柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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その子は無愛想で
じっと何かを見る癖があって
ちょっと怖い顔の造作が
そんな癖を悪い方に転がしていた

ほんの少し、近づけばいいのに
そうして話してみればいいのに

きっとそうしたら
この子がとても情深く優しいと、解るのに

それでも今日もその子は傷だらけ





妖奇譚。



 ガサガサと草を分け入りながら少年が山深くへと入り込んでいった。
 この付近は既に地元の人間でも足を向けない、山の深部だった。険しさへの危険以上に、山への畏怖の心故だ。
 実際、未だ闇の権限の強いこの時代、人間たちに妖怪と称される類いの生き物は極普通にこの辺りで見かけることが出来る。
 今現在の自分のように、と。そんなことを考えながら少年は周囲を窺う。
 髪の合間から除くピンと立てられた黒い耳が、どんな小さな音でも拾おうと健気にアンテナを広げていた。
 自分よりもずっと大きな、けれど自分よりも歳下の子を、少年は探している。
 昔から何かあると山の奥深くに隠れてしまう子だったのだ。きっとそれは、彼の外見に怯える村人を知っているからなのだろうけれど。
 いつものメンバーでいつものように里の中で顔を合わせたら、やはりいつものように彼にじゃれついた天狗を思い、溜め息が出た。
 きっと今頃彼は落ち込んでいるだろう。彼が悪いわけではないと自分は知っているし、おそらく相手も解っている。
 それでも彼は肩を落として大きな体躯を丸めて、途方もなく困ったように険しい顔で地面を睨んでいることだろう。金の髪すら萎れるように寂しそうに。
 だから、自分も逢瀬の途中だったけれど、彼を追いかけたのだ。なにも気にすることはないと、そう背中を叩いて笑いかけに行きたかったから。
 ………それは昔に自分が彼に与えた、一番初めのものだったから。
 少しだけ怒った顔をした想い人は、それでも深い溜め息と次回の約束と、頬への口吻けだけで見送ってくれた。
 思い出し、顔中が沸騰する思いがした。恐らく真っ赤になった顔を一人晒しながら、ぴくりと耳が動く。やっと、彼の音を見つけた。
 ホッと息を吐いて、少年はまた駆け出すように山道を分け入っていった。
 まるで彼と出会ったあの日のようだと、そんなことを思いながら。


 その日は、不思議なことに、空を見上げると随分と雲が降りていた。
 さして高くもない標高の山の頂上が霞んでしまう。そう思い、既に山の奥深くまで入っていた少年は周囲を見ながら首を傾げた。
 靄のように辺りを覆うものは、霧ではなく、雲だ。形状としては霧だけれど、遠くから見ればこれは雲だろう。
 先程まで自分もそんな風に下から見ていたのだから間違いは無かった。
 視界も足場も悪い中、それでも前に進んだ。当てがあるわけではないし、確信があるわけでもなかった。
 ただ、一瞬風の中に声が聞こえた気がしたのだ。
 小さな子供の声。まだ甲高く、上手く言葉が綴れていないほど幼い声だった。
 あるいは遠く微か過ぎて単語として聞き取れなかっただけかも知れないけれど、それでもこんな山奥に子供が入り込むのは危険だ。
 時折村の子供が肝試しや度胸試しで入り込んでは迷ったり怪我をしたりするけれど、いくら危ないのだと注意をして帰しても幼い子供たちは同じことを繰り返すように出来ているらしい。
 もっとも、人間という生き物は短い命の中で一瞬で大きくなっていくのだから、そう考えれば自分が見た子供たちは同じ世代ではなく親子や孫ほどの世代差があるのかも知れないけれど。
 山の中にいると村での時間感覚を時折忘れそうになってしまう。
 また近いうちに村の方に降りて、人間に交わって暮らすのもいいかも知れない。そんな楽しげな未来を思い浮かべながら、足は迷いもなくスタスタと進んでいく。
 湿った土は滑りやすく、露を含んだ草や木の根も危険だった。けれど進む足には傷もなく、まるで平地を歩むように滑らかだった。
 …………それも道理なのだろう。歩む少年の姿には、人ならざる証が目に見える形で漂っている。
 奔放に跳ねる髪に紛れるようにして、けれど明らかに意志を持って動くもの。
 獣毛に覆われた、それは髪と同じ黒い、猫の耳だ。後ろ姿からは作り物ではなく、己の意志で自在に形を変えていることをはっきりと知らしめる、やはり黒い尻尾が伸びやかに揺れている。
 少年は村人ではなく、齢を経た妖怪、化け猫だった。とはいえ、彼は人を騙し喰らうことはない。
 ただ時折猫の姿や人の姿で村人たちの中に交じり、その生を間近で感じ、そうして去っていくだけだ。
 その上時に人以上の生真面目さや、正義感ともとれる自然摂理の掟に反した優しさを人間に与えてしまうので、同じ化け猫仲間の雌たちには手厳しく注意を受けることもしばしばある。
 そういった、少々変わり者の化け猫だった。
 だからこそ、風に忍んだ子供の声などという、妖怪たちにとっては取るに足らない些事に足を伸ばす気も起きたのだろう。
 たとえそれが現実に赤子であったとしても、それを探しにいく手間と労力と、それを喰らった場合に得られるエネルギーとでは割に合わない。
 それでも少年は進む。見返りを期待しているわけではなく、自分がそうしたいから進んでいるのだろう、淀みない足取り。
 そしてその歩みは段々と確かな目的を持って進むようになって来た。初めに聞こえた微かな声が、また風の向きが変わったせいか、聞こえたのだ。
 少年は風上を目指し、急いだ足取りで前に進み始めた。人などでは到底成し得ない速度で危うげもなく少年は進む。
 5分も更に進んだ頃だろうか。…………いよいよ辺りの霧も濃くなって、周囲の視界もあやふやになってきた。
 視界が悪くなった代わりのように、声が響く。
 大分ハッキリしたその声は、数人の喧噪のようだった。一方的な罵声と怒声。どれもまだ甲高い、子供の声だ。
 それに反論する声は聞こえない。けれど、少年が聞いた声は響く音の中には無かった。
 ならば今は聞こえない、押し黙っているのだろう反論すべき相手の声なのかもしれない。思い、早めていた歩調を更に早めた。
 地面すれすれなほど上体を傾斜させ、柔軟な足のバネが驚くほどの瞬発力を持って小さく軽い少年の身体を前に押し進めた。
 いっそ四つん這いで進んでしまいたい。草履も邪魔だった。
 猫の姿になってしまえば小回りも利くけれど、状況が解らない今は人の形の方が都合がいい場合もある。
 相手が村人なのか妖怪なのか。それすら解らないが、諍いがある中に猫の姿では割って入れない。
 クンと鼻を鳴らす。鼻先に漂うものがあった。………誰かが怪我をしているのではないだろうか。微かな、血の香りがする。
 焦り、蹴った爪先が草履を擦り切ったことにも気づかなかった。
 どうして焦っているのか、自分でも解らなかった。ただ風が早くと背中を押した。あの、初めの声が響いた時と同じ、風だ。
 おかしなこともあるものだと、そんなことも考えられずに駆けた先、唐突に視界が開けた。
 ………開けた、というのは語弊があるだろう。周囲に木の気配がないだけで、やはり視界は濃霧の中であやふやだ。朧げながら輪郭が解る、その程度だ。
 そんな中、また子供の声が聞こえた。
 「なに睨んでんだよ、忌み子の癖に!」
 「そーだそーだ、汚い色で生まれたくせに!」
 …………楽しそうな笑い声の中、混じる罵声。
 霧で識別出来ない子供たちは、数人で誰かに詰め寄っているようだった。
 多勢に無勢は卑怯だろう。喧嘩をするならお互い納得の上で、当人同士だけでやるべきだ。
 そんな通常であれば有り得る筈のない、実現もされる筈のないことを思い、少年が子供たちの声の中に割って入った。
 「ちょっと、待ったー!!!!」
 誰がどこかもよく解らない靄の中、どうやら少年は上手く苛めっ子と苛められっこという相関図の真ん中に入り込めたらしい。それは前後から向けられる視線で少年にも解った。
 そして生まれたのは、沈黙。
 突然の闖入者に子供たちは訝しみ、少年は事情も知らずに入り込んだだけに続く言葉が見つからなかった。
 近くまで来たおかげか、ただの影にしか見えなかった子供たちの輪郭が若干しっかりした。どの子も少年と同じように、小さな可愛らしい獣の耳と尻尾を体躯に帯びている。それは綺麗な白だった。靄の中で陰りが見えてブチ縞らしいものはよく判別が効かない。
 どうやら村人ではなく妖怪たちだったようだ。もしかしたら仲間の子供かもしれない。ホッと息を吐き、とりあえず喧嘩は止めさせようと少年が改めて子供たちに向かった。
 「何があったか解んないけどさ、みんなで一人苛めんのはダメだぞ!」
 後ろでじっとしたまま動きもしない、声もあげない子供を庇いながら、まるで人間のような善性の言葉を化け猫が口にした。
 その異様さに子供たちは目を瞬かせ、不可解なものを見遣るように眉を顰めた。
 「ダメって、なんで?」
 心底不思議そうな声でそう尋ねられ、少年は即座に知っている解答を口にした。大半の妖怪は、なかなかその意味を理解してくれないのだ。
 「苛められたら悲しいし、苛めたら自分も痛くなっていくからだよ!」
 「なにそれ、まるで人間みたいなこと言ってら」
 「悪行を積むのが妖怪だろ?あんた、妖怪じゃん」
 思った通りの返事が返ってきてしまい、少年も言葉に詰まる。
 人の言葉で人の情を説くのは難しいのだ。ただそうだとしかいいようがなく、それでは相手も同じ理由で自身の行動を間違っていないと言うだろう。
 別に全ての暴力をダメだなど少年もいわない。捕食行動なら文句は言えない。それは捕食者が生きるための行為だ。被捕食者の命を通じて生きながらえるのだ。
 だからそうした時は、割って入りなどしない。どちらも己の知恵と力でぶつかるしかない。喰われたくなければそれを乗り越えるものを手にしなければならないのだ。それは、絶対的な自然の掟だ。
 けれど、これはそれとは違う。なんの理由もない暴力を楽しむ性情を少年は備えていない。
 …………そのくせ、その不当な痛みがどれほど悲しく苦しいかだけは、知っている。
 だからいつもいつも周囲にバカにされるけれど、それでも懲りずにこうして間に入ってしまう。
 どうして、なんて解らない。ここまで登って来たのと同じで、ただ少年はそうしたいと思ったからするだけだ。そこに作為も意図もない。
 「だけど痛いのも悔しいのも悲しいのも、それ解ってもらえないのも、嫌なんだって!」
 叫んだ瞬間、また、あの風を感じた。
 背中から響く風。何かを訴えるように、けれど音となることもなくただ響く風。
 背後にいるのは声も出さない子供な筈だ。一体なんなのだろうと振り返ろうとした瞬間、何かが頭を襲った。
 ガツンという、明らかな攻撃の音。………子供が放り投げるにしてはそれは大きい石だった。
 妖怪の中には子供でも怪力のものはいる。けれど手の機能上、子供は掴めるものが限られる。
 握力で無理矢理掴むコツを覚えるには、まだ彼らは齢を経ていない。何より、自分と同じ動物の変化ならばそんな能力は異色だ。
 何故と痛む頭を抑えながら見遣った視界には、空中に浮かんだ石が見えた。
 同時に、悟る。これは自分の仲間とは違うのだ、と。
 神通力に通じる動物は、稀だ。人のように修行を積むか、もとよりその能力を持ち得て生まれるか。…………神に通ずるモノとして。
 白猫とブチ猫の集まりかと思ったが、相手は猫ではなく虎だ。しかも、白虎。四神の一翼を担う神格を有する生き物。
 せめて背中の子供だけでも庇えるだろうかと、膝を折りそうな痛みの中で下を見遣った。そこには少年を見上げる大きな瞳があった。
 涙を溜めて震える身体。小さく幼い、守られるべき人間たちの赤子と同じほどに、脆弱に見える。
 それがあまりに愛おしい。昔から、人の子と遊ぶのは大好きだった。化け猫とバレて駆逐されても、それでも性懲りもなく何度も色々な村や里に顔を出してしまうくらい。
 だから、かもしれない。どうすることも出来ない現実が目の前にあったけれど、少年は恐怖に歪む顔ではなく、いつものような笑顔を浮かべられた。
 「大丈夫。気にすんな」
 震えそうな大きなその瞳にそっと告げ、小さな背中に回した腕でその背を気楽に叩く。もしかしたら死んじゃうかも、と。ほんの少しだけ思いはしたけれど。
 少年はたいした力もない、ただの猫妖だ。子供といえど神通力を持つ相手に敵う筈もない。それでも逃げるつもりも無かった。
 濃霧の中でも顔が触れそうに近づき、覆い被さり守ろうとした少年には子供の顔が見えた。鮮やかな金の髪をした、白い虎たちとは違う、けれど同じ虎の子。
 幼い瞳を見開いて、子供は自身を庇う少年を見つめ、その背中から自分目掛けて襲いくる石の数々を見つめた。
 それは確実に子供を狙い、その軌道上にいるこの少年すら粉砕しようとするだろう。ちょっとした暇つぶし程度の、気まぐれで我が侭で残酷な、自然淘汰の中で頂点に立てる種族であるが故の傲慢さで。
 自分に回される大きな腕。添えることを許されている自分の小さな指。初めての、守ろうとする意志が身体を包む充足。
 それを感じて、知らず子供から流れたのは、涙。………否、感情。
 塞き止め流れることを忘れ、表現の仕方すら忘却の彼方に置き去りにされ、縮こまり消え失せようとしていた、灯火。
 瞬間、何かが爆ぜる音が少年には感じられた。
 爆発というよりは砕けて砂に還元されたような、そんな無音の風の音。
 それはずっと少年が聞いていた音だ。感じていた風だ。ここに導いた、その声だ。
 砕けた石と同じように、今度は石を操っていた筈の白虎の子供たちが悲鳴を上げて頭を抑え始めた。
 何が起きているのか訳が解らない。解らないけれど、一つだけ解る。
 牙を剥き何かを叫ぶように口を開く腕の中の子供が、おそらくは成していることだ。なんの音もしないけれど、それでもそうと解る。
 そうでなければ少年一人に無害な攻撃など、自然現象ではありえない。
 「お、おい、お前、なあ、もう止めろって!じゃないと、お前まであいつらと同じになるよ」
 そうしたら今度はあの倒れ込んだ子供たちを守らないといけなくなる。ぎゅっと腕の中の子供を抱き締めて少年が悲痛な音で告げてみれば、ぴたりと風が消えた。
 否、風では……ないのだろう。先程からずっと風と感じていたものは、けれどこの靄を一切揺り動かしてはいなかった。
 ただ肌で感じ感覚で受け止めたそれを、風だと認識しただけなのかもしれない。
 ぎゅっと唇を噛むようにして口を噤み、ぼろぼろと大きな目から涙を零す子供を抱えたまま、少年は風だと思っていたものの正体に何とはなしに気づいて、腕の中の金色の髪を見遣った。

 川のせせらぎを随分と必死振りに聞いた気分になった。
 呑気にそんなことを思いながら、少年は懐から手ぬぐいを取り出して川の水に浸す。その間もずっと腕の中の小さな子供はしがみついて離れなかった。
 呻くわけでも叫ぶわけでもなく、ましてや話すということもない。ただじっと、少年の腕に小さな腕を回すだけだ。先程の現場をあとにする時でさえ、表情に変化は無かった。
 とりあえず倒れた子供たちもショックを受けただけで無事のようだったし、下手に相手が回復するより先に二人は現場を撤退した。
 既に大分下山していて、この辺りであれば慣れた村人もやってくる。もっとも、山に雲がかかるなどと言う奇怪な現象の間は、近くの村人たちも畏れて山に入ることはないだろうけれど。
 雲は、まだ山の頂きにいた。多分、あれが無くなれば先程の子供たちが帰った印になるのだろう。
 ぎゅっと絞った手拭いを手に、少年は胡座で座った膝の上に子供を座らせた。
 まだその腕にしがみついて離れない子供に苦笑し、ポンと頭を撫でる。
 「ほら、怪我…してんだろ?ちゃんと洗わないと治らないぞ?」
 擦り傷ばかりだけれど子供はあちらこちらに怪我を負っている。意識してか無意識かは解らないけれど、先程のように投げつけられた石の大部分は粉砕してダメージを軽減していたのだろう。
 初めから相手を捩じ伏せなかったことを考えると、無意識である方が濃厚かもしれないけれど。
 怪我と言うと、子供はびくりと目に見えて戦き震えた。
 そこまで痛かったのかと少年は驚き、腕に顔を隠す子供を改めて見遣る。
 目に入る範囲では、擦り傷だけだ。服の中に酷い怪我をしているのであれば、これだけ時間が経ったのだから、血が滲むだろう。けれど、それらもない。しがみついていても顔を顰めないのだから、骨も大丈夫な筈だ。
 それならば怯えているのは、先程の状況だろうか。首を傾げ、子供を落ち着かせるように少年は優しく小さな背中を撫でた。
 「どっか酷い怪我、したか?痛いか?」
 あまりに酷いとなると自分の手にも負えない。薬師にでも届けなくてはいけないだろうか。
 困惑した声には首を振る仕草を返され、やっと子供は顔を上げた。
 相変わらず大きな目の中に一杯の涙が溜まっている。けれど今はそれを流さずにいるつもりなのだろう、必死になって唇を噛み締めて引き結んでいる。
 そのせいでその容貌は更に険しく、般若に似た鬼気迫るものを背負っていた。
 子供の腕が、少年の腕から離れた。そうして幼い指先が、指し示す。
 …………その指の先は、血が滴る少年の額。
 痛いのも、酷い怪我をしたのも、自分ではない。見知らぬこの少年であることを、子供は知っている。
 そしてそれが自分のせいであることも、知っていた。
 「ん?あ〜これか。平気平気、俺、化け猫だもん。慣れてるよ、こういうのは」
 人間に石を投げられるのなど珍しいことでもないのだと、あっけらかんと少年はいう。それは確かな痛みを知っているけれど、それを許し、何故そうなるのかを冷静に知っている声だった。
 そうして、更に涙を増やした子供の瞳を見て、にっこりと嬉しそうに少年が笑う。
 「よしよし、泣かないでいいぞ。お前は痛みが解るんだな」
 今にも大泣きを始めそうに震える小さな体躯を、抱き締めるようにして頭を撫でると、ぎゅっとまた小さな指先が縋るように着物を掴む。ほんのりと、着物が濡れた感触が伝わり、子供がまた声もなく泣いていることが解った。
 少しの間落ち着かせるように背中を撫で、身体の震えが収まった頃、少年はずっと気になっていたことを子供に問い掛けた。
 「そういや、お前名前は?てか、しゃべれんの?」
 話せないなら身振り手振りでなんとかなるけれど、名称ばかりはどうしようもない。家まで送るにしても、どうすればいいかが解らない。
 問い掛ける声音に、子供は少しだけ身体を離してじっと少年を見上げる。思った通り目元は真っ赤で腫れぼったく、痛々しいと言うべきか怖いと言うべきか判断に悩むほどになっていた。
 けれどそんなことには頓着していない少年はただ首を傾げる。が、それでも見上げるままの子供に、少年は少し困った顔をしたあと、改めて口を開いた。
 「俺は…人間に混じる時は吉田義男って名乗ってんだ。だからみんなそう呼ぶよ」
 口がきけなくても耳が聞こえないわけではないようだ。それならばまあなんとかなるだろうと少年が気楽にいった言葉に、小さく子供の唇が開く。
 「よ…し、ぁ……し、お?」
 舌っ足らずな、発音など無視した空気のような声。
 目を瞬かせて子供を見遣れば、一生懸命口を動かしている。同じ動きで、上手く出ない音に眉を顰めて、それでも必死に。
 喋れないのではなく、喋ることがなくて発声の仕方が解らないだけらしい。それならなんとかなるかと、少年は子供と同じように大きく口を動かして声を出した。
 「よ、し、だ。どう、言えそうか?」
 「よぉしーぁ、…………?よ、し、??」
 「あはははは、いいよ、それで。言いづらいんなら、ヨシヨシでさ」
 お前はそう呼んでいいと、そういって。少し乱暴に子供の頭を撫でながら、少年は楽しそうに笑った。
 目を瞬かせながらその指先を受け止め、子供は気づく。その名前は、先程自分を抱き締め撫でてくれた時にこの少年がいった言葉だ。
 意味など解らないけれど、きっとそれは優しく温かい言葉なのだろう。それなら、この少年を呼ぶのに相応しい気がした。
 「よーしよし」
 「そうそう、上手いじゃん。その調子ならもっと一杯喋れるようになるな」
 自分を指を指して、今度ははっきりと音を紡いだ子供に、我が事のように少年は喜んだ。
 傷の手当もしていないし、草履も壊れて着物も泥と子供の涙で汚れている。そんな状況で、そんなものばかりを与えた元凶に、それでも少年は笑いかけた。
 そうして辿々しい発音でようやく子供が教えてくれた虎之介という名前を、それなら俺はとらちんと呼ぼうかと笑えば、子供は初めて笑った。


 ………まさかその後、帰る家もなく親すら解らないその子供を引き取り育てるなど、夢にも思わないことだったけれど。


 「あー、とらちん!やっといたー!」
 叫ぶように明るくそう告げて、吉田は草を分け入った。
 背中しか見えなかった相手は特別逃げるでもなく、じっとそこにいる。まるで自分に見つけて欲しかったような背中に少しだけ笑ってしまった。
 くるりと前に回り込んで顔を覗き込む。自分の腕の中に収まったあの小さな子供は、どんどんスクスク育ってくれて、今では自分よりかなりの高身長になった。
 とはいえ、それが更に異色として彼を目立たせ、村人たちが怯える一因にもなっているのだけれど。
 「ヨシヨシ………」
 小さく呼ぶ声も幼い頃と変わらない。困り果ててどうしようもなくなると、こんな風に自分を呼ぶ。育ての親の欲目ではないけれど、吉田にはそんな仕草は可愛く見える。
 「山中なら平気だって。あいつ天狗だもん。お前と同じ神通力あるんだからさ、ちょっと吹き飛ばされて木にぶち当たってたけど、また『とらちんどこいっちゃったー?!』って探してたよ」
 「…………でも、怪我……」
 「してなかったって。佐藤だって呆れてたよ、流石に」
 結構な距離を超音波の波動だけで吹き飛ばされたのだ。普通ならば木に当たったダメージよりも超音波による体内へのダメージの方が大きい筈だ。
 にもかかわらず、恋する一念なのかただの執念なのか、相手の天狗はすぐに戻って来て白虎の末裔を捜す始末だ。
 馬に蹴られないために傍観していた吉田と佐藤も、犬も食わない喧嘩だと笑ったほどだったけれど、人に愛されることに慣れていないこの子供には戸惑うばかりらしい。
 それは自分にも解る感覚だと、何故かやはり人間と恋仲になどなってしまった吉田も苦笑する。
 白虎の変種で分家からすらほど遠い妾の子と、生まれながらの天狗の跡取りのくせに人間に負けた若天狗。幼い頃に助けられたことをずっと覚えていて猫の姿でさえ見破ってしまう天狗すら足蹴にするただの人間と、齢を重ねても化けることくらいしか上手く出来ない猫妖。
 どれもこれもアンバランスであやふやな、危なっかしい組み合わせだ。一人一人が既にアンバランスなのだから当然なのかも知れないけれど。
 「だから大丈夫。とらちんはいっつも通りにまた顔見せればいいんだって」
 ぽんと、幼い頃よりずっと逞しくなった背中を叩き、吉田が笑う。それを見て、やっとほんの少し虎之介も笑みを浮かべた。
 「あ、でも!またなんか変なことされそうになったら吹き飛ばすんだぞ!嫌なことは嫌っていっていいんだからな!!」
 そこだけは念を押して吉田が言うと、きょとんと虎之介が目を瞬かせる。
 「なんかヨシヨシ、山中のことになると怒るけど……もしかしてあいつになんかされた?」
 彼が怪我をして帰ってくることはあまり珍しくなくて、いちいち相手を特定などしていないけれど、その中の一人だったのかと若干の険を込めて呟く虎之介に、ぎくりと身体を強張らせて吉田は大きく頭を振った。
 「ない!全然なんにもない!ただあいつ昔、女の子ばっか追いかけていたって言うから心配なだけ!!!」
 必死に否定する吉田を怪しみはしたけれど、虎之介も特別それを言及はしなかった。
 実際にもしも山中に怪我を負わされていたとしても、既に虎之介が彼に負わせた怪我の方が余程多く酷い筈だ。今後もそれが続くことを思えば、それでちゃらにしてもいいということだろう。
 自分が育ての親に甘えている自覚があるだけに、吉田がそれが原因で自分が怒ることを好まないことは知っている。
 「そっか。なら…また、里に行ってみっかな」
 少しずつだけれど、妖怪の中でも友達が出来てきた。人にも混じりやすい吉田のようにはいかないけれど、虎之介も少しは里の中を見て回るようにしている。
 勿論怯えられることも多く、むしろそればかりだが、それでも吉田の教えてくれる里の話は楽しくて、そこでよく会う天狗も、面白くて。段々と世界が広がることが不思議で嬉しい。
 「うん。また俺も佐藤と会う約束したからさ、一緒に行こうな」
 また色んなところに連れて行くと、楽しそうにいう吉田と同じように虎之介も笑った。


 ………遠くの木の上から溜め息とともにそんな二人を見ている黒羽があるなんて、気づきもしないで。





 唐突に異色なパラレルで失礼しました。
 いや、コギツネさんに『けったいなもん描いたぜイエ〜イ』みたいに教えられ、見事にクリーンヒットだったのですよ。
 おのれ虎大好き……………!
 まあ虎大好きだから「虎の人」であって、とらちん大好きだから命名されたわけじゃないんですよ。
 本当ですよ。
 そんなわけで化け猫吉田と虎っ子とらちんの親子のお話でした。二次作品のパラレルの、更にパロディってどれだけ遠いんだろうな…………。
 そしてコギツネさん。キャラ拝借を頼むより先に「この二人なら小説書けそう!」と言ってみたら即、「書けそうなら書けばいいんだー!」と己以外の供給の無さに対しての見事な咆哮をありがとう(笑)ちゃんと書きましたよ!
 ちなみにキャラは拝借をしましたが、世界観などは特に話し合っていないので共有されていません。
 いずれ彼女が書く時にでも「全然作品違うじゃん!」と笑ってやって下さい。

 まあ情報全て共有してもまったく違うんですけどね、作風(きっぱり)

09.9.5