柴田亜美作品 逆転裁判 NARUTO 突発。 (1作品限り) オリジナル (シスターシリーズ) オリジナル enter |
注意。 約束を交わしましょう 途絶えと共に始まる 遠ざかる背中たちを、決して気づかれない場所から見送っていると、背後に人の気配を感じた。 「………よかったのか、本当に」 躊躇いがちの音に、振り返る。思った通り、そこには時尾がたたずんでいた。 それに淡く笑み、頷く。よかったも悪かったもない。ただ、事実がそこにあるに過ぎないのだ。けれどそれをこそ気にしているのであろう時尾に、理解しろということは少々難しいことなのかも知れない。 「潮時、だったんだろう。そう思うことにするさ」 「……………?それなら、尚更だろう。いいのか、ここに残ることにして」 戦うことを止めるなら、ここに残るなど愚の骨頂だ。新政府は他藩の嘆願書すら受け入れずに攻め込んでくるだろう。戦いは、あまりにも明白な勝敗を讃えて横たわっている。 それでもここに残るというのは、会津と命運を共にするということだ。それは確かに士道としては尊い選択だろう。けれど、生きるための選択では、ない。 困惑げに選ばれた言葉に斎藤は口元だけに笑みを浮かべ、もう見えなくなった、袂を分かつこととなった副長の背の消えた方角を見遣った。 相変わらず弁舌の苦手なその言葉で、全てを自身で抱えて、生きることを願い、彼は自分を取り残そうとする。 それはあるいは、失った人の願い、だったのか。思い、首を振りかけ…頤を留めた。そんなはずはないと、どこかで思う。あの人は最後まで共にいて欲しいと思うだろう。そうして、彼の役に立ち、そして彼が自身の役に立つことを誇って欲しいと、思うだろう。 朗らかな音で、肌に染み渡らせるように穏やかに告げる声が聞こえそうなほどだ。死を間近に感じて生きてきた自分たちだからこそ、息をするだけの生ではなく、生き抜くという生を思う。 そうして、それを選び、無理を重ねた人を、思った。 ………それ、を。知らせられてから、たかだか三ヶ月程度しか経っていないなど思えない。それを耳にした時に、その足で副長の元へと赴き、真っ先に告げた言葉を、思い出す。 それは願いだったか。慟哭だったか。………自分でも、解らない。 解らないまま、それでも望んで告げた。自身が選び、告げた。愚かとも言える戯れ言、を。 「約束、していたんだ。副長と」 ぽつりと零れるように斎藤の唇から音が落ちた。 「戦線離脱を余儀なくされたあの人の代わりが必要なくなったら、いってくれって」 風に攫われるほど小さく、けれど澄み切った空に溶けるほど凛と静かに響く、音。 「…………あの人の死、を。俺は副長から言われるまでは、信じないと決めていたから」 いつか戻ると、血を吐きながらも新撰組に留まり続けた人は、やはり最後に会ったその日もいっていた。必ず隣に戻るから、それまで生きろと。 生きて守ってくれと、いっていた。守るものがあれば、あんたは何よりも強いから、と。まるで守ることよりもこの命を生きながらえさせることこそが目的かのように、微笑んで。 だから決めていた。この人の代わりに、この人が本当は言いたかっただろう、守るべき人たちを守って果てようと。優しい彼が、自分に死んでも守れなんて言えるわけもない。この死を悼んでくれるといった彼は、最期まで生きて欲しいと願ってくれた。………自身は死の牙を、間近に控えさせながらも。 だから、彼が消えてしまったと解った時、もうたった一人になってしまった守るべき人に、いった。 そうすれば、自分が死ぬその時まで、告げられることはないだろうと。そう自惚れてもいたのかも知れない。剣技において、今の世に自分より上のものは、そうはいない。剣だけは、誰にも負けないだろう。 自分が負けた相手は、永久に失われたのだから。 「……………よかったのか、本当に」 繰り返される時尾の言葉に、斎藤は苦笑する。答えは決まっている。そしてそれ故にいま、自分はここに居るのだ。 いいも悪いもあるはずがない。ここに残りたいと思わなかったわけがない。 圧倒的に不利な中でも、自分たちを庇護してくれた藩主のために尽くしたいと思うのは、刀を携えるものにとって冥利に尽きる。 まだきっと自分が必要だったはずの副長が、それでも自分の想いを気取って袂を分かたせた。自分も彼も頑固だから、結局は言い合いになってしまったけれど。 思い、脳裏には鮮やかな浅葱が蘇る。鮮血に染まりながらも、それは澱みもせずに導のように京を駆けた。 距離感ばかりが募っていた自分の人生の中、京にいた時ほど間近に人を感じたことはなかった。誰かの役に立ちたいとも、傍に居たいとも、共に生きたいとも、思わなかった。 それを、実感する。あの時以上に死が傍にあるからこそか、あの頃以上に状況が劣悪で逆転の余地すらないからか。 充足したことを、思い出す。飢え続けていたわけではないと、満たされたことがあるのだと、その至福を確かに感じ、思い出す。 「なあ、時尾どの。昔、あんたにいっただろ」 「?」 「俺は、人付き合いが苦手で、あの人たちと居るのは楽だったって」 首を傾げてなんのことをいっているのか考え込む時尾に、出会ったばかりの頃の懐かしい言葉を口にしながら、斎藤は目を細めて笑った。………泣き出しそうだ、と。何故か、穏やかなその笑みを見つめて、思った。 心の限りを尽くせる相手がいることを、彼は喜んでいた。その強さ故に、その性情の潔白さ故に、今の世の口先だけの輩とは馴染めなかったのだろう、彼。 全て全開でいいのが楽だと、その難しさを知りもせずに笑う姿に呆れたことを思い出す。こんな男たちが集う場所なのだ、と。絆されかけたことを。 懐かしい思い出だ。………もう遠く、取り戻せない、思い出だ。 それが顔に出たのか、ふと彼は優しく瞳を細めた。懐かしむように愛おしむように、笑んで。 「でも、思いってのは、育つものなんだな」 いるだけでよかった。共に生きられればよかった。それなのに、いつしか恐れた。 失うことを。奪われることを。袂を分かつことを。心が、離れることを。 恐れ怯え、疑心にすら、襲われそうだ。なんという浅ましさだと、我ながら呆れ果てた。自分は自分であり、人は人だ。自分が人に合わせることが出来ないように、人が自分に合わせる謂れもまた、ないのだ。 奇しくも、思い出すのは、あの人の言葉。『しなくてはいけない』ではなく『したい』と、思うか思わないか。それこそが重要なのだ。 それでも思う。心地よかったと、そう思い、手放し難いと感じてしまったあの空間を、愛おしむ。その心が、あるいは弱さであり脆弱さであったのだろうか。 なにも携えずにいる自分よりも、何かを抱えた方が余程おっかないと、そういったあの人の言葉さえ疑いそうだ。抱えたが故に、自分は痛むことを知ったのだから。 「………いつか失われることに怯えるような生き方は御免被る。が、手放せないときたもんだから、困り果てるよ」 そっと囁く声音は、静かに震えている。それは空気をそよがし、微風となり、そっと頬を撫でる。 それを見つめ、斎藤は思い出すように睫毛を落とす。………たとえ新撰組が崩壊しようと、自分の志を折ることなく生きようと、隣にあの人がいて当たり前だった頃から、決めていた。 形が変わろうと思いが変わるはずはない。知ってしまった現実をなかったことには出来ない。だから一人となっても進みゆくことに躊躇いも疑問もなかったのに。 ………たった一つの命が消えようとしていたとき、自分はみっともなく覚悟が定まらずに狼狽えた。その死を受け入れている本人に当たるほどに。 そんなにも自分が情の 恐れているくせに、離れられない。あんなにも人と関わることを苦手と思っていたくせに、恐れを抱きながらも、離れられなかったのだ。 そうして、気づく。……………とうに後戻り出来ないほど、抱えていたのだ。 常に張り巡らせていた玲瓏な陣の中、気づきもしないほど自然に、けれど少しばかり強引に、あの人は入り込んで居座った。それが当たり前なのだと、まるでそこにいないことの方が不自然でもあるかのように。 強引で、自分勝手で、その癖……誰よりも自分の生き方を認め、背を押してくれた。その腕を差し伸べてくれた。 思い出すのは、そんな我が侭な子供のような、奔放に駆け回る彼の姿。 そんな彼とは、彼が戦線離脱してからは会うことも少なくなった。………新撰組自体、激動を迎えていたのだから当然だけれど。 懐かしい思い出だ。懐かしいと、振り返るほど過去でもないのに。何十年も昔のことのようにすら、思える。 愛しい日々。鮮やかな記憶。決して平和などではなかった、血にまみれた日々であったにも拘らず、それでもそれを称するとするならば、平穏な時、だった。 蘇るのは当たり前に与えられ過ぎた特別だった。目を向ければ当然そこにいた、たった一人の面影。 それを探すように巡った視野には、戸惑うように眉間に皺を寄せた時尾が写った。斎藤が何を言おうとしているか解らず、不可解そうに彼を見つめる時尾に、それでも斎藤は淡く笑いかけ、苦笑するままに告げる。 「でも、もうそんなことを悩む必要もなくなった」 「……………?」 ますます奇怪なことを言うと、時尾が眉を顰める。それを見るともなく視界に写し、斎藤はそっと大刀の柄頭を撫でた。 これを握り、どれほど奔走したか、解らない。たかだか5年程度の、短な月日だ。怒濤のように過ぎ去った、時間だ。 それでもその流れこそが、どれほど色鮮やかにこの目に映ったかしれない。 その隣には、いつだって彼がいた。その腕を伸ばして自分を誘い出し、見知らぬ全てを教えてくれた。子供たちと戯れながら、季節の移り変わりを。空の移ろいを。目を向けなかった花の色さえ、彼は教えてくれた。 この短い時間の中で、どれほどのことを知ったかしれない。 それがどれほど自分にとって大切だか、解らない。………そうして、与えてくれた人が失われることで、それらが消え失せることをこそ、自分は恐れていた。身勝手にも、そんなことを、悲しんでいた。 けれど違うのだと、今更知ったのだ。 …………最後の最後まで彼は、自分に与えてくれた。教えてくれた。何ともお節介で世話好きだと、彼が幾度も自分に呆れたように笑んでいった言葉を、彼に告げたくなるほどだ。 思い出し、笑みが淡く咲く。苦笑でも悼みでもなく、懐かしむような、笑み。そうして響く、柔らかな音色。 「…………死者の思いは、二度と覆らないだろう?」 どれほど寂しくても悲しくても、その一点だけは揺るぎない。この先未来永劫、何が起ころうと記憶の中の人は、変わらないのだ。変わるとすれば、それは自身が変化したに過ぎないのだから。 与えられたものが嘘偽りに変わることはない。注がれたものが離れゆくこともない。 だから、構わない。真っ向からそれと対峙し、受け止められる。 自分の情が相手を傷つけることも、相手の情を恐れ苦痛に思うことも、二度とない。 そもそも、今の情勢を思えば、怯える意味もない。………誰も知りはしないのだ。自分たちの想いも。信念も。 自分たちが守るってきた国が自分たちを駆逐しようとする。こんな現実を前に、躊躇う必要もない。 自分の中には咲いている。鮮やかに、あの桜花が咲き誇っている。鬼と罵られた人は、この国を守るために刀を振るっていたのだ。 口さがなく耳に入れられる悪しき言霊を思う。同時に、咲き誇るこの国の華を、思う。 どれほどの悪意ある言霊も、その華を枯れさせることは出来ない。この目蓋に焼き付いた華は、散ることはない。 それを思い、斎藤は唇を引き締めた。 「………今の世の誰が、あの人のことを正しく知っているものか。俺たちのことを、知っているものか」 噛み締めるように、呟く。呪うわけでも憤るわけでもなく、けれど珍しくもその激情が滲んだ、深く震える低い音。 知っているのならば、自分たちは賊軍になど貶められるはずがない。斬首などという罪人の扱いを受けた局長が、どれほどの豊かな心でこの国を思っていたか、知るはずがない。 恐らくは、この新政府たちによって築かれる未来では、自分たちの名誉などあろうはずもないのだ。 それを斎藤は理解している。楽観的な希望などもてるはずのない状況だ。徹底的に考え尽くした最悪の事態も、今までの人生の中ではもっとも現実に近くなっている。 だから、いい。そんなものは欲さない。形となる名誉も栄華も求めない。………それでも、この志だけは、譲らない。 空を見遣る眼差しは、振り下ろす切っ先のように鋭いというのに、その瞳に浮かぶ色の、なんと儚いことだろう。 言葉を挟む余地すらなく、見つめる。……挟めるはずが、ない。国元で大事な人間たちと共に生きている自分と、その全てと別れ、奪われ、袂を分かち、散り逝く姿すら見届けられなかった彼とでは、あまりにも境遇が違う。 「どんな罵詈雑言も、屈辱も、恥辱も、耐えてみせるさ。………生きて、あの人の意志を穢さない」 その覚悟の深さは、なんなのだろうか。遣る瀬無さなど感じるには清冽すぎる意志。その激しさに当てられたように時尾は一瞬目眩を感じ、目蓋を落とした。 目蓋の裏には、鮮やかな浅葱色。思い出す、あの京にいた短な月日を。 彼の隣には、いつだって人がいた。………人付き合いが苦手だと言いながら、その声が届く場所にいつだって同じ浅葱を纏う男がたたずんでいたのだ。 屈託なく笑うその男は、躊躇いなく斬りつける男だ。迷いなく刃を振り下ろす男だ。そして、天性の才覚を与えられた、荒ぶる剣技を修めた男だ。 傍にいながらも一線を引く、そういった類いの人間にしか見えなかったのに。そんな男が、彼の隣にはいた。 彼もまた一線を引く類いではあったけれど、それは警戒心の強さと自身に頓着出来ない、価値を知らぬ無関心さ故の、孤独だ。望めばいつだって彼には与えられる腕があった。………ただ彼がそれに気づかないだけで。 そうして初めて気づいたのが、恐らくは互いに同じ穴のムジナだった。 おそらくは、互いに初めてで………最後の、相手。 「………帰りたくは、ないのか?見舞うくらい…したいだろう」 不意に、まるで無関係な言葉が時尾の唇を滑った。否、恐らくは、無関係ではないと、知っていた。彼がここに残ることで口論になった要因も、こんな話をし始めた口下手な男の心理の要因も、この一点に帰するのだろうと。 今はもういない人、だ。遠く江戸で没した人を思うには、今の会津はあまりに遠すぎる。 墓石を見ることしか出来なくとも、それに手向ける花の一つも捧げたいのが人情だ。説法も読経もいらなくとも、その心を捧げた証を人は墓に残す。 だから、帰りたいだろうと、思う。もっとも、帰るという言葉が正しいかはわからない。それでもそれしか思いつかなかった。 消えてしまった命が花開いていた最期の土地へ、帰りたいだろう……と。 その言葉の静かさに、斎藤は目を瞬かせて首を傾げる。それは時尾の言葉の真意を汲み取ろうとしているようにも、それを理解し得ずに困惑しているようにも見えた。 二人の間を、滑るように風が吹いた。つむじ風は小さく渦を巻き、空へと舞い上がる。それに踊る自身の毛先を見つめ、斎藤は空を見上げた。 青空は、澄んでいた。彼の隣で駆け抜けた日々と同じく、空は変わらず澄んでいる。 ………不意に、耳の奥、自分の名を呼ぶあの人の声が、響く。 長らく聞いていないその音は、ひどく鮮明で、知らず安堵した。覚えている。掠れることもなく、消えることもなく、狂わされることもなく。 与えられて、与えた。同じ場所で背を預けられる、同じ力を有していた人。会わない日々の中で、恐らくは痩せ衰え、剣を振るうことも困難になったかもしれない。 それでも記憶の中のあの人は、浅葱に身を包み、颯爽と走っている。楽しそうに笑って、煌めく切っ先で桜花を咲かせていた。 鮮やかに思い出せる。他の誰も知らない、自分たちの真実。京洛の青鬼と言われたあの人の、自分の目を通して映し出された、人間としての……姿。そして、情。 忘れない。もう二度と覆ることのない、消え去ることのない、情。 「なあ、時尾どの。………臆病者の俺でも、失うことのない意志なら、恐れないさ」 だから帰る必要はない、と。鮮やかに斎藤は微笑み、同時に、己の弱さに少しだけその瞳を翳らせた。 その地に足を向けることがこの先あるのか、自分が明日生きているかも解らぬ身では、夢想も難しい。だからこそ、死者を思う。いま目の前に生きる人と同じように、その意志を尊び、情に包まれ、情を返す。 滑稽な一人劇だ。解っているからこそ、苦笑が落ちる。どれほど人々に疎まれようと、やはり自分たちとて人間なのだ。病にも倒れるし、銃弾にも倒れる。そして、失った人を思い、それを糧とすることもある。 全てを切り捨て生きることは出来ない。死者は二度と裏切れないのだから、生きる自分がそれに反するわけにはいかないと、斎藤は愚者の如き自身の歩みを、己の意志で肯定する。 「あの人はいない。が、いないが故に、ここにいる」 失う、と。その命の輝きが消えることを覚悟も出来ずにいた。けれど、それが眼前に迫ったなら、すとんと、呆気なく飲み込めるものが見えた。 彼はいるのだ。姿形は亡くなっても、記憶の中、こんなにも鮮やかに。寄せてくれた情すら、そのままに。そうして……その情は裏切られることも途絶えることもないと、その死をもって決定された。 「それ……は………」 絶句して、時尾の言葉は続かない。彼は、なにをいっているのかと、困惑よりも畏怖を思う。 姿形が亡くなれば情も失われるだろう。積み重なる記憶に掠れ、忘れ果てるだろう。そうして循環することこそが、生きるということだ。死ぬという、ことだ。 だからこそ、人は死を恐れるのだ。奪われること、失うこと、忘れること。それを自身が、あるいは大事な人間が、被ることを。………そう、彼に言えたなら、よかった。 失ったことを、失ったと認識しない、そんな真似が出来ないから、人は死を恐れる。存在を失えば、その意志すらも消え失せる。人は、そこまで深く人を思い続けることは出来ないのだ。 当たり前に、居ない人を間近に感じる彼の精神は、理解し難い。 肯定も否定も、出来ない。どっち付かずの己の意識は、確かに甘く軟弱だ。彼ほど、自分は死者に手向けるべき情が、ない。 生きるための、世界だ。生きるもののための、世界だ。だからこそ誰もが躍起になって戦い、己の意志を貫こうとしている。 そんな中、彼の思いはどこか的外れで…………優しい。 純乎というべきか、愚直というべきか。周囲に誤解され間者のように思われてさえいる彼の本質は、結局はひどく人間臭く純朴なのかもしれない。洛中で出会った頃のまま、何一つその心は変わらず、歪みも陰りもしていないのだろう。 凄惨さを極めた戦場の全てを経験しながら、それを見つめ、受け止め、それでも弛みもせずに背を伸ばし進み続けた。その心を支えたものを、思う。 …………落とした睫毛の先が、湿りそうになる。慌てて瞬きを繰り返して霧散させ、目蓋の裏に浮かんだ、屈託なく笑う男を叱咤しそうになった。 もっと生きるべきだった。彼の傍、支えとあるべきだった。 それなのに、真っ先に戦線離脱して、遠く離れて。今ですら、その心を縛るのか。 ………この先の生き難きを、彼は生きるだろ。恥辱に塗れようと、屈辱を啜ろうと、凄艶な眼差しを穢しもせずに颯爽と、京洛を駆け抜けたその眼差しのまま、生きるだろう。 滑稽で、哀れで、けれどどれほど見事にその華は咲き誇るのだろうか。もう隣でそれを愛でるものはいなくとも、健気にその花弁を綻ばせ、凛と咲く華。 寂しくも悲しくもないと当たり前にいい、それ故に冷血漢と罵られようと、反論もせずに。そうしてきっと、笑うだろう。 自分の中、確かに花開く桜花があり続ける限り、絶望を知る理由がないと。 「…………………っ……あんたたち…、らしい、な…」 淀みなく肯定を告げるはずの唇が、一瞬だけ戦慄いた。それを御して、時尾はなんとか言葉を綴った。 ここにあの男がいたら、よかった。 彼の隣、この危うさを愛でながら包んでいた、危ぶみながら誇っていた、あの男。 その性情を讃えていたのなら、最期まで隣に立てばいいものを、こんなにも遠い土地まで彼を一人で歩ませて、取り残した、馬鹿な男。 そんな男のための涙など、自分は持ち合わせてはいない。 だから、零れる涙は、死者への手向けでなど、ない。 「時尾どの?」 困ったように自分を呼ぶ声に首を振り、乱暴に目元を擦る。女らしさなどなくていい。そんなもので彼を引き止めたいなどとは思わない。 ただ、物悲しかった。薄氷の上で微笑むような、そんな淡さが、悲しかった。 「なんでも、ない」 しっかりとした音を紡ぎ、眼前の彼を睨むように見つめる。 この先の会津の未来も、解らない、この国も行く末だって、見えない。そんな不透明な激流の渦のただ中での、彼の静謐の理由を、何とはなしに、理解した。 「………ただ、私もそうあれればいいと、思ったまでだ」 失うことの方が多い、時代だ。だからこその刹那を愛おしむばかりではなく、失われたものに手向ける心の在り方を、知りたい。 不思議そうな顔で自分を見る彼には、一生自分の受けた衝撃など解るまい。 彼は自身の価値など知らない。それもまた、あるいは仕方がないのかもしれないけれど。 「せめて、生き抜こう。なにがあろうとな」 彼の誓いに供応するように呟き、不敵に笑んでみる。それに彼は少しだけ驚いたような顔をして、笑った。 頷く彼は、空を見上げ。 遠く………遠くを、見つめていた。 ちょっと私生活の方で鬱屈としたので。暗い話で申し訳ない。 私にとって、思いとか情とか、そういうものの在り方で考えるなら、死者と生者の差はひどく曖昧なのです。 親しい人が死ねば悲しい悔しいし遣る瀬無いし辛い、けど。 それはその人のために尽くせなかった何かがあるからこその、悔いで。私自身の腑甲斐無さが要因となるものなのです。 思いの上で言うのなら、感謝の方が多い。 愛してくれた。大切にしてくれた。大事にしてくれた。慈しんでくれた。 そういった情は、生きていればいつかは変化するかもしれないし、もしかしたら与えられなくなるかもしれない。付き合いが無くなるかもしれない。でも、死者のそれはもう覆らない。 この先の人生の中、思い出せば信じるための源になるような、そんな優しさをくれた。疑う余地もなく、不安に思う必要もなく、ただ一心に信じてもいいものだからね。 死=無ではなく、私を守るものの一つになるのだろうと思うのです。 形式に興味はないけど、そうした感謝を伝えたいと思うよ。まあ法事に参加出来ないからそれが出来ないなんてバカなことは言わないけどね。 ただ、『法事だから』行こうかと思う人だった場合、死者への敬意も親しみも薄れるだけなんだろうな。 出来ることなら、生きて笑い合っていた時と同じように思いあえればいいのにね。そんなに難しいことじゃないはずなのに、こんがらがるのが生きた人間の業だけど。 08.07.20 |
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