柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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その人の記憶は映画のワンシーンのようだ。
自分の手を引くその人の背中。
見上げた先には栗色の短いソバージュ。
そうして教会の前まで引かれた指先が、不意に解かれた。

『ここでまっていて』

そう囁いて振り返り振り返り、彼女はもと来た道を戻っていく。
ぽつりと残された自分は、
いつまで待っていればいいのだろうとぼんやりと考えた。
柔らかそうなその髪が風になぶられ、ふわふわ浮いていた。
綿菓子のようだと、そう思って。
もう二度と会うことはないと
何とはなしに、悟った。

それでも駆け出さなかったのも、泣き出さなかったのも。
ひとえに。
己の死期がどれほど短いかを自覚していたからだ。

…………それは細く小さな腕しか携えぬ頃の、絶望色の記憶。





手繰った記憶の欠片たち



 「あら、どうしたの?」
 問いかけられて、顔を向ける。ぼんやりとした、僅かに濁った目で。
 一瞬、盲いた者のような錯覚を受けるが、確かにその少女に視力はあり、また、他の五感の全ても障害を請け負ってはいない。
 小首を傾げて何を言いたいのか問いかけるような仕草をすれば、困ったように笑い返された。
 「今日は日が出ているのに、洋服に着替えていたから」
 「あぁ………」
 相手の言っていることがようやく理解出来、頷く。幼い少女の割にはあまり表情は動かず、言葉数も少なかった。
 緩慢な動きで後方を指差した少女は、唇をあまり動かすことなく、小さな音で答えを紡いだ。
 「和也が、パジャマ、ばかりで………変、だって………………」
 着替えられないわけではないのだから、黙らせるために行ったのだと、自分で納得しているのか、小さく頷きながら呟いた。
 どこか無感動な少女のその仕草に眉を顰め、座っていた椅子から立ち上がる。
 足早に少女に近付き、跪いてその視線に合わせたなら、慈愛深き笑みでもって手を差し伸べた。
 「ねえ……和也は変だと言いたかったのではないと思うわ」
 「でもはっきりと、そう言ったの、シスター」
 頬を撫でる大きな指先は、けれど細くたおやかだ。体温の低い少女には相手の体温はほのかに熱く感じ、奇妙な感覚を与える。
 真っ直ぐに、自分の解釈のどこが誤っているのかと問いかける視線を受けながら、言葉を模索するシスターを見つめる。
 「そうね…和也は少し、照れ屋さんだから」
 「照れ屋なら、私のぬいぐるみ………捨てたりしないと、思うわ」
 相手が何を諭したいのかに気付き、それを制するように少女は呟く。微かな恨みすら感じさせない淡白な音は、だからこそ、悲しみが深い。
 それに気付くからこそ憂える瞳で少女を見つめるシスターは、必死に彼女の言葉を覆せる音を探す。どこか……この少女は危ういのだ。この教会に引き取られたその時から、他者に一線を引いていた。
 それは決して反社会的な行動に出る、という否定的なものではなく、ただただその身を受け流す厭世的な態度だった。
 周りの関わりの一切が彼女の心に届かない、それをひどく痛感させる姿なのだ。
 「でも、気になる相手でなければ、意地悪もしないんじゃないかしら」
 「シスターは、意地悪も、好意の裏返しだと、言いたいの?」
 困った風に必死に自分を説得しようとするシスターを哀れむように、少女が確信を言葉と変えた。シスターの言いたい事ぐらいは理解しているのだと、そう示すように。
 きょとんとした大きな瞳は何も見ないまま、真っ直ぐにシスターに捧げられる。
 あまりにも深く底知れない虚無は、一瞬歳を経たシスターさえも息を飲み込む。…………それは未だ年端もいかぬ幼い少女が抱えるにはあまりに強大すぎる、(くら)き底。
 それを翻さぬままに、少女はさえずるように愛らしいその声を奏でた。
 「それでも私はね、シスター。自分の命の、終わりも考えず、ただ生きる人間の、軽はずみな言葉も、行動も、…………自分の中に、残らないの」
 遠く遠くを見つめるように囁く声音はあまりに儚くて。
 それ故に、この幼い少女の抱えるものの重みを、知らず軽んじている自分達を突き刺すほどに鋭い。
 命はいつかは尽きるもの。それを言葉として知っていても……実際自分の身にそれが与えられるなど、結局は未だ誰も信じてはいない。
 だからこそあまりにも軽挙な行いが跋扈するのだと、少女は無垢なる瞳に批判を浮かべるでもなく……不思議なものを見つめるように呟くのだ。
 解らないのだろうと、寄せた眉さえもが愚かな行為だ。
 少女はただただ真っ直ぐに、己の尽きるだろう余命を見据えて生きている。その潔さを悲しみ哀れむだけの価値など、惰性の生の中を歩んでいるだけの自分達に、あるわけもない。
 「どうして、かしら。短いと解っているの。だから、沢山のことを、知っておきたいの」
 不思議そうに少女は小首を傾げ、自分の頬を包むシスターの温かな手に小さなその指を重ねた。
 ひんやりと、冷たい。
 死の国が間近に迫っているのではないかと思わせるその冷たさに、さっとシスターの顔が青ざめる。
 「それなのに……残らないの。目を瞑ったなら、何もかもが消えて、私の中に残る風景は、闇だけに、なってしまうの」
 「熱…………!こんなに高く………!」
 滔々と流れる少女の言葉を遮り、金切り声のような叫びでシスターは少女を抱き上げた。
 身体は火照っていて熱いというのに、その末端の氷のような冷たさ。ゾッとする最悪の予感に全身から力が抜けそうになる。
 ぼんやりとその横顔を眺めながら、少女は小さく小さく呟いた。
 「覚えていたいの、シスター。あなたの顔も、その声も。和也の意志も、その意味も」
 自分を抱きしめ守ろうとしてくれるその心。それなのにほら、目を閉ざしたなら。
 「どうして、覚えられないのかしら。目蓋の裏は、赤にさえ、ならないの。いつだって……闇色だけ」
 未来を求めることが出来ない。現在だけを糧にしか生きることを許されない。
 その事実だけでもって、世界は闇に変わってしまう。
 それを、幼いその身は知っていた。その身をもって、知っていた。
 ゆっくりと落とした目蓋を、どうかどうかと祈っていた。
 思い出すのは、たった一つの寂しい画像。
 自分を送り出す寂しい背中。振り返り、振り返り案じながらも、小さくなって消えていったか細い肩。
 ふんわりと柔らかそうな、栗色の短いソバージュが風に舞い、遠くに消えていく。
 ああ……どうしてでしょうか。
 こんなにも優しいシスターの顔を覚えることも出来ないというのに。
 いつだって何かを訴えたがるあの男の子の顔を覚える事も出来ないのに。
 あの幼い日の、最も忌むべき悲しい記憶だけは、鮮明に残り幾度となく繰り返し浮かんでは消えるのです。
 ポタリと落ちた涙を拭う、指先の優しささえ知っているというのに、落とした目蓋はもう、像を結ばない。
 あたたかなその面影を思い出すことも出来ない、薄情な自分。
 そばにいたいのです。あなたたちの、そばに。
 けれど同時に痛感するのです。
 こんなにも冷たい身体を有する私は、あなたたちと一緒にいない方がきっと良いのだと。
 愛しい思いを断ち切って、死に行くその道程はたった一人、生きていたいのです。
 ………愚かな選択と笑って下さい。
 それでも私は、あの幼かった日に定めたのです。
 一人生き、一人死のうと。
 ふんわりとしたあの栗色の短いソバージュが遠ざかる姿を眺めながら、確かに定めたのです。
 奇跡でも起きない限りは………私は短いこの命の間、そうして生きるしかないのです。

 …………………どうぞ、愚かな選択と、笑って下さい。




 「シスター、どうした?」
 「………いいえ、少しだけ…昔のことを思い出していたの」
 「昔?」
 「ええ。あなたと同じくらい…もう少し、小さかったかしら」
 「俺と同じくらいの頃か。思いつかないな」
 「そうね。でも私があなたと同じほどの頃があったように、いつかはあなたも、私くらいの歳になるわ」
 「当たり前だ。ずっと子供じゃ困る」
 「見たいものね、大きくなったあなたを」
 「一緒にいれば見れるだろう。俺はシスターがおばあちゃんになるのも見れるぞ」
 「あら、それは素敵ね」
 「…………普通いやがらないか」
 「言ったことなかったかしら。私、おばあちゃんになるのが夢なのよ?」
 「おばあちゃんのシスター………。子供と同じくらい、思いつかないぞ」
 「そうね、私にも思いつかないわ」
 「でもな、シスター」
 「……………?」
 「一緒にいれば、解るようになるよな」
 「そうね……一緒にいられれば、解るわね」
 「じゃあ、約束だ。シスターの夢、俺も見る!」
 「あらあら、じゃあ私はどんな約束をねだろうかしら」
 「なんだ、シスターは大きくなった俺じゃないのか?」
 「そうね…………」


 「いま、一番見てみたいのは多分、あなたの大きくなった姿ね」








 そんなわけで解る人には解る、シスターの話でした。
 ラストはあえて会話文だけ。
 どんな顔で、どんな声で話しているかはご想像にお任せいたします。

 今回のこのストーリーでシスターのイメージが変わった方はいるものかなー。
 どんな人物だって微笑めるためにはそれなりの歪みを通過した後の、強さだと私は思うのですよ。
 どれほど無垢に笑えたとしても、その奥には痛みも悲しみも苦しみも、そういう冷たい部分を経験したが故の素地があるから、純化出来るのだと。
 シスターはその典型。何もかも全てに絶望した後の、屍のような生の最果てで、初めて生まれた意味を見いだした。
 そうして生きるために生きようと自分で決めて、ああいった少女へと変貌したのです。
 まあ元々の資質もあったのだろうが、痛みを知っているが故の成熟さは彼女の中で不可欠だったと思いますよ。

16.9.26