柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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きっとあなたは知らない
知る事もない

それでいいし、それがいい

私の音があなたに気づかれなくても
あなたの音は私に優しく響く
それを誰よりも私が知っているから

あなたは知らない
けれど
知らないままで、いいのだ

………知らないままで、その音を響かせて。





あなたが呼ぶ音



 「………へ?」
 言われた言葉が飲み込めず、斎藤は目を瞬かせた。
 目の前には原田が不思議そうな顔で立っていて、軽く首を傾げて懐手で顎を掻いていた。それを呆然とした態で斎藤は眺めてしまう。
 言われた言葉が理解出来なかったわけではない。論を唱えられたわけでもなければ、議論するような内容でもない。ただ、聞かれただけだ。
 「おめぇ…考えた事もねぇんだろ?」
 あまりにも反応のないまま無為に時間が過ぎる事に、ようやく回答を知った原田が若干呆れたように溜め息を吐きながらいった。
 それが事実である事を肯定するように、やはり斎藤は無言のままだ。……若干、顔を顰めて物思う顔になっている。おそらく自分の言葉を吟味し、その意味を汲み取ろうとしているのだろう。………元々真面目で律儀で、自分たちのような破天荒者から見れば損をして生きるタイプにしか見えない。実際、貧乏くじばかり引いているのだから、目も当てられない。そんな人間なのだから、他愛無い自分の言葉さえ真剣に受け止めたらしい。
 それでも彼を都合のいい面倒事解決人だとは思わない。真っ直ぐで生真面目で曲がる事が嫌いというより、曲がり方を知らない、そんな人間だ。無頼者の自分たちには、彼のような存在は心地いい。
 だから、決して困らせたり苛めたりしたいわけでもないのだ。苦笑を浮かべ、原田は殊更軽い調子でいった。
 「まあ別に、そう気に病むなよ。ちょっと思っただけだしな」
 「しかし……沖田さんは気にしているんだろう?」
 「いいや?俺が思っただけで、別に沖田が言ってたってわけじゃねぇよ」
 だから気にするなと、いつだって何かを抱え込んで胃痛を患う、最強の誉れを冠する二人の剣客の片割れの背中を叩いた。
 少し強いその激励に軽く咽せながら、淡く笑みを浮かべて斎藤は頷く。そっと会釈をして立ち去る姿も楚々として絵になるのだから、身の内に染みた礼節の成せる技なのだろう。その様子に軽い口笛で感嘆を示してみれば、ひょっこりと廊下の角から永倉が顔を出した。
 軽く手を上げて近づきながら、永倉も斎藤の背中が廊下の角に消える様を見遣る。………なんとも哀愁漂う背中だった。
 「………なーんか、厄介事抱え込みましたって背中、してたな」
 もうすでに馴染み深い斎藤のその様子に、若干の同情を含めて永倉が呟けば、隣の原田が頭を豪快に掻きながら、顔を顰めた。
 そちらにも慣れた様子の永倉は驚くでもなく、ちらりと視線を向ける程度で原田の様子を見守っている。
 「厄介っつーか、あいつぁなんでも考え過ぎてよくねぇな。もっとさっぱりきっぱり明け透けになりゃいいのによ」
 そうすれば胃痛など吹き飛ぶものだと、鷹揚に頷きながら原田は納得顔で説いた。
 確かに、斎藤は考える類いの人間だ。論を好む『考える』ではなく、現実を打開するために『考える』、今の世には珍しい類いだ。
 それは決して詰られるものでも疎ましく思われるべきものでもない。より良き世を成すために、なくてはならない意識だ。それ故か、この血腥い屯所の中、斎藤という存在は不可解な清浄を帯びている。
 だからだろう。原田の声もまた、どこか好ましげに響いた。不器用極まりないお人好しの斎藤を、彼もまた目に掛けている。時折…どころではなく、それはもう幾度も斎藤は厄介事を抱えては一人で奔走してしまうのだから、尚更だ。
 楽しげな原田の声の響きに頷きながら、ふとした疑問を永倉が口に乗せた。
 「で?斎藤のヤツ、なーにまた抱えたんだ?」
 結局二人が話していた主題はなんだったのかと、二人で何かを話していたのだろう予測しかつけられていない永倉がもっともな質問をした。それに、キョトンとした原田が、次の瞬間に豪快に笑い出した。
 それこそ腹がよじれると言わんばかりの笑い声に、驚いたように隊士溜りにいる平隊士たちが廊下に顔を出す。もっとも二人の立つ廊下は既に組長以上の重鎮専用の奥の間で、怪訝そうに窺われていた視線もすぐに消えた。
 それを背中で感じながら、原田はまだ面白げに喉奥で笑い、眦の涙を拭いながら間近の友人の首に腕を回して、額を合わせるように近づいた。
 「だからな、新八っつぁん。これ、が原因だ」
 「佐之………答えになってねぇっての。これってなぁ、なんだよ?」
 「だーかーら、それだっての!『新八っつぁん』と『佐之』!」
 「はぁ?」
 呆れた眼差しで友人を見上げていた永倉は、その悪戯の成功した会心の笑みを浮かべる顔を、危うく殴りつける所だった。
 この上もなく上手く説明が出来たと、身勝手にも得心している原田は気分が良さそうだが、まったく要領を得ない発言のみ聞かされた永倉は不消化もいいところだ。件の斎藤ではないが、胃痛の代わりに頭痛を覚えた。
 「ま、そういうわけだから厄介事でも悩みでもねぇだろ?」
 晴れやかな笑顔で腕を解こうとした原田の奔放に跳ねている長い髪が、不意に引力によって地面に吸い寄せられるように下降した。………当然、それに従い損ねた身体との差異によって、頭皮が悲鳴を上げた。
 ぎゃっと一声悲鳴を上げた原田を尻目に、素早く髪から手を離した永倉は、諭すような声音でもう一度問いかける。
 「で?オメェは斎藤となにを話していたんだよ?」
 「だーかーらー!!沖田のヤツが一さんって呼んでんのに、なんでお前は沖田さんなんだって聞いただけだよっ!」
 なんて乱暴なヤツだと、自身の髪を守るように片手で背中に避難させる。永倉の暴挙のせいで、簪の位置すら変わってしまった。それに不満を示すように唇を尖らせながら、原田は物わかりの悪い友人に、斎藤に告げたのと同じ言葉をそのまま投げつけた。
 その言葉に、永倉は目を丸めたあと天井を見上げ、深く長い溜め息を落とす。
 どんなことを思い悩んだのかと思えば、人との関わりのイロハの、イにも値しない事だ。それが泣く子も黙る新撰組の、最強と称される人間たちの間で取り交わされる議題だろうか。………あまりにも、不毛だ。
 「な?厄介でも悩みでもねぇだろ」
 自分の発言は正しいと拗ねた態で告げる原田に、苦笑するように笑って永倉は頷く。
 「ま、本人は相当思い悩むだろうけど、それもいいだろうさ」
 ようやく馴染み始めた斎藤が、その感情を善くも悪くもぶつけるのは沖田に対してだけだ。そのおかげで険悪になる事もあるけれど、子供の喧嘩と同じで、乗り越えてしまえば絆は深まる。
 研ぎすまされた牙を持ちながら、それを同等に操りぶつかり合える者のいなかった二人だ。衝突して反目して、そうして理解し認め、その歩を近づけていければ十分だろう。
 「そうだろ?大体よ、沖田が手放す気まったくねぇんだから、今更な悩みじゃねぇか」
 どれほど激しく摩擦が生じようと、きっと沖田は我を曲げず、その癖決して相手を逃してはくれないだろう。それくらい、見ていれば充分解る事だ。
 ………もっとも、人間関係という一点に置いては、隊の誰よりも不器用な斎藤にその機微を悟れというのも無理な話ではあるのかもしれないが。
 だからこんな些細な事をどれほど斎藤が悩もうと、最終的には聞き及んだ沖田が上手く言いくるめてしまうのだろう。
 「ま、舌先三寸ってわけじゃなく本心なんだし、悪かねぇだろ」
 「………斎藤が哀れだから、それは言わないでやれよ」
 今更な悩みである事も、全てに置いて本心しか与えられていないその執着心も。
 これ以上胃痛の種を与えないよう原田に釘を刺しながら、青臭い友情劇を今もまだ繰り広げている危うげな仲間の事を思い、永倉は楽しげに笑った。


 廊下を歩く時間は、短かった。到底この程度では答えは見つからない。
 すでに沖田との相部屋である自室の障子の前に来てしまい、少しだけ途方に暮れる。
 気にするなと、原田はいっていた。いっていたが、周囲の人間がそう感じるくらいだ。きっと当人が一番不審に思っているだろう。
 そう考えると、どう接すればいいのかが一瞬で見えなくなってしまう。上手く茶を濁してしまえとも思うが、そんな真似が出来るのならばもっと別の人生を送っているだろう。………元来、詐称はもとより、隠す事も誤摩化す事も不得手なのだ。
 一度小さく息を吐き出して胃の中の重さを霧散させようと努めるが、当然、無駄な足掻きだった。
 さっさと腹を括って相手に切り出すのが一番かと、竹を割ったような真っ正直な思考でもって方向性を定め、斎藤は自室の襖に手をかけた。
 「あ、一さん。やっと入って来ましたね」
 襖の先では、どこかおかしそうな声で話しかける、副長助勤筆頭がいた。迷い猫なのか、ブチ猫が一匹、彼の傍らを歩んでいる。おそらく、襖の開いた音に反応して逃げ出しているのだろう。そうであれば、人に慣れていない野良猫だろうか。………その割に、室内に座る彼が居た時は居座っていたとするなら、彼には猫すら絆されるのだろうか。
 一瞬、まるで方向違いの思考を走らせて、先程まで悩んでいた事に蓋をしそうになる。
 僅かに眉を顰めて自身の脆弱さを叱咤し、斎藤は室内に足を踏み入れた。
 「やっとって………気づいていたのか?」
 「そりゃ、これでも副長助勤筆頭張っていますからね」
 そっと囁く程度の斎藤の声に、にっこりと笑みを浮かべて沖田が答えた。相変わらず、屈託のない笑みと声だ。
 けれどそれは、本当なのか。今は僅かな疑問が頭を擡げる。
 本心では僅かでも…寂しさを思っているのだろうか。距離感を感じているのだろうか。壁を見据えて、それでも彼は笑んでいるのだろうか。
 自分には到底解るはずもない事だ。思い、躊躇うように視線を彷徨わせ、斎藤は沖田の傍に腰をおろした。
 そんな、心ここにあらずといった風情の斎藤に、沖田は不思議そうに首を傾げる。彼は思索する時は大抵、一人を好む。もっとも、最近は少しだけ自分も加えてくれるが、それでもそれは大部分が胃痛の種になりそうな厄介事に関してだ。
 けれどこれは、そんな雰囲気ではない。もっと個人的な、言うなれば彼の性情に関わるような、事。
 以前それを垣間見た時は、自分への憤り故だった。今回のこれは、けれど少しだけ様子が違う。
 傍に居る事を許すという事は、きっと自分が関わる事なのだ。そして躊躇いの気配はあっても、憤懣の怒気は感じない。戸惑いと、珍しくも気後れしたかのような、迷う視線。
 「一さん?悩み事ですか?」
 また厄介事に巻き込まれたのかと、存外面倒見のいいお人好しな友人を見遣ってみれば、斎藤は覚悟を決めたかのように視線を定めた。
 「いや……おき……………、総司、さん」
 躊躇いとともに名字を綴りかけた声が消え、辿々しく己が名を呼ぶ声に、沖田は瞠目する。
 「…………はぁ?!」
 瞠目と同時に、けったいな声が口から漏れ出た。
 ………明らかに、言い慣れていない。その上、呼びたいから呼んだというよりも、若干機械的な、無機質に響く音。
 まるで遠く離れようとするようなその音の異質さに、沖田は慌てたように斎藤に詰め寄った。
 「ちょ、なんなんですか?!私、また何か一さんの気に触る事いったんですか?!」
 「は?何故そうなるんだ。名を呼んだのに」
 「なりますよ!そんな、あからさまに固っ苦しく仰々しい声で言われりゃ!!!」
 まったく身に覚えがないけれど、自分と斎藤とでは価値観が違う。以前『役に立つ』という、自分としては最上級の形の褒め言葉が、彼にとっては卑しめる意味と変わり、長らく冷戦状態になったのは記憶に新しい。
 何か不用意なことを言ったかと思うが、それが解るようならば言うわけがない。………解らないから、言うのだ。
 切羽詰まった声音で反論をした沖田の言葉に、斎藤は眉を顰めて俯く。端から見れば気分を害したように見えるその顔は、けれど実際は困惑して考え込んでいるに過ぎない。
 その様子に、最悪の事態に達していたわけではない事が解り、沖田は軽く息を吐いた。
 けれど、一体何がどうしたのかは解らない。それでも、少なくとも斎藤が自分から望んで今の発言を行なったとは到底思えなかった。残念ながらというべきかどうかは、難しい部分だけれど。
 「…………しかし、気にしていたんじゃないのか?」
 一通りの熟考が終わったらしい斎藤が、ようやく筋道を見出したのか、口を開いた。
 それに沖田は首を傾げて、なんの話か解らないと示す。すると困惑げに顔を顰めて斎藤がもう一度、同じ単語を口にした。
 「総司、と……名前で呼ばない事、なんだが」
 「名前?」
 これはまた随分と初心な話を持ち出されたものだと、沖田は目を瞬かせる。
 大体の事は察せたけれど、相も変わらず素直というか疑わないというか………副長助勤として働く彼と日常の彼はひどく差異がある。
 隊士たちには同じに見えるらしい彼の潔癖さは、より人間味が濃いが故の防御規制とも言えるし、常に平素と変わらぬように最善を尽くす様は、冷静であると同時に、激情だ。………きっと彼は、最悪の状況であっても最後まで諦めずに己が意志を貫き生きるだろう。
 そんな彼は、ことプライベートにおける人間関係に関しては、まるで童のように辿々しくなる。
 それを思い、沖田はクスリと小さく笑うと、見惚れるほどに優しく微笑んで、斎藤に問いかけた。
 「あのね、一さん。一さんは、名前で呼びたいんですか?」
 「え……?」
 「だってあんた、呼び方が凄いぎこちなかったじゃないですか。呼びたくないんじゃ、ないんですか?」
 まるで解っていない様子の斎藤に、笑みを苦笑に変えて問いかければ、虚を突かれたように大きく斎藤の目が見開かれた。
 それはまるで、本当に気づかれないと思っていたような、無防備さ。以前、彼を発奮させるためにいった言葉がまた脳裏を過ってしまう。………自分のことを他人が解るはずがない、と。
 もっとも、それに続くべき言葉は違うだろう。彼は、突き放すのではなく、途方に暮れるだけだ。彼は伝え方も知らなければ、弁解の方法すら知らない。その無垢さ故に、彼は誤解され孤高を歩むことさえ受け入れてしまう。
 それを無機質ととるかお人好しととるかは、関わる人間の見方次第だ。
 そして、自分は彼を誰よりも貧乏くじを引いてしまうお人好しだと、認識している。たとえようもないほどの好意でもって。
 だから真実を告げていいのだと、相手が躊躇うように引き締めかけた唇を綻ばせるように微笑みかける。
 答えがなんであれ、自分はそれをあなたらしいと受け入れる。そう、告げるかのように。
 それが功を奏したのか、あるいは気づかれているのならば隠すべきではないと真っ正直さが示されたのか、数瞬の逡巡の後、斎藤の唇が開かれた。
 澄んだ、けれど少しだけ躊躇いをもって響く、耳に心地よい静謐な音。
 「呼びたくないわけじゃ、ないんだ」
 ただ、と、躊躇いがちに斎藤は言葉を続ける。そっと伏せられた睫毛が濃い影を頬に落とした。
 それは、自戒……だろうか。剣を握る時にも垣間見る、憂いをもって見据える眼差し。剣の携える狂気に溺れまいと清艶と立ち尽くす、極上の剣客の、瞳。
 「ただ、………名を呼ぶことで甘えを持ちそうで、それが怖い」
 その癖、呟く言葉の、なんと稚拙なことか。その余りの差異に、沖田は驚くように目を瞬かせた。
 彼は、言う。………名を呼ぶことすら許されたと、慢心することが怖い、と。肩を並べていたはずが、相手の負担さえ顧みないほど驕るかもしれない心の弛みが怖い、と。
 この時勢、信じるものがなく浮き草のように漂うものとて多いというのに、その身一つで全てを背負おうと、彼は言うのか。………否、いって、いるのだろう。彼の生き方を顧みれば、それは頷ける。
 驚くような沖田の眼差しを受け止めながら、どう説明すればいいのかが解らない、弁舌の不得手な己の舌を、斎藤は少しだけ恨んだ。
 ………親しくなったから甘えろと、人はいうのかも知れない。そうした情の在り方もあるのかも知れない。それを否定は出来ないけれど、自分はそれを望まない。
 生きる限りは廉潔でありたいのだ。相手に失望されるような己を晒したくはない。それが誤摩化しだと言われるなら、言われてもいい。ただ、自分という個を蔑ろにするような精神を宿すことだけは、自分には出来ない。
 堕ちることも弛むこともなく、生き抜きたいのだ。己の意志を貫いて。
 ………ただそれだけの、自己満足だ。解っているから、告げづらいことでも、ある。
 「それであんたに不快な思いをさせるのも………」
 「不快なはずないじゃないですか」
 言い訳すら出来ずに事実をただ受け入れようとする斎藤に、間違ったまま納得されては困ると沖田が言葉を被せた。
 それに意外そうに斎藤が訝し気な眼差しを向けた。………彼の中では既に決定事項として横たわってしまっているらしい自分の回答を正すように、沖田は目を柔和に溶かして笑んだ。
 「一さん、勘違いしちゃ、いけませんよ。名前を呼ぶから親しいわけじゃ、ないでしょう?」
 呼称を呼ぶその声の響きこそが重要なのだと、沖田は笑う。楽しそうに嬉しそうに、とっておきの甘い菓子を口に含めたような、そんな極上の笑み。
 言葉の意味を計りかね、躊躇いがちに首を傾げた斎藤のことを無遠慮に指差し、沖田は言葉を続けた。
 「私にとって重要なのはね、言葉じゃないんですよ。あんたの、声の響きだ」
 伸びやかに躊躇うことなく、清々しいその声が響く。自分を呼ぶ声が澄んでいればいるほど、嬉しくなる。
 必要としてくれていると、心を許されていると、そう信じられる。
 形などなんでもいいのだ。ただ、そのなかで証が響けばいい。彼の本質を溶かし響く、清澄なる音。それが与えられるなら、呼び名など気にずるはずがない。
 そう告げれば、呆気にとられたような、感銘を受けたような、そんな惚けた幼い斎藤の顔が眼前にさらされた。
 きっと彼がそんな顔を晒す相手は少なく、自惚れてもいいのであれば、自分くらいなのだろう。
 それを、自分は彼の声の響きから感じ取る。………だから、彼が気に病むことはなにもないのだ。
 「だからいいんですよ。一さんが呼びやすいように、沖田のままで構いません」
 さっきのようにぎこちなく呼ばれるより余程嬉しいのだと、その笑みで伝わるように告げてみれば、斎藤は戸惑いながらも真っ直ぐにその視線を向けた。
 一度落とされた睫毛のあとに晒されたのは、純乎な眼差し。真冬の湖面のように玲瓏で涼やかな、内に抱える炎を隠し込む、生粋の瞳。
 沖田の好むその眼差しは、けれど今のこの場面では、確実に自身の非を詫びるためにしか使われないだろう。
 謝って欲しいような事柄、何一つないというのに。彼はそれでも自身を腑甲斐無いと思い、詫びを入れるだろう。自分には嬉しいことだらけだというのに、そんなことも気づかないで。
 生真面目な彼が、無粋な真似をしたと謝するより早く、戯けるように沖田は片目を瞑って悪戯っ子のような満面の笑みを浮かべると、明るい声を響かせた。
 「ま、私は………あんたは結構鈍いから、そんなこと解らないだろうと思って、こうやって言葉にしてますけどね」
 だから名前で呼んでいるのだと、からかう声音で告げてみれば、視線の先には予想に反して真面目な顔をした斎藤がたたずんでいた。
 「………そうだな」
 そうして、斎藤は小さく呟き、何かを反芻するように睫毛を落とし、数瞬、沈黙を落とす。
 噛み締めるような間のあと開かれた眼差しは、柔らかく熟れ、綻んだ。
 息を飲むようにそれに魅入れば、鮮やかな笑みに添えられる、最上の音。
 「あんたがそうだから、きっと居心地がいいんだろう。感謝、している」
 響いたのは、心からの謝意。
 …………紛い物の入り込む隙すらない、生粋の音。
 それに包まれ、沖田は笑った。きっとなにも解っていない目の前の友人の至純さは、なんなのだろう。
 「こちらこそ、ありがとうございます」
 こんなにも自分を酔わす音もない、と。心からの賛美を思い、沖田が返す。
 感謝の言葉を返されるとは思わなかったのだろう斎藤の、不思議そうなその表情すら嬉しくて、沖田は機嫌よく笑った。

 きっと永遠に解りはしないだろう。
 彼は自身の至純を知らず
 自身の清浄を知らない。

 だからこその、清水のごとき透明さ

 その甘露が響くことこそが何よりの幸いだ、と


 不思議そうに自分を見遣る斎藤に微笑んだ。





 久しぶりの『無頼』。思った以上に長くなりました。のは前半に原田と永倉出したせいです。
 でも沖田と斎藤以外も書いてみたかったから削除せずにそのまま敢行。結果は……まあ微妙ということで(遠い目)
 それはそうと。私は基本的に人のことを名字でさんつけで呼びます。小学生の頃、『さん』で呼ぶのは敬意を示しているんだよ、みたいなことを教わって、それからずっとですね(単純)
 ネット上では文字でしか感情が伝わらないので、好意をもっていることを示すために名前で呼んだり、『ちゃん』とつけたりとしもしましたが、今はほぼ『さん』ですね。
 理由はまあ、至ってシンプル。この話の斎藤の意見がそのまんまです。まあ私は甘えたな人間なので自制しなきゃ底なしなのですよ(苦笑)折角なのでそんな話を絡めて二人の呼称の違いをもじってみました☆

08.07.10