世界はちっぽけだった。
この手の及ぶ範囲だけが、全てだった。
与えられるものだけで構築された、虚構の世界。

それが幸せだった事を否定しない。
ぬくもりにただ包まれて安穏として。
大好きと伝えるだけが自分の意志だった狭く小さな世界。

一歩外に出ればほら、諛言(ゆげん)が飛び交っている。
それらに左右される蒙昧な覇者ではない父は、冷酷な指先をそれらに向けるのに。

外に出ないよ。お家にいるよ。
だからお願い、耳を貸さないで。

ぽろぽろと流れる涙はたった一人耐えられる。
けれど流れた血は、絶えるには重く、深い沼。

外に出ないよ。お家にいるよ。
だからお願い、耳を貸さないで。

吐き出す言によって傷つくのは自分ではないのだ。
その命を大小に囁くにはあまりに小さな綻び。

外に出ないよ。お家にいるよ。
…………だからお願い、耳を貸さないで。





盲目の涙



 息を止めて、吐き出す。幾度かそれを繰り返す。
 小さな指先を自分の胸に押し付けて緩やかな呼吸を必死で取り戻す。
 大丈夫。………大丈夫。自分に幾度も言い聞かせる。
 ぺたぺたと顔を触っていつもと変わりない事を確認する。これなら平気。小さく笑って子供は走り出した。
 今日は言い付けを破って外に出てしまったのだ。それを知られるわけにはいかない。走って走って、短く小さなこの足を恨みたいくらい急いでいた。
 そうして辿り着いた自分のお城。自分の知っている小さな小さな世界の限界。
 ドアを開けてまだ帰っていない事にほっとする。それでももうすぐ帰ってくるはずだから、慌てて手を洗ってうがいをした。それからコップに一杯だけジュースを入れて飲み干す。喉がからからで全然足りなかったけど、約束をふたつも破るわけにはいかないからこれで我慢だ。
 暫くすると車の音が聞こえた。帰って来たのだ。パッと顔を輝かせて子供は玄関に駆け寄った。
 わくわくとドアが開く瞬間を待つ。かちゃりと音がして、夕日が差し込んできた。それをバックに金の髪が綺麗な夕日に染まる。
 「ただいま、シンちゃん。いい子にしていたかな?」
 「おかえりパパ!」
 抱き上げる為に伸ばされた腕の中に入り込み、満面の笑みで答える。
 赤く腫れた目元を見つめたその眼光がつめたく冷えた一瞬に気付かないまま…………

 あの日から外に出る事を当たり前にした。………なんとなく、気づいてはいたのだ。自分の生活の異常性を。
 決して外に出ないようにと言われる理由は解らなくもなく、理解できてしまう程度には聡明だった事が災いだったとしか思えない。
 関わる絆がないが故に閉鎖的で盲目的な関係。それを打ち壊すには別の風を作り上げない限り不可能だ。
 どうすればいいかなど判りやす過ぎた。だから、強くなろうと決めた。大好きなものを守る為の力くらい、幼いからという理由で大人に預けたくはないのだ。
 笑う事を覚えて、勝つ為の方法も知った。父親を多少なりとも動かす仕草も覚えたし、今はもう、決してあの過去の日の後悔を再現しないだけの自信がある。
 それでも時折襲い来る怯え。微かな声で囁かれているまことしやかな噂たち。
 気にしなければ、いいのだ。自分が傷つくからそれらは蔓延る。くだらないと一笑してしまえばいい。子供でなんかないと、周りを騙してしまえばいい。涙など見せず小馬鹿にした笑みで居丈高に言えばいいのだ。
 たったそれだけで守れるのだ。安いものではないか。
 震える自分の小さな指を眺めて、笑う。………笑い方を思い出す為に。
 こんな姿は決して見せられない。見たなら、どれほどの命を失うのだろうか。考えるだけの気力すら湧かない。
 守りたい、のだ。だから決して繰り返したくはない。
 その一番簡単な方法も本当は知っている。けれどそれを実行するだけの勇気もなく、その愚かさを非難は出来ても賛同できないからこそ、その一歩を踏み出そうとは出来ない。
 小さく息を吐く。
 「………なんだ、まだガキか」
 不意に溜め息を聞き付けたかのような声音で驚いたような音が降った。
 本当に……唐突な音だった。ここは自分のお気に入りで、しかも決して一族以外のものは入り込めない敷地の奥地だ。ここまで入り込めるとしたらここの持ち主である父親にかなり近しくなくてはいけない。自分を溺愛している父だから、自分の側には安全なものしか置こうとはしないから。
 それらは必ず父の監視下で面通りを行ってから実行される。が、その音を聞いた事はなかった。記憶力には自信があるのだ。一度見た顔、聞いた名前は忘れない。
 それは初めて聞いた音だった。ひどくまっさらで、透き通っていた。なんの重みもなければ気負いもない、自然すぎる音に一瞬違和感が残るほどだった。
 「妙に思い詰めた雰囲気だからもうちっとでかいかと思えば……ガキがこ難しい事考えてんなよな」
 呆れたような言い方で、それはひどくぶっきらぼうで。そして、まるで心を見透かしたかのように真っ直ぐな言葉だった。
 息を飲む。初め、声に、驚いた。………それ……なのに。
 ―――――いま一面に広がるのは眩い金。
 長く長い美しい鬣
たてがみ
。見惚れるように見上げた視線ににやりとその人物が笑った、どこか、自分と同年齢にさえ思わせる余韻が不可解だ。
 「なに惚けてやがる、ガァキ」
 くつくつと笑う音と一緒にたばこの匂いがした。顔を、顰める。それに気づいても笑うだけでなんの弁解もしない。
 「………あんた、だれ?」
 ここは自分の家。自分のテリトリー。そしてそこに踏み込めば、鉄槌が下る。自分が泣けばそれだけで消える命がある。それを知っているから、泣く事を忘れた。
 そんな事をこの男が知るわけはないけれど、どこか哀れんだ瞬きがその目の奥にあるのが判る。
 なんでかなどわかりはしない。だから、聞いた。あるいは答えなど望んではいなかっただろう問いかけ。
 「さあな?」
 まるでそんな気持ちを見透かしたかのようにはぐらかす。背の高い、すらりとした男。金の長い髪が風に舞う。………鮮やかなそれに。逸話が甦る。
 決して自分は会う事の出来ない人の話。もうこの世にはいないはずの人。それでも、焦がれた。
 「もしかして……ぼくの、おじいちゃん…………?」
 「はあぁ?」
 小さくなっていく声で精一杯の訴えを押し出した唇が男の声にびくりと噤まれる。
 訝し気な視線で遠慮なく見つめられる。見据えられる、といった方が的確か。
 「だって、パパが言ってた。パパのパパはキレイなたてがみのような金の髪だったって。ライオンのようにおおしいんだぞって」
 だから……と、声がまた小さくなる。
 俯きなにかを言おうか迷ったように指先で服をいじる子供を眺め、男は息を吐く。……金の長髪という事だけで孫を作られてはかなわないと言うように。
 「なあ……おじいちゃん」
 子供の中では祖父に決定してしまったらしい現状に口を挟もうかと開きかけた唇が、閉ざされる。不機嫌に跳ね上がっていた眉が驚いたように丸められた。
 ……………なにかを押し殺し、願い望む為に捧げるものを惜しまない殉教者の穏やかな顔。
 幼い子供が晒すには大人びてい過ぎて、違和感がある。それはなにも願ってはいけないのだと、そう言い聞かせているような不自然さ。
 「ぼくをつれていくの?」
 どこか遠くに。………いまいる世界ではない世界に。
 夢見るように囁くにはあまりに思い音に愕然とする。………一瞬、今目の前にしている子供が自分と同じほどの歳月を生きた男のように、見えた。
 「………なに馬鹿な事いってやがんだ」
 「ばかじゃない。おじいちゃんとならいいなって、おもってたんだから」
 「だからばかだっていってんだろ」
 誰かも知らない、見た事もない祖父にどんな理想を重ねているかは知らない。父親から夢物語のように理想化された姿を語られ続けたのだろうけれど、そんなまやかしに縋る愚かさはさっさと捨てた方がいい。そうでなければ、現実世界を生きるには困難が生じる。
 舌打ちをして子供に手を伸ばす。………一瞬泣きわめかれるかと思って止まりかけたそれを、逆に子供は伸ばした腕で支えた。ぎょっとして、今度こそ動きが止まる。小さな生き物は、苦手なのだ。どう扱っても壊してしまう。自分の不注意で奪われるように。
 「でもね、おじいちゃん……ぼくはいやなんだ。パパは優しいけど、時折すごく怖い。僕が泣いたりしたら、パパは泣かした原因を消してるんだ」
 物であれ命であれ。翌日には自分の前から消えてしまう。傷つけられたからって嫌いになんかならないのに。そう訴えたくて泣きそうな顔をすれば、この上もなく優しい笑顔で愛していると抱きしめられる。
 どうして? …………そんなにも思ってくれるのに、どうして判ってくれないのだろう。傷の中からさえ立ち上がる、それだけの強さを自分が携えていると、信じてくれないのだろう。
 遣る瀬無く寄せられる眉。……幼い身にはあまりに憂愁を秘め過ぎて、感覚が狂う。こんな自分の腰までもない背丈の子供が、する顔なのか。
 「だからおじいちゃんといっしょに行けば平気だと思うんだ。パパはおじいちゃんのこと大好きだったから。それに………」
 躊躇うように、子供が俯いた。
 綺麗な黒髪が日に輝き、鈍く緑がかる。こんなにも深く沈む神秘の色を携えて生まれる命もあるのだと、初めて見た時は驚いたものだった。
 それが揺れて、自分を納得させるように頷く仕草を繰り返す。ぎゅっと、幼い指先が握りしめられた。覚悟を、決めたように。
 「それに、おじいちゃんと行ければ、ぼくはパパの子供って証拠だろ?」
 同じ場所に連れていってもらえるなら、それは同じ一族と認められているから。
 だから一緒に行くなら、祖父がいい。そうでなくては、いままで泣いた意味が、ない。
 「なあ……そうだろ………?」
 俯いた面が、開かれる。真っ直ぐに淀みなく向けられるのは泣く直前の、笑顔。
 泣きわめきたいのだと、その顔が言っている。それでも我慢して笑おうとするのは、失う事を恐れているからか。
 ………馬鹿な事をしている親子だ。どっちもどっち、互いを思い過ぎて、壊れていく。
 自分の指先しか覆えない小さな手のひらが震えている。答えてと、願うように引き寄せられる。
 いっそ引き寄せて、攫ってしまった方がいいのか。こんなにも息苦しそうに生きるより、奔放な自分について世界を見て回る方が合うのかもしれない。
 「それとも、やっぱぼくは……パパの子供じゃないから、ダメなのか? 黒髪は一緒にはいちゃダメなのか………?」
 こんな髪をしているからと呟いた瞬間に、日差しが落ちた。
 日の光に照らされて色に染められて涙が頬を滑る様に、愕然とする。7才か8才になったと、聞いていた、のに。そんな子供が口にする内容か。それでもこれほどの歴然とした差は、確かに子供にも判る。そして口さがない大人の非難や中傷だって、想像に難くない。だからこその、この待遇なのか。守る為の鳥籠こそが鳥を苦しめていると気づきもしない。
 「ば〜か」
 何と言えばいいかなんて、判らない。子供なんて育てた事はないし、関わりもしなかった。
 それでも小さな指が縋るのは、嫌ではなかった。むかし守れなかった一羽の鳥を思い出させる。今度は……守りたいと。
 絡められた短い指先を握りしめる。そのまま、自分こそが壊してしまうのではないかと思うほど柔らかな感触に眉が寄る。本当に、小さい命なのだと思い知って。
 引き寄せるのに力など込める必要もない。よろけるようにバランスを崩した肢体を軽やかに持ち上げ、肩に担ぐ。荷物のようなその扱いにただ呆然としているのはおそらくは予測もしていない事に出会って対処しきれていないせいだろう。
 そんなところは年相応だ。当たり前すぎる事にほっとした自分を馬鹿らしく眺め、意地の悪い声で肩に担がれた子供に声をかけた。
 「ガキはガキらしく大人に我が儘いやいいんだ。甘えられるときに甘えられるだけ甘えとけ。それが特権ってもんだろうぉが」
 大声で笑って、不安さえ払拭できる事を祈っている。そんな仕草、判るわけもないだろうけれど。
 …………縋るように金の髪に顔を埋める子供。想像するしかかなわないけれど、きっとこの子供にとって金の鬣は特別なのだろう。全てを許し全てを認め、受け入れる、そんな象徴。
 声さえ殺し蹲るように泣いている子供。そんな癖、持つべき歳でもないくせに。………もっと早くに気づくべきだったのか、などとは思わない。思ったところでどうしようもない事に罪悪感を持ってもなにも始まらない。
 「仕方ねぇからこのハーレム様が初めの我が儘を叶えてやらぁ。この先甘やかしてなんざやらねぇから、十分味わっておけよ?」
 日差しの方に振り返り歩きはじめた男の名にこくりと頷いたのか、疑問を示したのかは判らないがその首が揺れた。それを確認すると乱暴な仕草のまま、男は歩いて行く。肩に抱えた子供を下ろさないまま。
 「ち〜と兄貴が怒るかもしれねぇけど、そんときゃ言い訳しろよ、シンタロー」
 その代わりに、世界を見せてやろう。空の先にある風景を、鮮やかに映せる場所へ連れて行ってやろう。
 からかうような声で楽しそうに言った響きはひどく幼くて、小さく小さくシンタローは笑った。涙に濡れたままの瞳の奥でゆっくりと開花した、心。
 蹲り抱え殺すのではなく、解放して前に歩む事。奔放な金の髪が囁くように揺れる。
 自由なのだと。お前は歩いていいのだと。
 揺れる金の水面を眺め、小さく小さく笑った。
 決して消えはしない、この手のなかの金の海。

 金の鬣のライオンが、目隠し鬼を連れていった。
 涙に濡れたその頬をあやしながら、歩き方を教えていった。

 進んでもいいのだと、この背を押していった。

 

 気まぐれで風変わりで自由奔放な金のライオンが…………

 








 本当はこれがHITのキリリク小説になるはずでした。が。なんかね……人様にあげるにはシンタローの性格がねつ造し過ぎかと。

 初めは「ぼく」という一人称に合うしゃべり方にしていたんですけどね。これではグンマだ……と思う感じに仕上がったので全て書き換えました。
 それでもなお違和感。アップするかどうかも悩んだけど、まあ結構頑張って書いて長いのになったしと思って。
 読んだら軽く流して忘れておいて下さい。