柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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眠る姿は珍しくもない。
点滴の刺されたその腕を見つめるのも、初めてではない。

それでもその時ほどの無力感は、なかった。

守ることの意味を突き付けられたその時。
どうしようもなく無力な自分を痛感したその時。
どうしたなら自分の願いが叶うのか、必死で考えた。
その答えは未来できっと祝される。
彼女のいない世界で、彼女の願いを叶える手助けになる筈……だから。
噛み締めた唇で、決めた。
彼女を守る、その術を。





木漏れ日の花よ。  3



 倒れ込んだ女の子はそれでも掠れた声で続けている。守って、と。助けて、と。
 シスター達はそれに答える余裕はなく、急ぎ医療従事者への連絡を取りベッドの支度をはじめる。彼女の唇は音を出せなくなって、咳き込んでいた。それでも喘鳴の合間、唇は動く。先ほどと同じ動きで。
 こんなにも必死で、彼女は何を伝えたいのだろう。
 赤ん坊が可愛い、なんて、そんな単純な理由なのか。
 そんなわけなどある筈もなく、かといってその理由が解るわけもなく、遣る瀬無さに唇を噛む。彼女の守りたがっているその赤ん坊は、今この腕にいるというのに、彼女に何一つ自分は安堵を与えられはしない。
 どうすればいいかなんて、解らないのだ。
 たとえどれほど自分達が早熟の類いであり、大人のようなものの考え方をしてしまう、奇異な存在であったとしても、人生経験は圧倒的に少ない。他の同年代の子供よりも少ないくらいなのだ。
 そんな自分達が、赤ん坊をどうしたなら守れるかなんて知っているわけがない。
 親が子を捨てる、そんな物語のようなことこそが自分達の生い立ちだというのに、目の前で親のいない赤ん坊をどうしたなら守れるかなんて、知っているわけがない。
 ………知っていたら、そんな方法があるなら、この院など存在すらしないのだから。
 噛み締めた唇が痛かった。鉄の味が広がり、唇を噛み切ったことを知る。それでも、歯痒くてそれを止めることが出来なかった。
 彼女が抱き上げられる。咳き込み、呼気すら朧なその面は蒼白だ。
 その顔は昔のような無表情。笑みを忘れ、ただ虚無の中、目の前の現実を受け入れ許す、誤った慈悲。
 それが、自分は嫌いだった。
 彼女を見つけたあの日から、その全てを隠す無表情さが、自分は大嫌いだった。
 「待てよっ!」
 だから、か。知らず叫んでいた。腕の中の赤子が驚いたようにびくりと身体を震わせる。先程までの平穏そうに眠る静けさが消え、大きな目をきょとんと開いている。
 けれどそれはどこか無表情を思わせた。まだ表情を知らない、生まれたばかりの赤子。
 それを腕に抱えたまま、大股にシスターに抱かれる女の子の傍に近寄った。
 ざわめきは、消えていた。あるいは叱咤の声があがっていたのかもしれないが、自分には何も聞こえなかった。おそらくは、彼女にも。
 そうして間近に寄った自分を、彼女を抱える年長のシスターは静かに見つめていた。
 彼女を院に住わせるために尽力尽くしたこのシスターは、他のシスターとは異なり、多少の融通の良さをのぞかせることがある。それが、まさに今、与えられた。
 もしシスターが断固として拒否し、彼女を一刻も早くと医師のもとに連れていってしまえば、その時点で和也にはどうしようもなかった。
 けれどシスターは許した。僅かな時間ではあるが、猶予をくれた。
 ………それに感謝したのは、もっとずっと後のことだったけれど。
 その時はただ必死で、彼女に声をかけた。努力呼吸となり、酸素を肺に送ることすらままならないその状態の人に、届く言葉があるかなんて……幼い自分には解らない。
 それでも綴った、必死の音。
 「聞けよ!ちゃんと…守るから。お前が戻ってくるまで、俺がちゃんと見ててやるからっ!もう叫ぶな、騒ぐな!大丈夫だから……お前がいなくたって、守れるからっ」
 約束をするからと、ただ懇願するように叫んだ。
 何を彼女が望んで同じ単語ばかりを呟き続けたかなど知らない。知っているわけがない。彼女は彼女にしか解らない、そんな言葉を抱えて生きている人なのだから。
 それでも彼女は、じっとその目を自分に向けて、小さく……唇を笑みに変えた。
 息苦しさに生理的に浮かんだ涙が、大きな瞳にたたえられている。それが煌めきながら、しなだれた身体の中、そこだけが活力を取り戻した。
 ほんの一瞬の、空白。
 彼女の呼気は掠れず、喘鳴が消える。そうして頷いた。
 きっと、その間さえそれはあったのだろうけれど、それでも確かにその時、彼女は微笑んで頷いた。その言葉を信じると、まるで誓いを受理するように穏やかな顔で。
 何を求めていたかなんて、解らなかった。その時、自分は何も解ってはいなかった。
 そうしていつも気づくのは、ずっと未来でなのだ。
 ふとそれに気づいては、いつも思う。彼女は本当に遠大な人だったのだと。自分よりも小さなその身体の中、宇宙のように底知れないものを、きっと彼女は抱え微笑んでいたのだ。
 そう、いつだって思い知る。


 ぴちゃん…と、聞こえるわけもない水滴が耳に響く。細い腕には点滴が刺され、眠る女の子の顔は真っ白だった。
 規則正しく落ちる水滴は正しく彼女の体内に入り、彼女の命を守っている。
 こんな風になるなんて、思いもしなかった。腕の中に赤ん坊を抱えながら、和也はぼんやりと思った。
 つい昨日、自分はシスターたちに打診したばかりなのだ。彼女と遠出をしたいと。彼女に新しい日傘を与えて、もっと自由に好きな場所に行かせてはどうかと。
 それは受理されたのに……その直後、シスターたちは呟いていた。あの言葉は、やはりまだ彼女を一人好きな場所に行かせることも、遠出させることも危険と判断されたためだろう。
 遣る瀬無くて仕方がない。情がなければあんなにも取り乱しはせず、ましてこんな状態になることもなかっただろうに。
 それ故にまた、自由が減るのか。こんなにも、世界を愛でるに相応しい子供は、他にいないというのに。
 教会に併設された孤児院に世話となっている身で思うには不遜ではあるが、こうしていると神というものの存在などないのだと痛感してしまう。
 もしも実在するというのなら、それは悪魔と同義ではないか。
 生きようと、こんなにも必死な美しい命を、どうして苦しめてばかりいるのか。もっとずっと羽撃くための羽を用意すべき人間を、こんなにもあらゆる枷で捕らえなくてもいいではないか。
 「……和也、どうですか?」
 「シスター……」
 足音を殺して室内に入ってきたシスターを見遣り、ホッと息を吐く。他のシスターではなく、この女の子の教育者であるシスターで良かったと、そういうかのように。
 それに微かに苦笑し、シスターは和也の隣に椅子を寄せて座った。目の前には、幼い女の子の痛々しい姿。
 沈黙が暫くの間、流れた。互いにあまり言葉を紡いではいけない、この空間の厳粛さを知っているからこその沈黙とは別の、言葉を言い倦ねている静けさが入り交じった静謐。
 それを感じ取ったのか、初老のシスターはちらりと和也を見遣って、やんわりと笑んだ。それはどこか眠る女の子に似た仕草だった。
 それに勇気づけられてか、和也が戦慄きそうな唇を動かした。
 「シスター……また、認めてもらえますか」
 「………なにをですか?」
 「こいつの…遠出とか、日傘の、件とか………」
 「?それはもう許可をした筈では……」
 軽く首を傾げ、不思議増な声音が答えたその言葉に、和也は目を見張らせる。
 「え…でも、だって……昨日、やっぱりまだって……」
 そう確かに自分は聞いたと、困惑して和也が口にすれば、その言葉に思い当たる節があったのか、シスターが苦笑を深めた。
 「ああ……違いますよ。それは、別件です」
 「別件?」
 「ええ……この子の、この状態のことですよ」
 憂いを秘めて呟き、シスターは眠る子供を見つめた。同年代の平均値よりも幾分小さな体躯は、元々の線の細さも相まって、まるで人形のように脆弱だった。
 それでもそれ相応の努力でもって、この子供は自ら一人、外を出歩くことが出来るところまで高めたのだ。
 走ることは出来ず、長距離も無理。そんな規制はあっても、それを子供自身が誰よりも自覚し、そうして生きてきた。まだ10年程度の、その年月を。
 そんな短い人生の中の、今回のこれは、初めての反乱だった。
 己の身体に対しての、反乱だったのだ。
 「この子は感情が昂ると、しばしばこうして高熱を出すんです。前にもありました。覚えているかしら、あなたが原因の時もあったんですよ」
 「俺、が………?」
 正直、まるで覚えがなかった。彼女はいつも静かに笑んでいて、自分はそんな風に昂る感情がないと、そんなあり得るはずのない偶像を抱きつつある程だったのだから。
 首を振り困惑を示してみれば、穏やかにシスターは笑った。過去の過ちさえ子供は許しているのだから責めはしないと、そういうかのように。
 「この子が抱いて眠るぬいぐるみを捨ててしまった時。それに、そのあと、いつもパジャマ姿はおかしいと、この子にいった時」
 「…………え」
 「本当ですよ。あなたの前でこの子がどんな顔をしていたか、私は知りませんがね。私はただベッドで泣きじゃくるこの子を、抱きしめていましたから」
 「だって……でも…………」
 「解るでしょう、和也」
 穏やかに、シスターが問いかける。それは断定するかのような響きがある、柔らかな音色。
 「この子は身体の弱さを、誰よりも知っているんですよ。だからこそ、人前では泣けないし、騒げません。そうすることで自分の身体がどうなるかを、悲しいくらいこの子は解っているんです」
 そうした宿命的なまでの聡さがこの子供にはあるのだと、悲しむように見つめる眼差しを受けて、和也はただ小さく頷いた。………それはずっと自分が感じ続けた、負い目にも似た憧れ。
 自分は持ち得ない、それは彼女だけが持つ強さ。身体の弱さを加味されてもなお、彼女を雄大なるものに見せる、因。
 微かな憧憬を乗せた瞳を、けれど奮い立たせるように戒めた和也を見つめ、シスターが微笑みながら立ち上がった。
 それを追いかけるように視線を巡らせれば、ちらりとシスターは眠る子供に目を向けた。
 「和也、昨日の決定は覆りはしません。この子の状態が落ち着いたら、伝えてあげて下さい」
 そうして付け足すようにいたずらっぽい声音で、付け足した。
 「それから、起きたなら挨拶をするものですよ?」
 「え?」
 驚きの短い声を零して、慌てて眠っている筈の子供を見てみれば、天井を見つめる目は確かに開かれていた。
 それはどこか楽しげな遊びの最中の、朗らかな柔らかさをたたえていた。
 「……………ごめん、なさい、シスター。それから、ありが、と…ござい、ます」
 微動たりとも出来ないその状態で、それでも彼女ははっきりとそう告げた。
 その様を誇るべきか困ったように苦笑して、シスターは暇を告げると部屋を出ていってしまう。
 残された和也は、腕の中の赤ん坊とともにどうするべきかを一瞬迷う。何となく、先程の話を聞いた後では、妙に居心地が悪かった。
 「………ごめんな、さい、和也」
 「へぇ?!」
 突然の彼女の謝罪にぎょっとして、奇妙な声が漏れた。腕の中の赤ん坊が驚いたのか、しきりに瞬きを繰り返している。
 「驚かせた、でしょう、昨日。取り乱して……もっと、落ち着いて、いなきゃ…いけない、のに」
 「いけないっていうのは、変だろ」
 溜め息を吐きながらいう女の子は、やはりどこから見ても自分より小さい筈なのに、自分の手など届かない遠くにいるように感じた。
 「俺らはまだ子供だし、落ち着いていないのが普通だろ。お前はさっさと大人になろうとし過ぎじゃねぇか」
 「……………?」
 憮然と言う和也の言葉に、彼女はとても不思議そうに目を瞬かせた。
 天井を見つめたまま、横を向くにも力が入らないのだろう、その身体で。
 それでも彼女は言葉を紡ぐ。凛と響く、鈴のように鮮やかな音。
 「子供、でも、責任は、とれる筈、よ。私は、自分、の、生き方に、責任…を持ちたい、だけ」
 大人になろうと思ってはいないと、不思議そうに彼女はいった。それこそが大人でさえ難しい生き方だと知らない、無垢な目のまま。
 「その子…を見つけて、今までよりも、ずっと、そう、思ったわ。だから、つい…自分の手で、どうにか、したい、なんて。バカなこと。考えて。あんな風に………なって。みんなに、迷惑、かけたわ」
 「だから、それが………」
 「子供、だから、迷惑、かけて、いいなんて、こと、ない筈、よ。そうで、しょう?」
 断言する言葉は、鮮やかすぎて鋭利だった。それは周囲の人間たちに柔らかく響く音を心掛ける少女にしては、鋭すぎる音。
 …………………直感、した。
 彼女は、自らの生き方を己の言葉で縛り、そうあるべき模範として、形にしている。
 言葉とし宣言した音は、誰かに立てた誓いに似ている。彼女は、音としたその単語たち全てに対して責任を負いたいのだと、そういっているのだ。
 そんな途方もないことを、その細く脆い身体で体現しようとしているのだ。
 言葉も出ない、その荘厳さ。
 「私は、見つけた、わ。どうして…私が、生まれたのか、その理由を。とても………それは、身勝手な、思い込み、だけど。それが、確かに、勇気に、なるわ」
 「………………?」
 「だから、恥ずかしく、ない、生き方を…したい、の。もっと、もっと、きちんと、した、人間に…………なりたい」
 それはひどく曖昧で抽象的な願いだった。どんなものをそういうのか、きっと彼女自身解ってはいない。ただそうありたいと願う気持ちだけが溢れているのだろう、青かった頬に紅がさしはじめた。
 ずっとずっと過去、自分は知らずこの子を苦しめた。
 この先の未来、自分が安息を与えられるとは限らない。
 それでも、思う。贖罪ではなく、自分の生まれた意味を探るために。
 彼女が己のそれを身勝手な思い込みと称するように、自分のそれも、ひどく身勝手な感情だ。それでも確かに、その感情があるが故に、自分は今までとは違う勇気を、胸に植えることが出来る。
 果てのない鬼ごっこのようだ。腕の中、うとうとと眠る赤子を見ながら溜め息を吐く。
 この小さな存在のために、彼女はずっと守ってきた己の中の約定を崩してしまうほどの衝撃を与えられたのだ。あんなにも取り乱すほど、彼女が初めて執着を示した存在。
 きっとこの赤ん坊は、身寄りのない私生児として、この院に引き取られるだろう。そう、予感ではなく確信して思えるのは、先程のシスターの姿が浮かぶからだ。
 彼女もまた解っていた。この赤ん坊がこの子供にとってどれほど大きな存在になるかを、肌で感じた。
 彼女は生きる道を見つけた。
 自分は、どうだろうか。
 ぼんやりと決意を秘めた彼女の瞳を見つめながら、脳裏に浮かぶ像を追い払う。
 今はまだ、この二人が確かに一緒にいられるかを、見極めなくては。そうしてそれが可能となった時は、決断を下そう。
 自分には自分の生きる道がある。
 …………決して彼女は同じ道をなどとは望まない。
 自身の短い命を自覚しているからこそ、奔放で真っ直ぐな彼女は、それ故に人を束縛することもまた、好まない。
 潔い子供は、きっと鮮やかな大人に変貌することだろう。他の誰にも真似出来ない、美しい生き方を送る人間に。
 まるであの日傘の鈴のようだ。ふと脳裏に蘇るその音色を味わいながら、疲れたように目蓋を落とす彼女を見遣った。長い睫毛が薄暗い室内で柔らかい闇に包まれる。
 この子は自身を束縛することには無頓着なくせに、人の願いを掬いとる。
 居場所が解るようにと周りに安堵を与えるために、決して指先に包みはせずに音色を響かせる日傘の取っ手の先の、あの高い鈴の音。
 望まれたなら、その音色を鮮やかに響かせるだろう。
 その存在を知らしめるように、求めるものには与えられる癒しの音。
 そんな大人に、きっとなる。


 ………その変貌を間近では見ることの叶わないことを微かに悔やむが、それでも決めたことがある。
 自分の夢を叶え、彼女の願いを叶える術は、たった一つ。
 ほんの少しの別離を、厳かに受け止めなくてはと、幼い心で思う。

 眠る彼女の呼気に溶けるように、腕の中の赤ん坊もまた、健やかに眠っていた。








 まあそんなわけで。シスターが感情の起伏の激しさを見せないのはこんな理由。
 感情に身体がついていかないのですな。厄介なことです。
 そうしてまあ……物語はやっぱり続くのですが。
 このあと、この赤ん坊と一緒に生きることに意味を見いだしたシスターの成長が、個人的には一番好き。
 人と関わることでこそ開花される花というのは、ちっぽけだけどとても美しいのですよ。
 たくさんの小さい花が集合した、小手毬の花のように。

05.2.15