空が、凍っていた。
寂しいと囁く度に、空が凍る。
冷たく冷たい空間で、たった一人で立ち尽くす。
凍った世界で寂しく独り。
零れた涙を知っている人は誰もいない。
誰にも……教えないから。
知らせない。見せない。伝えない。
思ったことは同じだったのに、なんで生きた道は違うのだろうか。
あたたかく包まれて生きた。寂しささえ包み込んだ強き子供。
全てを拒否して生きた。反発することで己を保っていた、大人。
それでも出会ってしまった必然は、絆などという言葉で括れないほど強固な繋がりを形成してしまう。
涙を見せないよ。
誰にも……囁かない。
だって知ったら………
君は泣くだろうから。
お前は、慰めてくれるから。
流れ星の絵
見上げた空の高さに青年は細く息を落とす。
…………それが白く染められる筈のないことを知っていても、一瞬凍えるような冷ややかさが身体を襲った。
それを顰めた眉でやり過ごし、青年は改めて辺りを伺う。
特に何の気配もしない森林の影、探している幼い腕はどこかと見やるが一向にそれは見つからなかった。
かくれんぼ気分でまたわざと姿を消しているのだろう子供の考えは看破出来るが、如何せん実力が上の相手だ。いくら自分がその他大勢とは違うレベルまで登り詰めていても、計りすら違う子供相手ではどうすることも出来ない。
困ったような吐息は、けれど苦笑した唇から漏れた。
………幼い我が侭が、嫌いなわけではなかった。
勿論、時と場合と……その限度にもよるけれど。
それでもあの腕は本当に自分が嫌がることをすることはなく、いつだって楽しませようと……自分の笑みを見たいのだと尊大な瞳で囁くから。
つい許してしまう自分の腕に躊躇う思い。それが幾度積み重なっても………なくせない。
いつかは自分はここから消える。それは自分の願いであり望みで。
………それを子供は熟知している。
だからこそ零れる幼い我が侭を甘受することが、子供をいつか悲しませる源となることくらい、自分の経験からだって充分わかっているのに………………
それでも、離せない。
とんだ我が侭に青年の口元に自嘲の笑みが灯った。
ゆっくりと持ち上げられた腕を見つめ、精悍なその腕の先、無骨な指先にすら漲るエネルギーが冷たく澱む感覚に吐き気を覚える。
空間が、歪む感覚。
………どこか貧血の時に似た夢見心地にも近い虚脱感と現実感のなさ。
凍った空が、自分に降り掛かる。雨でもなく、雪でもない。
ただ純粋に凍てついた空間が、青年を切り刻むようにゆっくりと鋭く降り注いだ。
それを眺め、どこか冷静な視線のまま青年の面から表情が消える。
貪欲な空が、降り掛かる。…………この身を貪り地に還そうと。
そうして消え去った先、自分をもう一度思うがままに作り直そうとする……残酷で甘い、創造の御手。
金の髪の揺らめきを瞼の奥底に落とし、詰まりそうな呼気を飲み下そうと青年の唇が噛み締められた。
ずっとずっと幼い頃から消えない凍った空が自分を捕らえる。
………わかっている。それから逃げることは不可能だと。
だからこそ、強くなった。立ち向かって、それでも自分を保っていられるようにと。
忘れていたかった。……思い出したくなどない、自分を壊し、言い様に操るガラクタの糸。
それはいまもこの地に染まることのない邪の浄め。
心配など、する必要もないのに。
それでも時折もたげる恐れのようなその不安は………高過ぎる空が、茜に染まった時に湧き出る。
赤く染まった空が消えたあと、加護をなくしたひな鳥のように自分もまた無防備に捕われ……屠られる錯覚。
くだらないと首を振ったなら、不意に湧いた気配。
………現実を思い出した四肢が慌てたようにそれに反応した。
それとほぼ同時に、枝を折るような盛大な音とともに空から降り掛かった影。
判りきったその子供の姿に顔を引き攣らせつつも、正確に自分目掛けて落ちてきた幼い身体を抱きとめた。
ずっしりと、重い。
そのリアルさに、何故かほっとした。
青年が詰めた息を吐き出したと同時に響く、幼い声音。
………まるでいまここで捕われていた糸を剥ぎ取るように明るい。
「はっはっは。ナイスキャッチ、シンタロー!」
「…………はーいはいはい。わかったから下りなさい」
日の丸印の扇子を広げ誉めた子供に、げんなりと力なくいった青年。
いつもと同じ。なんら変わらない、やりとり。
だから青年も疑っていなかった。その一言で子供が渋々ながらもこの腕から飛び下りることを…………
緩めかけた腕は、けれど抱き寄せた短い子供の腕によって遮られた。
どこか縋るようなその仕草は、けれど逆に与えるようにあたたかい。
不思議な子供の行動に顔を顰め、どうかしたのかと青年が声をかけようと口を開いた。
「パ…………」
「疲れたから、連れて帰れ」
このまま降ろすなと囁いて幼い容貌は青年の肩に埋められる。
………子供扱いを好まない子供にしては珍しい仕草に訝しげに眉を顰め……さりとて無下にも出来ない我が侭を青年は溜め息ひとつで甘受した。
抱え直した腕の中、居心地のいい位置を探っていた幼い腕が定着すると、改めて青年は歩み始める。
「ったく、我が侭な奴だな。チャッピーだって歩いてんのに」
からかうような声で足元についてきている犬に声をかければ、戒めるように子供の幼い指先は青年の長い髪を容赦なく引っ張った。
短い悲鳴とともに降参を言い渡した青年の髪を指から解き放ち、子供はもう一度その肩に頬を寄せる。
…………赤く、染まっている身体。夕日に照らされた美しい肢体と共に、自分もきっと染まっているのだろう。
赤は子供を守護する色。決して、子供を傷付けない。
わかっている。だから、この色がある限り自分の大切なものもまた、壊されることはない。
それなのに赤に包まれたまま、凍ったように空を見つめていた青年。自分を探すことも忘れて……………
早く見つけろと見つめた視線にすら気づかない。圧倒的な無防備さに驚くよりも早く……身体が動いた。
宙を舞った自分を受け止めてくれた腕は、やっと自分の元に帰ってきた。
それでもまだその瞳に寂寞と恐れを溶かしてはいたけれど………………
凍った空。………それに感染したように、自分も凍る感覚。
知っている。自分も味わったことがあるから。
死ぬという言葉の意味を実感した時から、それは自分にも見える寂しい空。
でももうそれが自分を捕らえることはない。
………溶かしてくれた腕を、知っているから。
寂しいと泣くことも出来なかった自分の心を掬いとってくれた腕を、知っているから。
だからそれを返そうとしたって気づかない、妙なところで鈍感な青年は…時折思い出したようにこの島で息苦しそうに戦っている。
………自分の中に巣食う、凍った空と。
自分だっているのに。ちゃんと傍に、いるのに。
巻き込むことを畏れて。不様な姿を隠している。
どんな姿だって結局は青年は青年だと、子供はきちんと理解しているのに。
醜さを晒すことを、畏れている。子供を巻き込むことを…………
…………とっくの昔にもう、知っていることなのに。
遣る瀬無さに苛立たしげに寄せられた子供の眉を抱き締める肌は、あたたかい。凍った空を…溶かしてくれたぬくもり。
自分の空を美しくしてくれたのは、青年だった。
だから……青年の空を溶かす人は、自分でありたい。
幼い我が侭だと知っているけれど……………………
「なあ……シンタロー」
肩に埋められた唇が、小さく蠢く。囁く言葉をどこか探るらしくない音に青年は不思議そうに己の肩を見やった。
見えない子供の顔。黒く短いその髪だけが風に揺れていた。
「…………空は、凍っているか?」
わかる筈のない問い掛け。………知っているのは同じ体験を持つものだけ。
喪失とういう、底のない絶望を覚えている魂にだけ判る、問答。それに一瞬青年の身体が硬直した。
知られていることに、初めて気づいた。
………子供がそれを知っていることに、初めて気づいた。
開きかけた唇は、けれど言葉を知らず………音を作る力もなく再び閉じられる。
繰り返されたその仕草を背で感じ、子供はゆっくりと息を吸い込む。青年の匂いを含んだそれは、何故か心が落ち着く。
そうして囁いた声音は、なによりも力強いと、子供は知っている。
「お前が島にきた日、僕の空には流れ星が落ちたぞ」
ずっと……ずっと凍って雲さえも動かなかった自分の心の空。
寂しさが、拭いきれなかった。
………それでも青年が流れ着いたその日、空は瞬くことを思い出した。
動くことを知った空は鮮やかに色を変え、優しくあたたかく世界を包んだ。
青年が落とした、それは星の変化。
寂しいと泣いていた自分を掬いとってくれた腕は、確かにこの青年のものだから。
泣いているその心を抱き締めたいと思って……なにがおかしいというのだろうか…………?
縋るような仕草で、子供はけれど青年に与える。
与え難きぬくもりという名のやわらぎを………………
腕の中抱き締めている子供の小さな腕が、優しく青年の首に回り……ぬくもりを分かつように寄り添われる。
それを受け止めたまま…………青年の瞳が揺れる。
ぼやけた視界を知っている筈のない子供は、けれどそれを掬いとるようにその音を注ぐ。
……優しく拙い、その音を……………
「だから僕も…流れ星をお前にやるって決めたんだ」
一人で耐えて…意固地なままに背を向けてばかりで。
そんなままで、我慢なんかできないから。
自分を見ろと幼い我が侭がいたわりとともに降り注がれる。
青年の生きた世界なんて知らない。青年が自分の過去を知らないように。
だから分かち合えるものがあると、思うのだ。
寂しいと泣いていた同じ魂。
…………駆けることを思い出した空を与えられた子供は、いまだ凍った空の下、石像のように立ち尽くす青年の腕を取る。
一緒に生きたいから、もうこの空はいらない。
与えられたぬくもりに流れ出した空。
…………雨も雪も風も……流れ星も。
思い出したように降り注がれる。
唐突に思い出したように堰を切ったその変化に、息を詰めるように青年の喉が鳴った。
崩れるように、その足が地面に落ちる。落とされかけた子供は、けれど綺麗に着地して、息苦しそうに胸を押さえる青年を見つめた。
泣き出しそうなその瞳を見つめ、逸らされたことに少しだけ……胸が痛む。
それさえも抱きかかえ、子供は青年に腕を伸ばした。
優しく優しく動き出した空の下、蹲った青年は幼い子供に抱き締められる。
もう……一人耐える凍った空はないのだと、その腕が静かに教えてくれた。
………流れる涙を見せることは、まだ少し出来ない。
もう少し、自分の心が子供に追いついたなら……………
そうしたらきっと、囁ける。
子供の望む、友というその言葉を……………………
久し振りにシンタロー。前回はパプワだけだったしね。
たまたま冬コミの帰りによった雑貨屋に併設されていた画廊(というのか?)の1つの絵に魅せられまして。
凍った空、は私がそれから受けた印象です。
すごく冷たくて静謐で……切り裂かれるような虚無感の中に、どこか浄化されるような純正というか……怖いくらい透き通ったものがある感覚。
ゾクゾクッと久し振りにきましたね☆
寂しさとか切なさとか、多分きっと、簡単には消えないです。
消したつもりにはなれますけどね。
だから辛い思いをした人ほど、大切な人を作り易いのかなーと思います。
それがいいことか悪いことかはまた別問題。
………少なくともこの二人は、最高の友達を手に入れることができたのだろうと思いますし。
望むものが望んだ形で与えられることはまずないけど、それに近しい形にするのは自分の努力も必要だと思います。
どう生きるか、なにを感じているか。
ふと考えながらぼんやり辺りを見回す私は多分変な子(笑)
まあそんな奴にもちゃんと友達はいるからいいんですけどね☆