還りたい。

彼が一度だってその言葉を口にした事はなかった。
だからこそそれが痛々しいと思うのは詭弁だろうか。

人の身体を得て、人の命を見て。
生きるという過酷さに直面した時、その偉大さを痛感した。

何故お前は笑える?
何故お前は前を見れる?

何故お前は……………

願いを口にせず、それでも根底では願い続ける祈り声が聞こえる。
お前の為に作り上げた発明たち。
それでも、わかっていた。

作り上げたこれら全てを自分が憎んでもいる事を…………





切なさの融合



 ギシギシと皮張りの椅子を揺らしながら手に持った書類を見つめる。
 図形とともに書かれた次元ワームホールの出現場所と、そこに残留する粒子の成分結果は今後の研究を飛躍的に促進する為の武器になるだろう。………もっともそれを自分の研究というと、少々語弊を招くが。
 この研究のやりがいは認める。各界からの注目もあり、学会での談義に出席する事で過去のガンマ団の築いた汚名を払拭する為の足がかりにもなる。こういった分野は外見上の問題もあり、グンマには不向きだ。自分が率先して進出できるのだからその意義は計り知れない。
 それでも不意に思ってしまう。
 ………この研究が成功したら失ってしまうと。
 いっそのこと隠匿してしまえばいいと囁く悪魔の声音がないわけでもないのだ。それでもそれらを振り切って勢力尽くしてこれに当たっているのは、ひとえにあの男の自分への信頼に酬いいる以外のなにものでもない。
 本当なら、決別するはずだった。愚かしい争いの火種を作り、最愛の弟を長の眠りに陥らせた元凶として。
 それなのにその全てを許して、ここに残れと言った。………他の者たちが賛成も反対もしない中、彼の一言でそれは決定された。
 理由など知れない。分かれた肉体は思考も離し、思いの共有を遮断させた。だから知りたい事は自分で探らなければいけなかった。彼の事を知りたいなら傍にいるしかない。
 不機嫌に告げたその言葉をあっさりと受け入れた男の真意など誰にも解るはずはない。
 「………あいつの解析の方がよほど難解だな」
 小さく笑い、目算できた分析を脳裏に描く。デスクに鎮座しているディスクトップにそれらを打ち込む。脳裏を過る文字と手の速度はほど同じだ。一言一句書き逃す事はない。
 カチカチという音すら追い付ききれないその作業の早さを誇る気はない。この程度では誇るわけにはいかない。
 早く……早く知り得なくればいけないのだ。
 あらかたの仮説と推論を打ち込み終え、そのデーターをバックアップすると小さく息を落として電源を落とす。………と同時に、視線を中空に向けた。
 座った状態からその角度はちょうど自分と同じほどの背丈の人物の視線に合うのだ。
 「気付かないなんて珍しーな」
 含み笑いながらしてやったりと口の端を押さなく持ち上げた相手から視線を外し、キンタローは立ち上がりながら答える。
 「気付いていたが何も言わなかっただけだ。………お前はいつもこういった時声はかけないからな」
 微かな自嘲を込めて囁かれた声にきょとんとシンタローが首を傾げる。………今の短い会話の中に彼が己を卑下する理由を見いだせなかったからだ。
 「オイ」
 解らなければ聞かなくてはどうしようもない。そうした疑問を含めて呼び止めれば背中を向けられた。それは極自然な仕草で、普通に見たならただ単に自分の為にコーヒーを入れようとしているだけだろう。
 それでも自分には解る。直感が、告げるのだ。
 ………彼が自分の言葉から逃げている、と。
 「キンタロー、こっち向け」
 むっとして語尾を強くする。逃げられる覚えなどないのだ。
 眉根に剣呑なものを孕ませ眼光を鋭くすれば大抵のものが困ったように述懐を述べるのに、この男はそうはいかないから厄介だ。
 声には答えず動こうともしない。小さく息を吐いて睨んだままの背中をつぶさに観察する。
 ………あの島で、身体を得た男。あの頃のどこか殺伐とした怯えは消えてゆったりと余裕すら見せるようになったけれど、それでもまだあやふやでもろいところがある事をシンタローは知っている。
 お前が解らないから傍に置けと、奇妙な事を言った日から始まった半共同生活。自分を輔佐させるのにはうってつけの相手である事は正しく、こうしたいと言うより先にその意向を読み取ってくれる。その居心地の良さは認めるけれど、だからといってそれにべったり甘える気も溺れる気も毛頭ないのだ。
 これは、自分が拾った。捨てられて打ち拉がれていたから、自分が拾ったのだ。
 拾われた自覚すらなくすり寄る相手は甘やかす事ばかりで未だ甘え方も感情の拠り所も学んでいない辺り、器用なのか不器用なのか判断しかねるけれど。
 「出来たぞ。アメリカンだが、文句は言うな」
 もう夜中といって差し支えのない時刻だ。本当ならコーヒーなど出したくはないが、この部屋には眠気覚ましようの飲み物しか置いていない。不首尾を自覚して少々不機嫌な顔をしているキンタローを見遣り、苦虫を潰したように顔を顰めてそれを受け取る。
 「…………そんなにいやか?」
 「違うわボケーッ!!!」
 学術的に言うなら自分の数倍の位置に居座っているくせに、どうして事人間関係ではこうも幼いのか。  ………否、それは違うのか。
 怒鳴った瞬間にふと気付く。困惑した、キンタローの顔。よく考えれば自分は彼のこういった顔をよく見知っているが、他の者の意見を聞くと常に無表情で冷静沈着という見解が主だ。
 もしかして、自分は思い違いをしていたのか。
 ふと湧いたその言葉に、ようやく先ほどのキンタローの言葉の中の僻
ひが
みの意味を知った気がした。
 ……………本当に、不器用な男だ。こんなにも渡世をそつなくこなすくせに、自分には幼稚園児並の対応しか出来はしないのか。
 彼の研究の全てが自分の為だと、知っている。それでもそれを止めなかったのは、何でもいいから彼が自分でやろうと思った事をやり遂げさせようと思ったからだ。
 決して、早くあの島に還りたくてではなかった。
 ………彼等の元から消えたいから、黙認していたわけではなかった。
 けれどそれを自分は一度でも彼に言った事はない。………どこかで、手を抜いていたのかもしれない。自分が彼の思考を読み取れるように、彼もまた自分の全てを理解していると思い込んだ。
 もう、自分達は別の人格。別個の人。解っていながら、見過ごしていた。あんまりにも近すぎて、忘れ果てたのは自分。………自分の願いを追って、それを叶えようと痛みながらも進む彼を見ているつもりで見ていなかった。
 なんと浅はかで、愚かな事か。注がれるものに気づかないなど、これほど愚直な者がいるだろうか………?
 息が詰まる思いに占拠された胸裏が痛い。………痛む事すら、偽善と解っているけれど…………
 受け取ったカップをそのままデスクに置き、酸素を求めるようにシンタローは歩を進める。否、進んではいなかった。背を向けた瞬間に、凍てつくように縫い止められた。
 その、声に。
 「………還りたい…のか?」
 痛ましそうに悲しむ声が、言った。願うならいつでもそれを後押ししようと決意した哀れなほど幼い声。
 ………何故それほどまでに自分になど、価値を与えるのだろうか。自分はなにも出来ない。憤って立ち向かう、それしか出来ないのに。
 こんなにも優しい命が、自分の為に潰える事すら厭わずに生きるのはおかしいのだ。もっと自由を手に入れて、そうして羽ばたくべきだというのに、刻印づけされたひなは戸惑ったままただただこの背を追いかけ傍にいたいと乞い願う。
 噛み締めた唇が、くだらないと囁くはずだった。
 いま生きているのはここなのだと、言うはずだったのに。
 ………囁きは形成されず、殺した嗚咽が唇にのぼる。決して彼には晒したくはなかったそれは、けれど消えてはくれない。
 飲み込もうと息を吸い込んだ瞬間、それを掬い取るかのように伸ばされた腕。
 「………それでも、構わない、から…」
 うまく笑えないと眉を顰めて呟いた声はどこまでも嘘で……どこまでも本当だった。
 あんまりにも渇望を込めて、それでも捧げられた音に切なく眉を寄せ、シンタローは瞼を落とした。
 …………もしかしたらあるいは、許すべきではなかったのか。
 傍にいるという、その事を。
 この心の所存を知っている彼には、どんな言葉も決して覆す事の出来ない神聖なものを刻まれている。自分であったときに、それは根底に根付き決して枯れるこのない花を咲かせた。
 それを知っているのは自分と彼だけ。そして、彼だけが自分の中のその重さと尊さを如実に理解してしまっている。
 だから、決めたのだろう。………片割れたる自分の為に出来る事全てを行うと。
 あの………終結の日。いっそ潔いまでに首を差し出す彼を断罪するのではなく生きる事を求めた。
 自分と同じほどの肉体。同じほどに逞しく、同じほどに頑強で。…………同じほどに、脆い魂。
 痛々しいほどその生き方は辿々しくて、思いの表現すら拙い様にこの腕を与えられるだけ与えてしまった愚かさ。
 己の羽根だけで飛べるのだから、そんな過保護をせずに見送れば良かったのだ。そうすればこうして自分の為に痛み苦しむ事もなかったのに。
 息を飲み、唇を引き締める。…………泣く気など、ないのだ。あの清らかな島は自分にとっての聖域。それはどれほどの時が流れても決して変わる事のない決定事項。
 けれど……だからといって、それだけを糧に生きるにはこの世界は未だ凍えるほどに寒いのだ。
 自分を抱きとめる腕に力が入る。答えない自分を訝しむよりも、最悪の結果に絶望しているように小刻みに震える腕。
 求める事を厭いながら願う声音で幼い者が囁く。……掬いとってと、縋るかのように。
 「傍に………」
 「間違えるなよ」
 綴る音を遮断し、シンタローの凛とした音が響いた。
 まるで全てを切り裂く雷光のように煌めく、彼本来の胆力を秘めさせた平伏さずに入られない覇者の音。
 それを耳に入れ、瞼を落とす。………断罪されるなら、この音がいい。
 不要なのだと切り裂かれるなら、その音だけを胸に抱いて果てる幸せもあると、そう思わせる不可思議の音が降り注ぐ。
 「いらないもんなんざ、初めから持とうとなんかしねぇんだからな」
 欲しくて。………本当に欲しくて、だから腕を伸ばし続けたのだ。
 勝手な解釈でいなくなる事も、それに許可を欲する事も認めてなんかやらない。
 己の意志で自分の傍にいればいい。許すも許さないも、自分は口には出来ないのだから………
 それでも願う事くらいは、アルのだ。崇高な祈りにはほど遠い、質素で当たり前すぎる祈り。
 ちっぽけで見落とされがちなそれを忘れるなと示すように、縋る腕に重ねられた無骨な指先。震えを慰めるそのぬくもりに、噛み締めるように唇を噤んだキンタローは間近な肩に額を寄り添わせた。

 …………こぼれ落ちた水を、知られたくはなかったから……………………








 イラストをそのまま挿絵に出来るようにしてみましたv
 ………っていうかね。見事にね。
 私の中でキンシンの映像がショウさんのイラストで形成されています(恥)
 なのですっごく小説書きやすかったです(笑)

 作り上げた全てはシンタローの為のもの。でもそれらは全部、自分の傍から彼を離す為のもの。
 笑顔が見たくて願いを叶えたくて。
 そうして頑張ったのに、それを手放す事を覚悟しなきゃいけない。
 ………そんな必要はないんだぞって、教えてもらわなきゃまだまだ不安なお子様なのです(笑)