初めに知るならそれがいい。
理解したいのはあなただから。
まだ何も知らない自分のために
どうかあなたの声で教えて。





筆にのせて夢思う



 「ほら、これもってみろ」
 「………生き字引の筆か?」
 渡された小さな筆を見ながらパプワが顔を顰める。これは漢字を書けない自分には何の意味もないものだし、おもちゃにもならない。つまらないものを渡されたとありありと解るその表情を見ながら、シンタローは苦笑した。
 「違うっての。これはただの筆」
 「こっちはなんだ? ずいぶん薄っぺらだな」
 「ああ、そっちは半紙だ。動かすなよ、その敷物ないと駄目なんだから」
 教えられたものの名前を口の中で反芻しながら、パプワは手にした半紙をゆっくりと戻す。少し乱暴に扱っただけであっさりと破けてしまいそうで少しドキドキした。
 初めて見るそれらを繰り返し目で追いながら、知らずぎゅっと筆を握る。これから何が始まるのか解らない期待と不安がせめぎあっている。
 いつも以上に仏頂面になっているパプワを見ながらぽんとシンタローは軽くその頭を叩く。緊張するようなことではないのだ。せっかくの正月なのだからと、ついこんなものを用意してしまった。
 誰もこの子供にこうした季節の行事を教えていないから、せめて自分が傍にいる間だけはそれらを与えたいなんて……不遜なことだと解っている。
 解っているけれど、それでも思う気持ちを防ぐにはあまりにこの島は和らぎに満ちていた。棘つく思いすら溶かす、その癒しの空気が息をする度に染み込んでいくようだ。
 「これはな、書き初めっていうんだ。日本でもまあ……学校くらいでしかやらねぇけどな」
 「………………? なにをするものなんだ」
 筆に紙。そうくれば字を書くのだろう。が、今日わざわざやるその意味が解らないと顰められた眉で問う。好奇心に僅かに煌めいて見えるのはひいき目ではないだろう。いつだって自分が何か新しい行事を披露するときは楽しそうに関わってくるのだ。そうは見えないその表情の中、確かに躍動する感情を自分は感じ取れるようになってしまったから。
 …………それ故にこの先与えるだろう子供の傷が、時にひどくこの身を苛むのだけれど。
 そんな憂いを与えるのは今はまだ先の話だ。楽しむべきときは決してそれは思い出さぬよう、シンタローは軽く息を飲むと小さく笑った。
 「一年の抱負とか、夢とか、そういうものを書くもんなんだよ。ま、こ難しく考えねぇで、何か書きたい言葉でも書いてみな」
 解らない字があれば教えてやるからと付け加えればむっとパプワの顔が顰められる。今はまだ漢字を書けない身にはその申し出はありがたいけれど、面白くないこともまた事実だ。その言葉には特に答えず、じっと集中しているかのように半紙に向かう。
 大体予想どおりの反応に苦笑を浮かべるだけで気にもしていないシンタローは後ろから何を書くかを覗き込む。まだ書くことが決まっていないのか、パプワの腕は動いていない。はしゃいで何でも書き始めるかと思っていたのにとその腕を見てみれば、手のひらにはしっかりと握りしめられたままの筆。
 「ん? パプワ、持ち方が違うぞ」
 手を添え、その持ち方を正しいものにかえればパプワの視線が自分の手のひらに注がれていることに気付く。どうかしたかと同じく腕を見てみるが、特に何も変わりはない。軽く首を傾げるが、それを振り切るようにパプワは前を向いた。
 じっと半紙を見つめながら、考える。
 じっと……ただひたすらに脳裏に浮かぶ言葉を隠したくて。ただ考えた。
 せっかく正しく直してくれた指先さえまた握りしめるそれに変わってしまう。
 これ以上なにも書かずにいることはあまりに不自然だと思うのに、いつものようにはしゃぐことが出来ない.それが何故かなんて、解りきっていた。
 ………抱負とか夢とか、なんて言うから。
 隠し込んでいたものが頭をもたげてしまう。
 大好きなその声がいうにはあまりにもそれは優しく悲しい。自分の夢を、その願いを叶えられるたったひとりの人は、けれど決してそれを叶えることはない。そして自分もまた、それが叶わないことを承知しているのだ。
 だから言いたくない。知られたくない。これ以上、彼に悲しみを味わわせたくもない。この島では、誰もがただ幸せであれるのだから。
 「………シンタロー」
 小さく彼の名前を呼んでみる。
 それは小さな小さな祈りの声。
 「なんだ?」
 それに答えてくれる優しい声は、いつかは消えてしまう。それを知っている。解っている。
 「ちゃんと見本くらい見せてからやらせんか! お前が先に書け!」
 乱暴に、飲み込む息を隠すように言葉を吐き出し筆を押し付ける。
 我が侭に。ただひたすらに我が侭に振る舞えるたったひとりの人。ぎゅっとしっかりと握りしめたその指先を見つめて、シンタローの唇がやんわりと綻んだことさえ、不貞腐れたその面では見えはしなかったけれど。
 小さなその指先を包み込み、シンタローはそのまま半紙へと筆を滑らせる。
 「仕方ねぇな」
 微かな笑いを含んだままにそう呟いて、見上げるパプワの視線を半紙へと促す。
 さらさらと手慣れた風に小さな指先を包んだ大人の指先は、子供の夢をのせて半紙を染める。

 本当の願いも夢も、決して言葉には出来ないことを知っているから。
 お手本などという逃げ道でそれを書く。
 ……………僅かな卑怯さを許してくれる子供のぬくもりが
 ただひたすらにあたたかく、指に触れていた。








 まあお正月から書き初めするのはそうはないでしょうけどね。
 そこはそれ、シンタローですから。パプワに正しい行事を教えているのですよ。

 半紙に書かれた言葉がなんであるかはご想像にお任せします。
 あなたの好きなお言葉でどうぞ書き上げて下さい。

04.12.30