それは聖域。
自分の定めたたったひとつの侵し難い世界。
……初めて得た、家族以外での大切な…………………
それを手放すことはこの魂を引き裂かれることだと知った。
それが自分の前から消えることなど考えたこともなかった。
厭った振りをしながら、誰よりも固執していた。
愛しかった。
その世界が。そこに住む無垢うなる住民たちが。
守れるのなら守りたかった。
この肉体の全てで。
………魂の、全てで…………………………
耳の奥に残る音
結ばれることの無くなった髪が静かに揺れる。
あの決別の日から一度も彼は髪を結ばない。
………何故かなど、問うことさえ無意味だと知っている。
あの島の価値をこの身は覚えている。不思議しか存在しない島は人の感覚を狂わせる。
それが善きことか悪しきことかはもうどうでもいいこと。
ただその事実だけが歴然と存在する。
彼は笑わない。失ったものが大き過ぎて心が凍ってしまった。
最愛の弟は眠り続け、命を賭して守ろうとした島は永遠に彼の元から去ってしまった。
消えた白い紐。彼の髪をいつも結んでいた、純白の…………
赤く赤く染まっていた、寂しい紐は海の底に沈んで消えた。
まるで彼の心もその赤に奪われたように、消えた。
もう半年も彼は声すら出さない。
それを責めるものとてなく、労る中で彼は何も見ない瞳をそのままに海を見つめる。
人を写さず、ただ太陽に染まる美しい水面を………………
悔しくて幾度その頬を殴ったかもわからない。自分がかなうわけのない彼は、けれど一度もその拳を振り上げなかった。
痛みすらも感覚の中に組み込まれはしないのか…受けた衝撃すら気づかないかのように彼はまた海をみつめる。
自身の力のなさを痛感する瞬間。噛み締めた唇さえ無意味だ。
零す涙など持ってはおらず、イラ立ちをただ彼にぶつける。そうでもしなければ……彼はこの世界に関わる全てからあまりに遠くにいってしまいそうで怖かったから……………
鍛練もせずにいた身体は過去のものよりも幾分小さい。それを見る視線の重さは昔も今も変わらないのに…………
ずっと見ていた。彼の強さが羨ましかった。才能に溢れ、人々に愛される天性のなにかを持って生まれた彼。
そうなれない自分を知っている。そうだからこそ妬んで憎んで……愛しんだ。
その息をとめるのは自分だと、決めていたのだから…………………
この腑甲斐無い彼を殺したいわけではなかった。自信に溢れ、己の信念に一遍の迷いもなく突き進む男を、殺したかった。
………それはつまり、彼の生きる道を見つめ続けたかったが故だといまは知ってはいるけれど。
それでもこの胸は痛むのだ。
何故彼は戻ってこないのだろうかと。
自分達はいつまでも待っているのに、そんなにもあの島が…………………
「……………っ」
囁くことはおろか、思うことさえも封じてしまいたい。
彼は愛されていた。………あの島に。あの島の全てに…………
あそここそが彼の生きる舞台だった。なにも背負うことなく己自身で生きられる、彼が彼でいる為に用意された最高の…小さなあの島。
そこには弟も自分も、いままで抱えていた全てが存在しないのに……………
それでも…………
「………………そんなに……パプワ島がよかったんどすか………?」
囁く声音はさざ波よりも小さい。問い掛けというよりも噛み締めるかのようなその声。
寂しいと泣く、幼子の声………………
切ない身を包む風にさえ攫われる声は、いつも決して返ることのない答えを待っていた。
ずっとずっと、誰もが寂しく送る日々の中、関わることを恐れずにたったひとり立ち向かいながら…………
返ることのない問答。………奪われたままの彼の心。
…………知っていた。自分の囁きに返る言葉のないことを。
自分の声に、彼が答えるわけがないことを。
だから、それは信じられなかったのだ。
返るはずのない答え。開かれるはずのない唇。……見つめられるはずのない視線…………なのに。
まっすぐと振り返った彼。
澱みさえ含むことのない、この海原のように深く澄んだそれは瞬き、小さな囁きを零す。
汐の香を含む囁きは、まるであの島の旋律のようだったけれど…………
「……そう思う俺が、俺は許せなかった………」
今まで背負っていた全てを投げ出して駆けていきたいと思ってしまった。
一番大変で…一番自分が必要な時に本気でそう思った自分が信じられなかった。
だから忘れてしまいたかった。この心の内に巣食う醜い自分勝手な思いを。
囁く声音は切ないほど儚くて、彼の声音と思うにはあまりにも弱い。
震えそうな指先を叱咤して、青年は小さく息を飲むと覚悟を決めるように一歩前に進む。
彼との距離が僅かに縮む。たった一歩。けれどそれはなによりも重い一歩……………
嵐の中を進む思いで踏み出した足は、やわらかな潮風に抱かれる。やんわりと頬を撫でた風は短くなった青年の髪を静かに揺らした。
喉がひどく乾く。掻きむしりたい衝動の奥底、まぎれもない歓喜が潜む。
それでも呟く声音を抱きとめられるかどうか、考えることもできない中で囁く言葉にはいかばかりの価値があるのだろうか……………?
「シンタローはんはまだ、ここに必要どす。それから逃げるのは、卑怯やおまへんか…………?」
優しい言葉なんかかけない。自分だってかけられたことはない。
だからいいのだ。………自分達はこうして厳しい言葉を、その態度を曝せるのだから。
そういう絆があると、信じてもいいではないか。
あの島のように深くも強くもないけれど…………………
泣きたい気分で囁いたその言葉に、不意に重なる笑み。
それは本当に小さくて、錯覚のように感じられたけれど。どれほど久し振りだったか……考えることもできない。
………ずっとずっと餓えていた。
誰よりも力強く笑える彼の笑み。たったそれだけの行為で人の背を押し、勇気を生み出せる彼の魔法。
見愡れるほどに鮮やかな……
「今朝…パプワの残した花が、枯れかけていたんだ」
ずっと、心の凍った半年の間さえその世話だけは決して疎かにしなかったのに。
それでもその花弁は恥じるように萎もうとしていた。
………まるで、絡み付く鎖を解き放とうとするかのように…………………
愛しい島は消えた。けれど………それでもどこかにそれは存在するのだ。
いつまでも過去に縋り自身を恥じてからに閉じ篭っている場合ではない。
「あいつに……叱り飛ばされた気分だった」
「……………あんさんは、ほんまに馬鹿どすな」
小さく笑うその笑みさえ、誰かの為。
自分の為になにかをと願うことができない不器用な男。
だからこそ人は集うのだろうけれど……………
噛み締めるような青年の言葉に苦笑を零し、深めた笑みのままに声が囁く。
和らい、海の包容力を秘めたその声……………
「アラシヤマ、半年間……悪かったな」
一度も慰めることなく厳しい批判者であってくれた彼。それがなによりも辛いことを自覚していながら、選ぶことの出来た優しさが嬉しい。
囁きとともに伸ばされた腕が青年の頭を包み微かにその距離をつめる。
僅かに重なる額が間近な彼の目を濃く瞳に焼きつける。伏し目がちな瞳は長い睫に覆われその表情を僅かに隠していたけれど…………
綺麗な男だと思っていた。見た目などではなく、その心の清艶さに目を見張った。其れ故の強さに追いつきたくて……追いこしたくて。けれどいまだ彼の背は揺るぎなく自分の前に立ちはだかっている。
もうそれは永遠に変わらないことを知っている。
跪くことさえ恥と思わせない彼に、かなうわけがないのだから…………
落とされた瞼に微かな囁きが触れる。
…………それは深く澄んださざ波の音に紛れながらも揺るぎなく。
「俺はいつかあの島に還る。……でも今は、ここにいる。お前らの傍に………」
自分のやるべきことを知っているから。
逃げることなく怯えることなくやり遂げてみせよう。
………いつか還る日、胸を張ってあの島の浜辺を踏めるように…………………
悲しいその誓いを聞いていたのは彼の為に生きようと思った青年と、どこまでも深い海だけ。
その果てで必ず彼の島の浜を抱く、青く碧に輝く…海原だけ………………
というわけでパプワのその後の話を。でもこれはPAPUWAになる前の話でもあるかな?
ちょっとね、アラシヤマとの話を書いてみたかったのです。
そうしたらなんだか……こんな話に(汗)
でも少しの間くらいはシンタローにも精神的なショックはあったと思うんですよね。
自分の魂と同じほどに同化した世界が消えたんだから。
……それに総帥になった時期がパプワ島が無くなってから時間経っていそうだし………。マジックの髪伸びてるし(笑)