1
ふと、本当にふと思い立った。
ここは日本からは遠く離れた島で。
自分の故郷ともいうべきガンマ団からさえ、隔絶した島、で。
だから、ここでなら笑ってもいいのかもしれない。
そんな……不遜なことを。
ふと考えてしまった。
「………………………」
夢見がどうのとかではなく、あまりにくだらないそんな感傷に嫌気がさして深く息を吐き出した。
幼い子供ではないのだ。笑いたければ笑い泣きたければ泣く、そんな当たり前の感情の吐露、大人は行えない。
悲しくても笑うだろうし、笑いたくとも我慢する場合もある。
そもそも自分の生まれや育ちを考えたらそうあることの方が普通であり、感情のままの表情の方が異質だ。
そう、分かっているというのに。
同じ布団の中、未だ眠りの中の子供と犬の健やかな寝息。
耳に触れたそれにあたたまる胸を感じ、それに感化されたようにやんわりとほころんだ唇を隠すように手のひらで覆った。
優しい感情は誰だって好きだろう。それを拒むのは、傷付き続けた人だけだ。裏切られ続け、渇望しながらもまた傷付くことを恐れて拒むことはある。
そしてきっと……自分はその類いだろう。
思い至り、息を飲み込む。奇妙な嚥下音が小さく喉奥で響くが子供も犬も気付かなかったらしく寝息に変化はなかった。
それを確認してほっと息を吐き出すと手のひらを唇から離して布団に添えると天井を見上げた。
狭い家だ。子供のために作られただけあり、大人の自分が入るには少々窮屈にも思える。
けれど、ここは何もかもが優しいもので出来上がっている。そこにいることを居たたまれなく思い息苦しさに吐き気を覚えるのは………やはりそういうこと、なのだろう。
「……………」
とうにそんなもの克服したつもりでいた。
けれど同じくらい、それを忘れるものかと己に刻み付けた。
ずっとずっと、自分だけは忘れない。あの日この腕から奪われた小さなぬくもり。遠く離れることを強制され、涙のなか別離を突き付けられた。
あの泣き顔が笑顔に変わるまで自分も笑わないと。
誰にたてたでもなく自分は誓った。…………自分の笑みを愛しいという父への反発のように。
そうだというのに。
吐き気に、胃が捩じれそうだった。
救われたいなんて思わない。
癒されたいなんて願わない。
唇を噛み締めて固く目を瞑る。狭い天井を闇に閉ざし、それでも降り注ぎそうなぬくもりを拒むように青年はうつむいた。
それはまだ、この島に馴染めなかった頃。
自身の存在意義さえ、忘れ果てたちっぽけな魂の泣き声の軌跡。
パプワ島にきたばっかりでまだ誰にも気を許せない頃のシンタローの話。
それでもここが心地よくて、素のままに振舞いそうな自分を自制している頃。
不器用な男だな……本当に。
06.1.5
2
見上げてみればそこにはいつもの青年の顔。
空は青く海も青く。雲は白く波も白い。
気持ちいい風もいつもと同じ。駆ける砂浜の心地よさだって変わらない。
それでも分かる。気付いてしまうようになったのはいつからだっただろうか。
「……………」
いつもと変わらない子供の顔の中、いつもよりも強く引き締められている唇が微かに噛み締められる。
青年はいつもと同じように笑って怒って怒鳴っている。島の住人たちが近寄ってくれば他愛無いじゃれあいも垣間みれる。
それでも分かる。どうしてなんて分からないけれど。
ただ分かってしまうから、子供はその小さな唇を噛み締めた。それがどういった感情からくる仕草なのかまではよく分からないままに。
俯いてただ何かを言いそうな自分を諌めるために噛み締めた唇に、突如痛みが走った。
「……………っ?」
驚いて目を瞬かせながら指先を口元に寄せた。軽く唇を辿ってみれば唾液が粘着性を増して指に絡まる。 不可解に思いそれを見遣ってみれば指先が仄かに赤い。
噛み切ってしまったらしい唇にびっくりして目を見開く。生まれてから今まででこんな風な真似をしたことがあっただろうか。
さして長くはない人生を振り返って、思い当たったたった一度の出来事が脳裏を掠める。
悲しくて悔しくて、置いていかれたことがただただ寂しくて。
一緒にいたかったのだと、空に向かって泣いた幼い日。自分を育ててくれたじいちゃがいなくなったあの夜、確か自分は同じように噛み締めた唇を赤く染めた。
大切だったのだ。かけがえがなかったのだ。その人がいればただ幸せで、一緒に笑っていられるのが当たり前だった。
まさかいなくなるということがあるなんて……考えたこともなかったのだ。
涙の流し方を知らない自分は痛くて悲しい思いを吐露することが不得手だった。噤んだ唇は悲しさをただ沈めるだけで浄化してはくれない。
涙の代わりに噛み締めた唇に滲む血が、痛みとともに辛くてもいいのだと教えてくれた。血が出るくらい痛いのだから、痛いのだと思ってもいいのだと。
それがどうして今、同じようにしているのだろう。
赤い指先に瞬きながら見入ってみれば、間近から音が聞こえた。
「パプワ?! お前、何やってんだよっ」
慌てたような声が響き、次いで自分の手が引き寄せられた、自分よりもずっと大きな手のひらが包むようにして幼い小さな体を抱き上げる。
間近によった青年の顔。痛ましそうに眉が顰められ、切れた唇を見つめている。
「あーあ、こりゃ暫く滲みるぞ?」
深くはないが浅くもない。食事のメニューを考えなくてはと抱えた子供をいたわるように抱きしめながら青年は柔らかな音で囁いた。
その音に、ほんわかと胸があたたまる。先ほどとは違う、嬉しい変化。
「………おい、シンタロー」
青年の肩に顎を乗せ、ぎゅっと丸い短な腕をその首に絡める。体全部で抱きついて、朗らかな明るい声が彼の名を呼んだ。
「あんだよパプワ」
それに返るのは当たり前のような青年の声。先ほどのように彼の目は遠いどこか異郷を思ってはおらず、ここにはいない誰かを見つめてはいない。
まっすぐに自分を見つめ答えている確かさ。
それがくすぐったくて嬉しくて、子供は抱きしめる腕に力を込めた。
「今日のおやつはプリンがいいぞ!」
「お前傷に滲みるぞ?」
呆れたように青年は自分に抱きつく小さな体を抱きとめて息を吐き出す。
傷にしみない、栄養価の高いおやつは何がいいかと考えながら、無意識に子供の背中を慰めるように軽くたたく。
優しい仕草は少しだけ切なさを内包している。
けれどそれは全てが辛いわけではない。青年の中にはここ以外の帰る場所があり、そこにいる人が彼を育んだのだから仕方のないことだ。
そして今彼はここにいて自分の傍にいることを諾としている。
それだけが全てだ。…………自分を思い頭を悩ませている青年に嘘はない。
ぺろりと唇を舐めてみれば苦い味と一緒にぴりりとした鋭い痛みが走った。
けれどその痛みもまた、この腕の中に優しい命が脈打っていれば暖かい。
そうして脳裏にきらめくのは自分勝手で我が侭な祈りの言葉。
子供は固く目を瞑り、青年の肩に顔を埋めて身勝手な願いを飲み込んだ。
今こうしていることが幸せなのだと、そう自分自身にいい聞かせながら…………
嫉妬なんて言葉、知らないけれど。
それでもどうか傍にいるこの瞬きの間だけは。
自分達のこの島のことだけを、考えて。
なんというか、健気にパプワがシンタローを思っていますよ。
でもうちではあまり珍しくもない(苦笑) うちのパプワはシンタローへの独占欲それなりに強いからなぁ。
どっちも大切だっていうことは我が侭ではないし本心だから、きっと子供は文句がいえないのです。
それでも必死に自分のことを見てほしいってアピールして。そういう姿が微笑ましくて可愛いのですが。
たっぷりと愛情を信じられるくらいに愛されていれば、不安も少しは薄くなるのだと思いたいですね。
06.2.14
3
ほんの少しの寂しさと、溢れるほどの愛しさと、決別を思う悲嘆の混ざった、不器用なその笑みを。
ふと昔いた場所に似ているな、と。思うことは罪でもなんでもないんですけどね。
それでもなんとなく罪悪感が湧くのは多分、そこに帰りたくてももう帰らないと決めているからなのかもしれないです。
大事な思い出も慈しんでくれた全ても、全部捨てる覚悟をしてしまえば、過去の記憶は寂しさや悲しみが付随してしまうのでしょう。
………捨てないで全部背負って生きられるほど強い人間は、多分居はしないのでしょうけど。
06.3.31
4
「…………プワァ?」
「…………………………」
「お、起きたか?」
瞼をあけると日差しは入り込まなかった。長身の青年の影が自分とチャッピーを包んでいる。
見上げた瞳は一瞬、不思議そうに瞬き、その後に思い出したようにほころんだ。
「遅いぞ、シンタロー!」
その名を呼んで、腕をのばす。差し出された青年の腕はしっかりと幼い指先を包み、子供を起き上がらせた。
隣で眠るチャッピーもまた目を覚まし、起き上がると跳ねるようにして青年の肩によじ登る。同じ位置にきたチャッピーと視線だけで笑いあう。
やっと、思い出した。
夢の中、消えてしまった名前。誰もいなかった砂浜。
もうこの島の一員なのだと、誰もが受け入れ認めている自分と同じ肌をもつたった一人の人を。
はじめはシンタローが帰った後の話にしようかな、と思ったけど。なんだかそれだとパプワばっかり我慢して寂しい感じになるのでやめました。
子供は幸せであってほしいんだ、私は。
06.4.16
5
見遣った先には砂浜。耳に聞こえるのは優しいさざ波。
そして、全てを受け入れ許す、優しいこの島のたった一人の王様が、あどけなく眠っていた。
一緒にいたいけど離れないといけない。
別離だけは出会いの時に決まっていた未来だから。
それでも、出会ったことに意味があるはずだから、傍にいたい。
許されるなんて、願うことさえ出来ないだろうけど。
どこまでもどこまでも負い目の強いシンタローさん(苦笑)
06.10.24
6
ねえ、会いたい、よ………………?
南国からPAPUWAに繋がるまでの間は、なんだかとても切ない感じになりますね。
シンタローの方はひたすらに時間が流れてしまったような、そんなイメージも湧くのですが、パプワの方にそれはないから。
あの優しい穏やかな時間と空間で、どれくらいの思いを抱えていたんだろう。あんな小さな身体で、ほんの少ししかまだ生きていない思慮で。
そう思うと遣る瀬無くて仕方がない。子供は幸せであってほしいと願ってやみません。
07.7.3