ふと気づいたのは偶然だった。
 自分と同じ色を携えた肌。この島に訪れた初めての同種の生き物。
 風に揺れるように靡く黒髪を見つけ、こっそりと近付いた。もうすぐおやつの時間だというのに、こんな場所で何をしているのだろうか。
 チャッピーとのかけっこも忘れて子供は家へと帰る道を変更する。まっすぐに駆けるのではなく、右へと折れた。
 これで確実にチャッピーには負けてしまうが、仕方がない。その代わり彼に今日のおやつを多めにしてもらえばいい。そんなまるで関係のないことをこじつけて彼に甘えることを考えると、ほっこりと心が温まる。
 きっと彼は色々叫びながら、それでも最後は仕方がないと顔を顰めながらも自分達の我が侭を全部叶えてくれる。
 その様を思い描くことは何故か嬉しかった。他の誰が自分の世話を焼いてくれるよりも、彼が傍にいてくれることが、本当に嬉しかったのだ。
 だから、他に何も考えてなどいなかった。
 彼が傍にいればいい。
 不器用で優しい、どこか子供の自分よりも生き方が下手な、彼。
 道を折れて茂みを掻き分ける。彼の気配が濃厚になる。
 そうして開けた先に広がる光景。

 それはどこまでも、自分の胸を軋ませる。





小さき御手の尊さよ



 がさりと音が響く。
 二人は同時にそれに気付き、茂みに目を向けた。向けた視線よりも下に、眼差しがある。
 それは一瞬にも満たない時間のこと。その僅かな間のあいだに、正気にかえったかのようにシンタローは眼前に未だ迫る男を払いのけた。
 地面に叩き付ける勢いで繰り出されたはずの拳はあっさりと躱され、ひらりと風のように後方に飛び去ったアラシヤマはちらりと突然現れた子供を見遣った。
 自分が今、彼を押さえ込めていたのは偶然の産物。たまたま、が幾重にも重なった結果。
 それならば今のこのタイミングで現れたこの子供もまた、偶然なのだろうか。
 あと少し、僅かに遅ければあるいは彼は頷いたかもしれない。…………この穢れさえ知らない愚かな魂が自分のもとに堕ちたかもしれないのに。
 偶然か必然か。どちらにせよ、分が悪いことだけは確かだ。
 子供の前では決して彼は正気をなくしはしないだろう。自分の話術にも、まして過去の幻影にすら、跪きはしない。
 もっともそれもまた、一興なのかもしれない。
 人に関わることを得意としない自分がまさかこんな厄介な糸を手繰る真似をするとは思わなかったが、存外、これは手放せそうにもないのだから仕方がない。
 それならば最後の最後までこの腕に掴み離さずにいるまでのこと。どんな風にそれが様変わりするかは解らないが、手放さないことだけは、おそらくこの身が朽ちるまで確かな事実。
 「………またお前か」
 シンタローに何の用だと睨む子供の目に瞬く赤い輝き。
 まだおそらくはシンタローすら知らない事実を自分は知っている。それがどう転がるかは知らないが、少なくとも、いまこの場では有利な条件はなかった。
 「ちょっと旧知を確かめおうてただけですわ」
 軽やかに笑う表情とは裏腹に微かな残虐さを潜めた目が細められ、微笑んだ。
 睨む視線は強まる。間近にいたはずのシンタローの気配もゆっくりと離れ、いつの間にやら子供の傍にこそ近い位置になっている。
 引き際くらいは心得ているつもりだ。仕方なさそうに息を吐き出し、アラシヤマはマントに風を含ませるようにして翻し、地を蹴った。
 「ほな、わてはこれで………」
 柔らかな風のような囁きを残し、アラシヤマの姿が跡形もなく消える。
 小さな笑みがシンタローに向けられる。それに顰められた眉は、彼の気配さえも掻き消された後まで刻まれていた。
 忽然と消えたアラシヤマのその気配さえもが感じられなくなると辺りはしんと静まってしまう。
 なんとも気まずい沈黙だった。まさか子供に見られるとも気付かれるとも思っていなかったのに。
 後ろめたい話をしていたわけではない。それでも、やはり背中に忍び寄ってくるのは罪悪感。
 この島で、この子供の前で。考えても思い出してもいけない現実に浸ったような感覚。
 「…………………パプ…」
 「さっさと帰るぞ、シンタロー」
 居たたまれなさに声をかけようとした瞬間、小さなぬくもりが指先を包む。ぎょっとして、思わず振りほどきそうになったその熱を、けれど子供は離さないとでもいうかのように強く握りしめた。
 ………傍にいると、そんな単純なことを必死で確かめたがっているかのようだ。
 その様に浮かぶのはやはり罪悪感で。
 どうしたって自分はこの島にとって毒でしかなり得ない、そんな思いがふつふつと身を侵していく。
 「………シンタロー」
 名を呼ばれる。答えるべき言葉を出すには今の自分の声はあまりに情けないだろうと思い、引き寄せるような腕の動きで言葉を返す。
 それを心得ているように頷いた子供は、言葉を返さない無礼を許すように隣を歩く大人を見上げた。
 大きな、腕。自分の倍はある高さの肩。よじ登らなければ彼の顔をのぞくこともできない、今の自分と彼の距離。
 未だ自分は小さくて。彼は大人のくせに、脆くて。
 自分達はどこかがチグハグだ。互いにかけた部分を補いあうかのように。
 それでも、そんな自己満足に溺れる気はない。自分が守ってもらいたいから、彼の傍にいるわけではないのだ。
 自分こそが、彼を守りたいと、そう祈っているのだから。
 「僕はお前たちのことは知らない」
 呟く声は幼いままに。
 静かに響き、遠い距離の大人の目を緩やかに子供に引き付ける。
 「知らなくても、傍にいられるし、友達にだってなれる」
 言葉の優しさも残酷さも子供は知っている。
 たった一言がたとえようもなく悲しくなることも、幸せにしてくれることも。
 でも、本当は知らなかった。彼がくるまでその意味を理解していたのは頭の中でだけだったと思い知らされた。
 彼の言葉は全てが珠玉のように自分には輝いて与えられた。優しくて、捻くれているくせに、ひた向きで。変な大人はそれでもまっすぐな言葉を失わずに育った子供だ。
 だから守りたいと思うのだ。
 守られるようなか弱い存在ではあり得ない、自分だからこそ。
 「間違ったっていいぞ。それでも最後に、ちゃんとお前は気付けるから」
 教えたくないことはそのままで構わない。
 少しの寂しさは、それでも傍にいるこのぬくもりの優しさが癒してくれる。
 誰かが間近にいるということは、結局はそういうこと。
 痛みを与えられ、同じ腕が、癒してくれる不可解さ。
 彼は痛みを何一つ与えたくないと思っているけれど、そんなことは不可能だから。過ちは許されるものなのだと、そうやわらかな音が響く。幼く高い、その声のままに。
 悲しみを背負って生きたことは気付いている。それでもそれを怒りや憎しみに変換させるのではなく、優しさに昇華できる命だから。
 不器用なその腕が誤って傷つけることなど気にもならない。そんな些細なことよりも、彼が今ここにいる確かな現実が、何より自分には大切なことなのだから。
 「だから、いいんだ」
 そんな、泣きそうに怯えなくても。
 何一つ、彼は自分に対して不利益な真似をしていない。苦しませるための言葉も行動も、自分は与えられていない。
 大きな手のひらは自分の手のひらでは到底包めないのに、それでも必死で握りしめる。
 困ったように笑いながら見下ろす人が、緩やかに跪き、視線を同じ高さへと変えてくれるその瞬間を求めるように。
 そうしたなら、抱きしめられるから。
 この小さな腕でも、彼の頭を抱える程度のことは、出来るから。

 情けない顔をさらすことの出来ない意地っ張りな大人への。

 小さな揶揄を込めた、いたずらな抱擁。








 キリリク32850HITと32308HITの間に入るお話。
 いや………ね、だからいったじゃん。長くなったでしょうって。
 これも含めてしまうとキリリク小説の中では異様な長さになってしまうのですよ。基本的にキリリク小説はみんな同じほどの長さで完結させているから。

 まあこれで、ふと思い出してしまった戦地での声を聞きたくなくて。
 こんな小さな子供に救われてばかりの自分も情けなくて。
 いっそ聞こえなければこんな風に迷惑かけないのに……なんて考えて朝起きてみたらば。
 …………耳聞こえなくなっていたって、メンタル面弱すぎですよ。
 もっと頑丈になりなさいな。うちのシンタローは精神面もうちょっと鍛えるべきだと思うですよ。

05.3.20