目を閉ざせば、闇。

耳を閉ざせば、静寂。

口を閉ざせば、沈黙。

どの感覚も知っている。
幾度となく訓練された。
この身は破壊するための術をよく心得ている。

だから、知っている。

あの断末魔を掻き消そうとして閉ざされた、聴覚を。





視える言葉、視えない思い



 朝起きた時、違和感はあった。
 首を傾げてシンタローはそのまま起き上がり、隣で眠る子供と犬を起こさぬように注意しながら立ち上がる。微かに小さな腕が動き、消えたぬくもりを探す仕草が見えた。
 それに気づき、シンタローはしゃがみ込んでパプワの頭を撫でて手を添えると、その小さな手のひらをタオルケットの中に腕を潜らせた。まだ残っているぬくもりに安心したようにその指先は開かれ、シーツに添えられた。
 それを確認してからもう一度立ち上がり、シンタローはドアへと足を向ける。いつもの癖で足音を殺しながら。
 ドアを開ければ外は快晴だった。鮮やかな空の青に気持ちよさそうに背伸びをすると、つい漏れる独り言。
 「      」
 呟き、眉を顰める。
 いくら無意識に漏れる声だとしても、さすがに呟いたことくらいは自覚がある。そしてそれはきちんと自分にも聞こえるはずだ。嫌な予感が脳裏を過り、一度息を飲み下すと、深呼吸をしてからもう一度声を出してみる。
 喉が、震えた。空気の振動も感じる。音は、おそらく正しく出されているだろう。憶測でしかないのだが。
 「…………………」
 自分の状態を理解して、シンタローは深く息を吐き出した。
 音が、全く聞き取れない。違和感があって当たり前だ。いつだって何かしらの音に満ちたこの島の中、自分の中でだけは一切が沈黙している。
 何か原因があっただろうかと考えて、簡単に思い付く辺りが嫌になる。メンタル面の弱さは自覚していたが、こうも顕著だと不甲斐無さ過ぎて落ち込む気もなくなった。
 とにかく朝の仕事は済ませなくてはいけない。そう長い間のことではないだろう。過去にもこうした症状は経験していた。………不名誉ではあるが。
 その経験を嫌々ながら思い出しながら考える。差し当たり、問題はないだろう。
 聞こえなくとも読心術くらいは心得ていたし、大体のことは気配で掴める。そもそも人のコミュニケーションの8割方はジェスチャーが主なのだから、そう考えれば気は楽だ。今の生活で関わる相手といえば子供と動物だ。それらは大人以上に言葉に頼らず生きているのだから、ばれない間に治る見込みもある。
 そう算出し、ホッと息を吐くとシンタローはまた小さく独り言を漏らしながら朝の仕事に取りかかっていった。

 朝ご飯の匂いが漂ってきた。機嫌のよさそうな鼻歌が聞こえた。少しだけいつもよりそれは大きく、眠っていた目蓋が震え、開かれる。
 眼前には茶色の毛皮が広がっており、嗅ぎ慣れたチャッピーの匂いがする。お互い目を覚ましたのは大差なかったらしく、チャッピーもまた目をこすりながらパプワを見上げていた。そうしてまるで悪戯を思い付いたかのようにちらりと台所に立つ青年の背中を見遣る。
 それだけでお互い十分だった。
 そろりと起き上がり、布団から脱出すると気配を殺してシンタローの背に近付いた。
 その手に包丁がないことを確認する。それから、火加減を見てみる。香りもいい頃合いだ。もうそろそろだろう。
 にっとチャッピーと目配せをしながらもう一歩、近付いた。これであとはジャンプしたなら飛びかかれる距離だ。
 味見をする仕草。頷き、納得したのだろう、火が止められた。そうして自分達を起こすために彼が振り返る。
 瞬間に、飛びかかる。
 「今日の飯は何だ?」
 「わ〜うっ!」
 上機嫌の、弾んだ音と一緒に。
 それはさして珍しいことでもなく、大抵は気配を殺したところで最後に蹴る床の音や、自分達の大声で彼はすぐに態勢を整えて自分達を取りこぼさないように抱きとめてくれる。その大きな両腕でいとも容易く。
 だから本当に無防備に自分達はいつだって飛びかかっていた。最低限の、刃物や火には注意をしているけれど。
 それは当たり前で、彼がその程度のことで狼狽えるわけもない。
 それ、なのに。
 「………ぅゎ…?!」
 噛殺し損ねた、悲鳴。聞き逃すほど自分も犬の耳も悪くはなく、そんな距離ですらなかった。
 体は条件反射のように確かに自分達を抱きとめてくれた。何一つ危険なく。優しいぬくもりの中、不可解そうに子供は眉を寄せる。
 それを見下ろしてシンタローは首を傾げて問いかけた。
 「……なんだよ、揚げ豆腐が嫌とかぬかす気か?」
 「違う」
 「じゃあナメコのみそ汁か?」
 「好きだ」
 「じゃあなんだよ」
 「………いや…多分、何もない」
 自分の言葉に淀みなく答えるシンタローを見ながら一瞬湧いたはずの疑念が掻き消されていく。どんな違和感があったのかが、隠されてきてしまった。確かに何か変だと思ったはずなのに。
 そんな子供に変な奴と笑ってシンタローは抱えたままの二人を地面におろし、テーブルの支度をするように声をかける。
 元気良く答えるチャッピーに比べ、どこか腑に落ちないように眉を顰めたパプワは返事もそこそこに布団を畳むためにシンタローに背を向けた。
 その小さな背中を見ながら勘がいいなどと悠長に考えていることも出来ない。思ったよりも単純なことでへまをしそうだ。
 現状を知られたなら子供は気に病むだろうし、心配もするだろう。自分のことで年端もいかない子供に不安を与えることは避けたかった。それはどこか、幸せな笑みだけを与えたい弟への感情に似た、庇護する対象への情。
 結局この島に感化されていると軽く息を吐き出し、シンタローは朝食の盛り付けをはじめる。皿の数を数え、ぶつかりあって音などたてないように注意をしながら。
 そうして注意しながら盛り付けつつ、ふと考える。あの食欲旺盛な子供のことだ。自分と同じ位は軽く平らげそうだ。この皿では小さいだろうかを見遣りながら、振り返る。
 「シンタロー、スプーンの方がいいか?」
 チャッピーがテーブルを拭く隣、箸とスプーンを見比べていたパプワはちょうどいいタイミングでこちらを振り返るシンタローの、まだ中途半端な背中に問いかけた。
 その答えで置く方を決めるはずだった手のひらには、右には箸が、左にはスプーンが握られている。
 答えがすぐに返らないことに不思議そうにシンタローに目を向けてみれば、彼は既に盛り付けた皿を持ったままいつもと変わらない声音で、いったのだ。
 「パプワ、お前何個くらい食べられる?」
 ひとつこれくらいだけどと皿を少し傾けながらしゃがみ込んで自分達に見えるようにしたシンタローに眉を顰める。彼が、答えを与えずに質問するなど、今までにはなかった。
 強い違和感が胸の中を駆ける。でも、それが何を意味するかが解らない。
 ぎゅっと両手で箸とスプーンを握っていれば、シンタローはようやくそれに気付いたかのように軽く指差しながら、いった。
 「ああ、箸でもスプーンでも使いやすい方にしとけ。別に崩して食べたからって叱りゃしねぇーよ」
 もっと箸をうまく使えるようにと練習中なのは先刻承知と笑う彼をじっと見上げる。
 優しい、いつもと同じ笑み。
 それなのに、どこかが違う。
 まっすぐに自分を見てるはずなのに、何かが違う。この、違和感。
 問いかけたいことが何かあるはずなのだ。そう思い、唇を開く。
 が、言葉は生まれない。なにを問いたいかも理解していないのにかける言葉があるわけもない。
 躊躇うように口を閉ざし、俯きそうになりながら少し乱暴に箸をテーブルに置いた。それを見て、シンタローは申し訳なさそうに呟いた。
 「悪い、パプワ。今なんて言った?」
 軽く眉を垂らして、困ったように笑う。そうしていった言葉は、この上もなく、変な単語。
 目を瞬かせて、彼を見遣った。
 彼は、自分達と同じように耳がよかった。いま自分が言葉を出さなかったことは、たとえ耳がよくなくたって理解できただろう。何せ音が出ていなかったのだから、問い返す理由がない。
 何を言っているのだろうと彼を改めて見上げた瞬間、理解した。
 この、違和感の正体。
 解った途端に、腹が立った。無性に、腹が立って仕方がなかった。
 「別に何もないぞ」
 荒々しく、いう。声の流れだけはいつもの通り。でも、音域は僅かに高く怒りを呈して。
 普段からの無表情をこんなときは幸いした。彼はその言葉を聞いて違和感を感じずに納得したように頷き、背中を向けたのだ。
 わざと声にだけ出した、感情に気付かないで。
 いつもだったらすぐに気づくくせに。声にだって仕草にだって、誰にも気づかないほど小さくほんの僅かに滲ませただけで、まるで水に落とした絵の具のように、一瞬で気づいてしまうくせに。
 まっすぐに自分を見ている振りをして、見ているのは自分の目ではなかった。
 その視線がたどり着く先は、唇で。声の音域の差さえ、彼は気付かない。
 それだけの材料があれば推理は容易すぎる。推理にすらならない、ただの事実だ。
 まだ左手に残ったままのスプーンを見遣る。それを、無造作に床に叩き付けた。乱雑な音が響いた。耳のいいチャッピーはすかさず耳を押さえてその金属音から逃げたというのに、この不快な音のなか気づきもしないで彼は背中をさらしたままだ。
 最後の、これが確認だった。これだけあれば、自分の怒りは十分正当だった。少なくとも、自分の中では。
 「シンタローっ!」
 叫ぶ。声の限りのようにして。
 彼の名を、これ以上ないくらいの大きな声で叫んでみれば、小首を傾げて伺うように彼が振り返った。それは声に反応したというよりは、自分の気配に反応したという方が、より正しいだろう戸惑い方だった。
 「お前、何を隠している」
 彼に近付きながら睨む視線を留めはしなかった。
 まっすぐに、糾弾するというよりは、悲しみに満ちた双眸。
 「へ? なにいってん……」
 その目にぎくりと息が詰まる。勘付かれたかと思い、慌てて子供の顔を見つめる。何一つ取り残さないように、子供の言葉を見つめるために。
 そうしたなら小さな指先が、闇を作った。
 片手では両目を覆うこともできない小さな手のひらが光を閉ざすようにして視界を隠す。それは、同時に言葉を奪う最上の手段。
 「僕の顔を見ないで答えろ! 目を瞑って、ちゃんと聞け!」
 「……………っ」
 その言葉で、ばれたことが解ってしまう。どこでドジを踏んだのかは解らないが、子供の怒りだけは十分に伝わってきた。
 当然といえば当然だろう。隠し事をされることが大嫌いな、潔癖さのある子供だ。ましてそれが体の不調に繋がっているのだから、怒りだっておさまりはしないだろう。
 なんといって取り繕えばいいのか解らず、自分の視界を押さえ込む小さな両手を手のひらで覆い、小さく謝罪を口にした。
 「………悪い、ちょっと、いま耳の聞こえが悪いんだ」
 「聞こえないくせに、言い訳をするな。どうしてお前はいっつも僕に何もいわないんだ」
 「だから、ほら……俺、口の動きでなに言っているかぐらいは解るし」
 「僕はお前に言葉を見てほしいんじゃないんだぞ。それくらい解れ」
 「日常生活くらいなら不便はなかったから……心配させるのもなんだと思って」
 「僕は子供だけど、心配することくらいさせろ」
 「悪かった。結局嫌な思いさせちまったな」
 「………お前をっ! 思うことで嫌なことなんて……ないんだ」
 「………悪かった」
 ぎゅっと、抱きしめてくれる大きな腕。欲しいと思う時には必ず与えてくれるぬくもり。
 それでも、時折この腕は見誤るのだ。自分を子供と思って、守る対象にしか、見れなくなって。
 その背を守れる相手だと、認めてはくれない。どこまでいっても彼は自分を守ろうとして、隠し事をするだろう。
 「………………っ」
 悔しくて、仕方がない。こればかりはこの小さな身を嘆く以外、術がない。
 こんな丸く短い腕ではいま抱きしめてくれる背中を包むことも出来ないのだから。
 ………聞こえないから見えないから、だからこぼれた言葉を彼はきっとこの先も知らないまま。
 どこまでも平行線の互いの祈り。
 謝って欲しいわけではない。ただ、心配するものとして認めてほしいだけ。
 こんな小さな腕でも、この大きな腕を支える一つと、思ってほしいだけ。

 たったそれだけなのにと、ぎゅっと、彼の腕にしがみつく。
 いまは聞こえないその耳に小さく小さく祈るように、囁きかけて。
 腕と同じくらいに、ぎゅっと、目を瞑る。

 あと少し、せめて、腹の虫が鳴くまでの間だけでいいから、このままで。

 視えない思いが視える言葉に現れると勘違いしている、馬鹿な大人への。

 反抗とともに与えられる、優しい子供の抱擁。








 キリリク32308HIT、パプワリクで「耳の聞こえなくなったシンタロー、隠しているがばれてしまいどうしてもすれ違う二人」という話でした。すごい端折りっぷりな説明だ。
 そしてできれば音のない世界の恐怖にたえているシンタローを、ということだったべすが。
 ………私が音のない世界に対しての恐怖心が薄いせいで出ませんでした。というか、パプワ視点で書いてしまったのでシンタローの心情ほとんど出ていない(汗)
 怖いのかな………私はたまに音のしないところでぼーっとしているのですが。結構耳塞いでいると逆に感覚が冴えるのか日差しの暑さとか風の動きとか、そういうのが解って面白いのですけどね。
 まあ私はあまり一般的な人間ではないので比較対象にすべきではないですけどね!(オイ)
 今回はシンタローが聞こえないから、ということでかなりパプワに好き勝手叫ばせてみました。
 だって普段はたとえシンタローが寝ていると解っていたっていえるわけないからさ。

 この小説はキリリクを下さった橘さんに捧げます!
 一応構想としてはこの話の前に次のキリリク小説がくるはずなのですが………予定は未定なのでなんともいえないです(ちょっと待て)
 とりあえず頑張ってみます〜(汗)

05.3.17