見上げた先にはいつも黒い髪がたなびいていた。
やわらかそうでもなければ なめらかそうでもなくて。
どちらかというと固そうとか、強情そうとか、そ んな印象があった。
そしてそれは多分あっていた。

彼が頭を撫でられている姿を覚えている。
………かなり幼少の頃だ。
嬉しそうに瞳を細 めて大好きと伸ばしていた小さな指先。
それをどれほど愛しいと思っていた か。

もうそれは決して誰にも伸ばされない。
頭を撫でてなど、願っ てもくれない。
痛みに打ち拉がれて癒されたいのだと慟哭して。
……… それでも彼はその全てを誰にも見せない。

知っているのは彼の中にいた 、自分ひとり。





流れる血の中に組み込 まれていたもの



 手を開いて、閉 じる。
 無骨な指先が窮屈そうに拳となり開かれる様を眺めながらなんとな く違和感を感じてしまう。
 もうこの身体になって久しいというのにいまだ 慣れない。否、慣れようとしていないというべきなのか。
 ずっと見つめる だけだった全てを手に入れて、いまだ戸惑っている。
 欲しくて欲しくて、 そうしてひょんなことから手に入れて。………いくつかの傷を生みながらも煌め く命は確かに器を手に入れた。
 手放したならいまはもう死しか呼ばない身 となって、それでもどこかで別のことを考えている。
 不可解なことこの上 ない。こんな感情、少なくとも昔は知らなかった。
 そう考えいたり、不意 に得心がいった。
 自分の感情でなければ誰の感情か。
 …………元は 共有していたたったひとりの人のことを思い出し、微かな溜め息がもれる。
 こうして悩み苦悩し、それでも前を向くことに自分は不向きだ。悩むくらいな ら打ち消してしまう。いらないのだと破壊した方が楽になりやすいと知っている から。
 けれど彼はそれとまるで逆をいく。
 辛いと叫びながら微笑ん で、全てを抱え込む。そうして壊れていくのだ。ほんの少しずつ、けれど徐々に 蝕まれていく至純の魂。
 どこまでもどこまでも清らかに在りたいと思いな がら、それ故に穢れていく。
 意固地な態度の裏にある気遣う思い。同時に 、傷つけたことを知っているからこそ生まれるいたたまれなさと新たな傷。
 不器用な生き方しか覚えることの出来なかった過去の器の持ち主を思えば鬱屈 とする。
 ………嫌いなわけではないと、思う。ただ少し苦手なだけ。
 彼に近付けば近付く分、自分が壊れる。彼に傾斜してしまうことくらいわかっ ていた。
 ずっと一緒だったのだ。強制的な双児に産みつけられ、奪われた 肉体を妬みながら………それでも彼の生き方とその思いの深さに圧倒されていた 。
 彼がいる限り自分はひとり立つことも出来ない。だから壊そうと思って いたのに、壊れることなく花開く姿に目を奪われる。
 ………こんな大輪の 花をつけることのできる存在、知らなかった。多分、彼自身は本当に知らないだ ろう。彼だけが持ち得た、それは慈しみすら内包した厳かな受難の花
パッションフラワー

 突き付けられた事実に壊れ ることすらない姿が痛かった。……自分とは決定的に違うのだと見せつけられる ことが怖かった。

 自分だけが知る彼が在るように、彼だけが自分を知 っているはずなのに。
 ………………彼だけが自分を理解してくれるはずな のに。
 誰にでも心開くわけでもない癖に、心砕いてしまう性根が嫌いだっ た。
 自分だけを認めてくれればよかった。それはまるで母親を求める赤子 のような独占欲に満ち満ちた我が侭。
 「どうしろという………」
 そ んなもの抱いたところでどうなるわけでもない。
 彼は母親ではなく、自分 は赤子ではない。…………そしてそれが故に燻るものは肥大し、蠢く度に醜悪な 憎悪にすら変わる。
 欲しいのはそれほどたいしたものではない。そう、少 なくとも自分は思っている。
 ただほんの少し彼の傍に。昔ほどの距離を求 められないことくらいはわかっているから。
 軽く落ちた溜め息に重なるよ うに響いたノックの音にびくりと肩が跳ねる。
 …………物思いも程々にし なくてはいけない。ドアまで近付いた相手に気づかないなどとんだ失態だ。
 そう思いながら軽く頭を降って立ち上がる。短くなった髪が頬を掠めて少し鬱 陶しかったが見ない振りをしてドアに集中した。気づいてみればなんとはっきり した気配か。彼の気配に気づかないわけがない。もう隠すその癖すら見知った仕 草なのだから。
 躊躇いがちだったノックはいつまでも開かれないドアに訝 しげにもう一度鳴り響く。おそらく困惑した顔で立っているのだろう彼に小さく 笑う。
 時間はもう夜に差し込む。もっともあまり労働時間というものに括 られることのない職務の人間には朝も昼も、まして深夜であったとしても関係は ないが。
 根を詰め過ぎる彼を諌め続けて、いい加減鬱陶しく思われたのか 休暇を押し付けられて、なにをすることもなく日がな一日家にいた。多分そんな ことくらいはわかっているのだろう。自分の友好関係を彼はよく知っているから 。
 そして心配でもしてやってきたのか。あるいはあの叔父のように解雇で も言い渡しにきたか。
 どちらにしてもこのままでは埒もあかない。ドアを 破壊される前にと含み笑いながらキンタローはドアノブを捻った。
 「…… …っと?」
 もう一度と振りかざされていたらしい拳が宙を切り、ドアを叩 く寸前に止められる。
 久し振りに見た、髪を括った彼の姿。よく見てみれ ば着ているものも職務用のスーツではなく私服だ。
 珍しいものを見つめる ように言葉もなくしげしげと眺めてみればさすがに居心地悪かったらしく露骨に 顔を歪めた。
 「…………なんだよ、文句でもあるのか?」
 普通の服 だって着るに決まっている。あんな派手な服、私用で立ち寄る時には注目して下 さいといっているようなものだ。
 不貞腐れたような物言いに楽しげに唇を 上げ、キンタローは玄関を解放するように脇に寄る。
 「いや、その方がい い」
 少なくとも自分の忠告は聞き入れてくれたらしい。……もっとも、そ れがいつ着替えられたものかまではわからないのだから完全にとはいい難いが。
 それでもまだその姿を見ている方が安心出来る。 
 ………彼が彼として 、少なくとも生きていることを教えてくれるから。
 疑っているわけではな い。彼の生が今更道を外せるほど穢れていないことを知っている。
 ……… …穢れが祓われる瞬間を、自分は知っているから。
 あの島の中、生きると いうただそれだけの行為で彼は純化された。精一杯を晒す術を身につけた。…… ……本当に心砕くことを覚えた。
 他の誰も教えることの出来なかった全て をあの島にいる生き物は教え刻んだ。小さな小さな指先が弛むことなく伸ばされ て微笑みを教えた。
 わかっている……けれど。それは決して内側にいた自 分が与えられる変化ではなく、接触も出来ない自分には理解を示すことは出来て も抱き締めるぬくもりすら待ち得なかった。
 悔しいなんて思う気はない。 思ったところで詮無き思いだ。
 ……………過去を憂えるのなら、自分のそ れすら憂えられる。
 悼んだなら、自分も悼まれる。
 だからもう過去 にそんな物思いは示したくはないのに、それでも振り切れないのは……いまもま だこの身体に残された彼の思い故か。
 「どうかしたのか?」
 それで もそれを突き付けたいとは思わない。…………突き付けて、知らしめたくない。 彼の中の感情がいまもまだ自分を苦しめるなど、彼が知ったらどれほど自分を責 めるかわからないから。
 こんな瞬間に、柄にもない優しさを知って驚く。 彼を憎んでいるのではないと、嫌ってはいないのだと確かに思えるのは、彼を傷 つけるものを好まない自分を知っているから。
 やんわりと笑んだ姿を、多 分彼以外は知りはしない。せいぜいもうひとりの従兄弟……グンマくらいか。
 「別に。……ちょっと疲れた」
 お前がいないと仕事の勝手が違うから気 疲れしたと苦笑して、当たり前のように室内に入る。無意識か、まるで自室にい るような自然さで。
 憔悴しているとまではいかないが、それでも確かに色 濃い疲労が刻まれた顔を隠すようにシンタローが俯いた。明るい照明の下では日 に灼けているはずの肌が青ざめて見えてしまうことを知っているのだろう。
 「随分素直だな」
 それに意外そうな声を返す。………大丈夫だと肩肘を 張らない姿が少し意外だった。
 長い髪を掴んで少しは睡眠をとれといって も書類を片付けると言い張る彼と喧嘩した記憶は新しい。
 それを彼も思い 出したのだろう、少しだけ困ったように笑って、そうして不敵そうに自分を見や った。
 「お前に意地張ってどうなる」
 わざとらしい溜め息に込めら れた確かな信頼。
 ………喜びも悲しみも憤りも。あらゆる感情の全てを知 り尽くされている相手に、今更なにを取り繕えというのか。
 他の誰にも見 せられない嘆きすら、見られている。否、共有しているというべきか。
 そ れでも確かに意地を張ってかわせないことだけはわかっている。
 ………… だから休みにきたのだと偉そうな態度で言った相手に苦笑がもれる。
 我が 侭で奔放で。それでも誰よりも人を思うことに長けてしまった雁字搦めの自由な 王者。
 たったひとつの望みすら手に入らず、いまは微笑みを向ける小さな 指先すら手放してしまったひとりぼっちの淋しい人。
 だから支えとなりた いと寄り添うものも多いけれど、潔癖な魂はそれを由としない。
 それでも 自分はいいのだと、彼は言う。
 なにもかも知られているから、だからいい のだと。
 …………いまもまだこの身には彼の残した感情が燻り時折思い出 したように自分を揺さぶるけれど。
 それこそが彼が心開く理由だというの であれば構わない。
 差し出したグラスを笑んで受け取り、我が物顔で室内 を歩く姿を視界におさめ、ゆっくりとキンタローは瞼を落とす。

  静かに静かに蓋を閉ざされる、いまはもうなくてもいい過去の哀しみを見やりながら……………







サ イト掲載用の方が「硝子」がコンセプトだったように、メール添付用にも全作共通のコンセプトをつけてみました。
「些細な日常」という感じです。
そ して何故か今回書いたのはキンタロー。いや、彼書きたくなっちゃったんですも の、本誌見たら!
………早く神話シリーズ書きたい(次回は彼が冒頭部分)

身体にすら染み付いた感情、というのはあると思います。
無意識というか… …嗜好というべきかもしれないですが。
ただそれはどうしようもない部類に 入るもので、自分でも何故かわからない。
でもそれは厭うものか好むものか は本人次第。
自分にとってマイナスであると同時に、あるいはそれはプラス にもなるのかもしれないから。