柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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どうして、と、その子は首を傾げている。
自分にはその理由が解らない。

同じように、きっと

解らない自分が、彼女には不可解なのだろう。

それがどうしようもなく、腹が立った。





幸せの定義



 「……なにしてんだ」
 気付いて、つい声が漏れた。
 声と同時にしまったと思うが、もう今更だ。少し棘ついた物言いは、詰まりそうな声を無理矢理出しているせいだ。
 小さな影は振り返り、大きなその目を瞬かせた。人形のように無表情な、動かない表情のまま。
 真っ直ぐに目を向ける、彼女の癖。それは洞穴のように深く静かな目の中に落ち込んでいくような、そんな不可解な感覚を自分に巻き起こす。
 振り切るように僅かに視線を逸らせば、小さな声がほとんど動かない唇から落ちた。
 「見てるの」
 逸らした視線を同じく逸らし、また彼女は空を見上げた。
 薄曇りの、日差しの見当たらない昼間の空。太陽があるだろう位置だけが、仄かに光っている。
 白とも灰色ともとれない空の色には、何も映ってはいなかった。鳥もいなければ蝶もいない。まして綺麗な日差しなど、望むべくもない。
 見えるものなど一面の雲だけ。一体何を見ているのか解らないからこそ、声をかけたというのに。それさえ解らないのかと忌々しく思ってしまうのは、幼い身勝手さ故。
 解らない、という事が悔しいと、そう思わないようにするための防波堤。
 「………なにを」
 「………………?」
 呟けば不思議そうな目が向けられた。
 何を言っているのか解らないと、そう言いたそうな、目。
 そうしてその子はゆっくりと地面に添えられた腕を空へと伸ばし、指差した。
 今は朧な月より淡い、雲の奥に隠れた日差し、を。
 「太陽、見ていたの」
 きれいでしょうと言うように、小さく綻んだ口元。日差しのように淡く淡く染まる笑み。
 言葉に惹かれるように空を仰ぎ見る。………見えたのは薄らぼんやりした、僅かに光る雲だけだったけれど。それを無邪気な様子でその子は見ているのだと、もう一度繰り返した。
 反応のない自分に言葉を間違えたかと悩んでいるらしく、ちらりと彼女が自分を見た。何となくそれが嬉しく感じて、笑ってしまった。無意識に程近い自然さで。
 「ね…きれい、でしょう」
 その反応が彼女には共有できた光景故と思ったらしく、また、微笑んだ。初めての、自分への微笑。与えられないと思っていた、あの日の天使の微笑み。
 知らず頷いてしまう。自分の感覚の中では光った雲など珍しくもなく、それで太陽を見ていると満足出来るわけでもない。けれど、笑うその子がひどく嬉しそうだったので否定出来なかった。
 でも、だからこそ、思ってしまった浅はかな思い。
 これよりきれいなものなら、自分にも解る。きれいなものが好きなら、それを見た時はきっと、自分にも笑いかけてくれるだろう。きっと、今のように。
 僅かに胸が高鳴った。ようやくこの地に落としてしまった天使のために出来る事が見つかったような、そんな気がしたから。
 「太陽、好きなのか?」
 ドキドキと鼓動が聞こえる。うまく動かない唇をどうにか動かしながら、問いかける。
 こくりと頷いた彼女を視界の端に住わせたまま、もう一度空を見た。淡い淡い光。もっと鮮やかな時なら、もっとずっときれいだ。青空で、白い雲が添えられて。じっとしていられなくて駆け出してしまうくらい、きれいだ。
 「なら、もっと天気のいい時に、ここに来いよ。もっと…ちゃんと太陽が見えるぞ」
 そういって、答えを求めるように空にあった視線を辿々しく彼女に落とした。
 その子は笑っていた。変わらず、笑っていた。
 小さなその身体を埋めるように足に寄りかからせて、真ん丸になりながら、膝に頬を乗せて。
 「…………………ぁっ」
 その顔を見た時、また間違えたと、直感した。
 あの日天使が逃げたように、また逃げてしまう。自分の言葉から、天使が消えてしまう。
 待ってと叫びかけて開かれた唇が音を出すより、小さく小さく彼女が囁いた。
 「見れない、の」
 「へ?」
 「見れない、の。天気、いい日、ダメ……だから」
 夢見るようにうっとりと目蓋を落とし、見た事のないその光景を見つめるように、彼女は微笑んだ。まるで、そのまま空に溶けていってしまいそうに。
 そうして不意に思い出す。
 彼女は、日傘がなければ歩き回る事も出来なかったことを。
 それを置き忘れて院まで帰る、たかだか散歩道程度の距離で、倒れる事を。
 なんて不用意な発言。………それを知っている筈の自分が言った残酷さを、けれどこの子は責めるわけでも詰るわけでもなく、ただ微笑んで受け止めたのだ。
 「植物に……生まれて、みたい、ね」
 「…………」
 「きれいで、優しく、て。それに……太陽、たくさん、浴びれる」
 風と一緒に踊れて、雨と一緒に遊べる。
 ずっと眠る事しか出来ない自分より、もずっとずっと自由に動けるように見えた。
 出来る事が本当に少なくて、ようやく、一人歩けるようにはなったけれど。それでもどれだけの心配を回りに与えているか、自分の日傘に飾られた鈴を見れば解ってしまう。
 それを与えられた時に隣にいたのは、やっぱりこの男の子だったと思い出して、胸のあたたまる思いに知らず綻ぶ唇。
 「和也、植物、好き?」
 問いかけて、また笑う女の子。
 言葉にどう換えればいいか解らなくて、ただ頷いた。植物は好きだった。与えれば与えた分、ちゃんと返してくれる優しい自然たち。
 そうして思う。……似ているのだな、と。
 与えた優しさの分、彼女はどれほどそれが誤った方法でもきちんと気付いて、微笑む。
 その小さな身体で、痛めただろう言葉さえ浄化して、笑うのだ。
 遣る瀬無くて、泣きたい気分になる。癇癪を起こしそうな時な筈なのに、それ以上にずっとずっと悲しくて、泣きたい。
 唇を噛み締めてそれを耐えてみれば、その子は笑った。柔らかく柔らかく。
 「でも…私、人間、だもの、ね。いま…こう出来るのが、幸せ、なの」
 淡いその日差しを全身で浴びる事が出来る。
 たった一人、こうして歩く事が出来る。
 言葉を覚え、人に伝える術がある。
 だから、幸せ。
 たったそれだけが、この上もなく幸せなのだと、小さなその女の子は微笑んだ。今浴びるこの日差し程に淡く、白い空に溶けてしまいそうになりながら。
 間違わないようにゆっくりと、単語を思い出しながら話す片言の口調。初めはふざけているのかと思ったそのしゃべり方さえ、今はあまりにしっくりと馴染んでしまった。
 自分達のように駆け回ることも出来ず、いつだって遠くから眺めるだけの女の子。
 陽射しに弱く、寒さにも暑さに弱く、一年の半分以上、ベッドに横たわっているような、女の子。
 言葉を知らずに院に来て、ようやく人と会話が出来るまでになれた、女の子。
 連ねた事実の中、どれ程の努力を彼女はしてきたのだろうか。
 痛ましい程に細く小さなその身体、で。
 この僅かな、雲に隠された微かな日差しを見上げる事が出来ると嬉しそうに言うその事実が、どれ程切ない事か解らない程、自分だって馬鹿ではないのだ。
 前にフォークダンスを見ながら、それは幸せそうに笑っていた事を思い出す。
 あれもまた、今と同じなのだろう。
 自分には解らない、それはあまりに穏やかすぎる感情だ。
 動かない身体で、羨むのではなく微笑ましく見つめるなど、自分には出来ない。
 彼女の静謐さ。彼女の中の遠大さ。
 計り知る事も出来ないそれらに、息が詰まる。
 ………泣き叫んで許しを乞うたなら、楽になれるだろうか。
 あの日、詰るように叫ぶように、それでも必死に捧げた言葉のように。
 解らないけれど、ただ潜めた息で彼女を見つめる。
 自分には解らない幸せを、噛み締めて生きる小さな女の子。
 解らないのだと囁く事が悲しくて、唇を噛んだ。
 それに気づいた小さな指先が、差し出される。軽く、幼い子供が親の裾を引く程に、軽く、指をつままれた。
 軽やかに引かれ、(ひざまず)くかのようにして、足を折った。
 そうしたなら、やんわりとした芝生が抱きしめるように膝を包み、つままれた指先はしっかりと包まれるように握られた。
 「私、むずかしいは、解らないの。でも、知ってる、の。幸せの、定義」
 それはひどく難解な問答。けれど花のように薄く小さな唇は、ありふれた歌を歌うような柔らかさでそれを綴った。
 小さな女の子が言うには、それはどこか畏まった言葉だ。きっと誰かが読み聞かせた本の中、あった言葉を覚えていたのだろう。自分でさえ知らない、それは単語だった。
 「知って、いるの。だから、悲しい、違うの」
 泣きそうに歪められた自分の顔を撫でる、細く小さな指先。
 首を振り、その指を拒みながら、それでもどこかで求めていた。
 幸せという意味を、理解しきれない自分が悲しむ。それはどこか傲慢な、悲しみだ。それでも、それを理解した上で慰めてくれる、この小さな指の尊さに、息を飲む。
 ああやはりと、思いながら、飲み込んだ息は熱く(まなじり)を濡らして零れ落ちた。
 撫でる仕草で頬を辿る女の子の指は、まるで十字を切るかのように滑らかだった。
 仄かな日差しは変わらず降り注ぎ、決して痛めつけない柔らかさでただ自分と女の子を包んでいた。


 それはひどく優しく幸せで

 同じくらい

 悲しく苦しい、昼下がり。








 『フォークダンス』で書けなかったラスト部分。
 ただ見つめることが出来るようになった。それだけが彼女にとって劇的変化であり、例えようもないくらい、幸せな事。
 一緒に駆け回る事だけが幸福ではない、自分とは別の形の幸せを感じ取る人間を見つけるのは恐怖に近い、羨望ですね。
 まだ和也はそれを理解しきれる程には相手を知っていないのですが。あと少しあと少し。
 こんなやり取りと和也の癇癪が繰り返されつつ、仲良くなっていくのです。いや、仲良くというか……一緒にいるのが自然に。

05.2.25