空を見上げた。
風に耳を澄ませた。
波打ち際を歩いた。
ぼんやりと、微睡んだ。
キミがいなかった頃の、それは僕の全ての時間。
キミが現れてからは忘れていた。
でもずっと知っていた。
いつかまた、そんな時間の過ごし方を思い出す日が来ることを。
生まれた時のその仕草
頬を過った風は思いのほか強い。それを追い掛けるように見上げた空は曇天。この南国の空にしては珍しい暗い色に眉を顰める。
スコールでも来るかと溜め息を落としかける。朝は晴れていたからせっかく干した洗濯物を室内に取り込まなくてはいけない。もっとも空気の乾いたこの島ではもう既に乾いて気持ちのいい日の香りを内包しているかもしれないが。
それでも雨脚に追い付かれでもしたら全てがおじゃんだ。シンタローは足早に駆けはじめる。おやつの時にでも使おうと少し遠出して果物を採りにきたのがあだになったかと舌打ちしても仕方がない。家のことの一切を自分に任せっきりの子供がまさか取り込んでおいてくれるなんて、そんな真似をしてくれるわけもない。
…………もっとも、たとえしてくれたとしても自分はそんなことしないで遊んでいろとか言ってしまいそうだけれど。
子供が甘えずにいる姿は痛いのだ。あまりにも自分には突き刺さる光景。
小さな小さな弟は、外に出られない代わりに従順だった。
訪れる自分に嫌われないために我が儘を飲み込む。唇を噛み締めて、一緒にいてと言わずに手を振るのだ。さようなら、と。
遣る瀬無かった。何も出来ない自分の腕が歯痒かった。父に反抗しても簡単にあしらわれる自分という存在が恨めしかった。いっそ同じように幽閉でもされていた方がまだ………………
思いかけて息を飲む。そんな莫迦らしい結論、到底認められるわけもない。自分が苦しいから同じ立場になりたいなんて。いまそれで苦しんでいる弟を蔑(ないがし)ろにするも同然ではないか。
埒のあかない自分の思考に苦笑する。こうして駆けているいまの自分が、それでも思い馳せるのはいまも一人悲しんでいるのだろう弟のこと。
………そう思い込もうとしているのかも、しれないけれど。
たったひとり自分だけを救いのように腕を伸ばす小さな腕。それを拒むにはあまりに小さくいとけなく……細く弱々しい。
自分だけはそれを見捨ててはいけない。そうずっと思ってきた。今もまた、思い続けている。それは誰にも否定できない事実であり、現実だ。もう既に弟のことは身体の一部にも近いほどに思っているから。
それでも不意に思い浮かぶ残像がそれを掠れさせる。
我が儘で不遜で。向こう見ずで腕白で、どこまでもどこまでも自分勝手に駆けていってしまう小さな子供。
そのくせ自分が打ち拉がれるその瞬間を誰よりも鋭敏に感じ取ってその手を伸ばしてくれる。そばにいると示すように。
頬に冷たい感触。………雨が降り出した。
駆けていた足とは裏腹に全く周りを見ていなかったから気づくのが遅れてしまった。空の暗さは既に夕方といっても疑えないほどになっている。この様子では一気に大雨になってしまう。一段と加速させ、シンタローは眼前のシダの葉を乱暴に凪いで広がるはずのパプワハウスを見遣った。
思った通りまだ洗濯物が取り残されている。暗い空のした干されているそれらはどこか薄ら寒い。肌に感じる雨の粒は量を増し、慌てて駆け寄ったシンタローは皺のことなど念頭にも置かずに洗濯物たちを乱雑に掴んだまま家の中に避難しようと踵(きびす)を返す。
「おいパプワ! ドア開けてくれ!」
すぐに駆け込めるように服を掴みながらシンタローは室内に向かって大声を出した。頬を雨が伝い落ちている。予想はしていたが自分の身体だけではとてもではないが抱えた服たち全てをガードなどできな状況になってしまった。
駆け寄ったドアは、けれど微塵も動かない。別に両手が塞がって入れないというわけでもないので服を落とさないように注意しながらシンタローは眼前のドアを開けた。………もう家に帰っているのだろうパプワとチャッピーの反応のなさに目を瞬かせながら。
「おい………?」
僅かに小さな声が谺する。がらんとした空間が眼前に広がっていた。
一部屋しかない家だ。見落とすなんて器用な真似は出来ない。だから見えているそれが事実。
愕然とした自分に、驚いた。
外は雨。………それでもこの家にいないからといってパプワたちが雨に打たれているなんてことはあり得るはずがない。
この島全てがあの子供のもの。どんなものだって喜んでその腕を伸ばしてくれる。だから心配する必要などあるはずがないというのに。
何故、身震いするのか。
まるで恐れるかのように。
小さく息を吸い込み、シンタローは腕の中にある湿った洗濯物をテーブルの上に置く。
家を出たあととまるで変わらない。子供たちが散らかした様子もないのだからまた誰かのところにでも遊びに行っているのだろう。そう思いながらもそわそわしてしまう。
雨の音がひどく耳に谺する。こんなにも雨が大きな音をたてるなど思いもしなかった。
声が響く、そんなことすら稀なのだから、自分の溜め息が自分の耳に残るなど、それこそ………………
そう思い、また、溜め息が落ちる。
いつもいつも時間に追われていた自分にはこんな降って湧いたような静かな時間は不安しか呼ばない。もっと騒がしくて破天荒で…………そんな慌ただしさこそが心安まる。………微笑める。
もうすっかり毒されている。そんな風にごちて見ても仕方ない。
どこかできっと遊びながら雨が止むのを待っているだろう。もしかしたら少しくらい、自分が待っているかもしれないとか考えているかもしれないが。
ふと脳裏を過るのは寂しげに窓を見つめる弟。
…………その幼い姿が我が儘を飲み込む瞬間の癖を、覚えてしまった。
そして自分はもうひとりの幼い子供の我が儘を覚えている。本当の我が儘だけは、決して口にはしないで飲み込んでいる小さな子供。
「………………………」
立ち上がり辺りを見回す。まだ夕飯の準備には早いし、洗濯物は……帰ったらアイロンがけをすれば皺もとれる。そう自分に言い訳のように呟いて振り返る。
その先にある扉を開くために……………
雨が降ってきた。その空を見上げて少し眉を顰める。
すぐに帰るつもりだったのだ。だから何も言わないで出かけてしまった。ちょうどシンタローは出かけていたし、驚かせてやりたかったか黙って来たのにこれでは逆効果かもしれない。
どこかで雨宿りでもしているかと考えるが、それも打ち消す。家を出た時に風に揺れる洗濯物を見た。家事をきっちりやりこなす彼が、それをそのままにして自分だけ濡れないように、なんて考えるわけもない。
足下でチャッピーが小さく鳴く。まるで心配するような仕草に苦笑した。
「違うぞチャッピー。僕じゃない」
心配されるのは自分ではなくて、シンタローだ。彼はやたらと自分を子供扱いする癖があるから。
普段は見せないそれは、怪我をしたり危ない真似をした時とか、そんな時に年相応の扱いをしてくる。普段はまるで対等なくせに。
それが何かを重ねているが故の癖だと、解ってはいる。
似ているいないに関わらず、彼は同年代の子供を見たなら憂えてしまうものを抱えている。それをなくしたいなんて考えない。それは、抱えているその相手すら忘れろと迫ることなのだから。
だから何も言わないで甘受する。その優しさは決して居心地の悪いものではないから。………暖かい、から。
肌を滑る雨の感触が増える。仕方なくパプワはチャッピーに目配せをして駆けはじめた。
早く帰らなくてはいけない。出来れば彼よりも早く。
そう考えながらその実、思っている。
帰ったその時に驚いた顔をした彼が迎えてくれることを。顔を顰めて怒ったような仕草でタオルを差し出してくれる、その瞬間を。大きな手が髪を拭く感触は好きだった。今までそんなことがなかったからくすぐったくて、その手を守らないとなんて、思うのだ。
いままで守ろうなんて考えたこともなかった。この島は優しくて。……何一つ傷つける要因はなくて。守らなくても誰もが笑顔だったから。
ただ彼だけは憂えた顔をなくさないから。……守ろうと、思った。大きな大人の彼が自分を守ろうと思ってくれていることを知っているから。
たったひとり、ずっとこの島にいた。
空を見上げて時間を潰して、風に耳を澄ませて微睡んで。
チャッピーと競争をしたり、島のみんなと唄ったり。いろんな楽しいことはいっぱいあるけれど。それでもふと空いたその時間、なにもやることがなく思う相手がいなかった。
みんなそばにいたから。いつだって心開いて向けてくれたから。心配も不安もなかったのに。
たったひとり彼だけが自分に教えた。だから自分は空いた時間を使う術を知ったのだ。
こんな風に彼が喜ぶんじゃないか、なんて……甘い香りをただよわせる蜂蜜を分けてもらいに行ったり、とか……………
駆ける足が早まる。急がないといけない。
腕の中の密壷を雨に汚さないように庇いながら、それでも全力で駆けた。
もう少し、あとちょっとで自分の家が見える。彼がただいまと言いお帰りと言ってくれる自分の家。
雨は本格的に降り注ぎ、もう濡れていないところなんて皆無だ。それでも駆ける速度は変わらない。
そうして開けた視界の先、ゆっくりと開かれた扉。
「シンタロー!!」
楽しく弾んだその声に、どうか気づいて。
いつかはいなくなる優しい友達。それでも自分は与えられた。
ひとりぼっちの時は知らなかった、ぼんやりしていた時間の有効活用法。
キミの笑顔を見れば、自分も嬉しいから。
だから、笑って。
そうして自分の名前を呼んで。
「パプワ、チャッピー?! お前らずぶ濡れじゃねぇか!!」
そうして叱って。その声が響く瞬間が、好きだから。
でもなによりも。
「お前この蜂蜜欲しいって言っていただろう。分けてもらったぞ」
笑って、抱き上げて。
…………その笑顔のためなら、雨に濡れるくらいかまわないから……………
ふう、年越しに小説書いたよ。アッハッハ。
………はい。去年から書き残していました。ごめんなさい。
でも書ききれてよかったよ。
ぼんやりしている時、誰かを思えるのは幸せだと思うのです。
その人のためになにかしたいと思えることも。
そうしたら何もしない時間が、かけがえのない時間に変わるだろうから。