自分の顔が見えなくなるように、その口元を覆うように、窓の透明な影に実体が被さった。 退屈極まりない、雨の景色。足留めを食らわせる事しかない長雨を、それでも楽しめる少女に、少年は苦笑するように唇を歪めた。………素直に笑みを浮かべるには、少々まだ、照れくさかった。 少年が少女に差し出せるものは、本当に少ない。 全てを差し出すには、自身の穢れを自覚し過ぎていた。杞憂というには深すぎる、この院に収容された子供全てが抱える傷。 それを理解しているのか少女は微笑み、ただ窓を見つめ耳を澄ませる。 「……キレイ」 ぽつりと呟くように言葉を落とし、少女は空を見上げた。真っ暗で全てを飲み込みそうな雲と、そこから降り注がれる無数の雨粒。 窓の桟を踊るように跳ね、屋根から滑り落ちて地に沈む。全てがまるで違う姿で、けれど同じ言葉で括られるちっぽけな水玉。 地に恵みを与える雨もあれば、川を決壊させ災いとなる雨もある。善悪のどちらも備えている、それ一粒では何の力もない雨粒達。 それはどこか、似ているのだ。そう思い、少女は眇めた瞳を遠く、見えないどこかを見つめるように窓の外に送り、微笑む唇を微かに動かして、呟いた。 「……………キレイ、だね……」 そうありたいと、呟くような音。それに惹かれるように、少年は顎を落として少女を見下ろした。遠くを見つめた少女の瞳に、おそらく今は窓も外の雨も映っていない。 ぎくりと身体が一瞬だけ硬直し、次の瞬間、無意識に少女の肩を掴んでいた。 「………………っ」 僅かに飲み込んだ少年の呼気に、微睡むような呑気さで少女が窓から少年へと顔を移した。顔を顰めて睨むように自分を見下ろす少年に、困ったように少女は笑んで首を傾げる。 何故か彼は、すぐに気付いてしまう。ふと意識が違う場所に向かってしまう時。………幼い頃からの淀みを、うまく自身で昇華出来ず持て余す時に。 揺れる視線を捉えて、現実に引き戻す。それは容赦なく切り裂く言葉や、有無を言わさないその腕で。 掴まれた肩が僅かに軋む。手加減を忘れている少年の握力は、少女には少々荷が勝ち過ぎる。 おそらく痣は残るだろうその痛みを、ただ粛々と受け止め、少女は見下ろす少年を見つめたまま、その苦笑を深めた。 ………言葉が見つからないというように、少年は苦しそうに顔を歪めている。睨むような視線は元々よくない目つきを、より酷くさせていた。 それでもそれに恐れを抱かないのは、その目に映る感情の彩りが、あまりにも切ないからだろう。 幼い頃からその目に映る感情は、切実な程の焦燥だった。まるで母に置いていかれる事を恐れる子供のように。そう思い………少女の苦笑が躊躇いがちに薄れた。 瞼を一度落とし、ゆったりと呼吸をする。互いの視線の呪縛から解き放たれて、ほんの少し自由を得た二人は、もう一度少女が目を開けた時、困惑を乗せて視線を交えた。 「………和也?」 問うように名を呼び、どうしたのかと少女が微笑む。 いつもと変わらない静かな音と静かな瞳。掻き消されそうな存在感が自分の手元に戻ってきたと感じて、ほっと詰めていた息を少年は吐き出した。 同時に、少女を掴んでいた手のひらに籠る力の強さに気付き、慌てたように手を離した。 「雨の音、キレイ……だね」 問うような声で先程の言葉を繰り返す。………心配しないでと、そう囁くように。 それに遣る瀬無く唇を噛み締め、返す言葉のない少年は、ただ小さく頷き、また窓の外を睨んだ。 暗い空に無数の雨滴。捉えようのない幻惑のように、ただ降り注いでは地面へ落ちるだけのもの。 噛み締めるように怒鳴りそうな声を飲み込み、少年は手のひらを握り締める。誤った力が誤った方向に向かいそうで、恐かった。 その手のひらの震えを見つめ、少女はすぐ傍にあるその手のひらに指を伸ばし、驚かせないように軽く袖を引いてから、包み込んだ。 ………一瞬だけ凍り付いた手のひらは、けれど徐々にその緊張を解いて震えをなくす。それに微笑み、少女は安堵するように窓の外を見つめた。 母に置いていかれる痛みを、知らないわけではない。 けれど、少なくとも自分は、あの時ただ、謝罪の意識しか浮かばなかった。 一人残される事への恐怖より、贖罪の念が強かった。まだ生まれた意味どころか、生きる意味も生き方も、まして言葉を持って意志を伝える術さえ、獲得していなかった幼い頃。 今はそれとは違う答えを出せるのか、少女自身よくは解らなかった。 その理由を思い、少しだけ少女は困ったように眉を寄せ、微笑む瞳を窓に映る少年の影に向けた。 相変わらず不機嫌そうに引き結ばれた唇と、苛立ちを示すような眉間の皺。けれどその瞳だけはそれらとは違う色を浮かべている。 窓の外の雨模様を見つめ、少女は微笑みを深め、少年の手のひらを包む指先にほんの少し、力を込めた。 きっと。きっともう、自分はあの時の答えを知る事はない。 置き去りにされる事は、きっとない。 同時に、憂いが瞳を僅かに陰らせる。 自分はきっと、置いていくもの。 だから、あの時の自分とは違う答えを、与えたい。 贖罪ではなく、痛みではなく、悲しみでもなく。 ………………いつの日か花開く、優しさを。 どうかどうかと、染みる雨滴に祈りを添えた。 置き去りにされた人間はその時の感情を忘れません。 忘れたくても忘れられないから、ずっと覚えているしかないのです。 それが人生の中幾度となく繰り返されるだろう事も知っていて、その時別の感情を持つ事が出来るかどうかは、やっぱり未知で。 置いていく人間が悪意で持ってそれを行うのではないと、そう思えるようになれれば、きっと楽にもなれるのでしょう。………思うには少しばかり苦さの克服が必要ですけど。 人にも自分にも優しい感情は、なかなか人は持つ事が出来ないから。 持てたらいいと、努力して自分を磨くしかない。 その度に痛みと苦みと苦痛が与えられると解っていても、ね。 人間として人間の中で生きるのは結構しんどい事だよなぁ。 人は傷つける事に自覚を持たない、生き物だから。 06.10.2 |
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